ことばと文学

Language shapes what can be thought. These entries examine how Japanese is structured, how English changed, how stories are built, and what it means to write at all. Linguistics, literature, and the act of putting words in a row.

ことばと文学

感想文に何を書けばいいかわからない君たちへ

読書感想文を書けと言われて、一冊の推薦図書を読み終えたとする。読んでいるあいだは、まあ眠くならない程度には面白かった。でも本を閉じた瞬間に出てくる感想は「ふーん」だ。そこから800字を埋めろと言われて、途方に暮れる。 その気持ちは、よくわかる。 でも、ここでひとつだけ伝えたいことがある。感想文は、本当に何を書いてもいい。好き放題、何を書いたっていい。 少し昔の話をさせてほしい。 AIがまだ身近ではなかった頃、自分の思ったことを「それっぽく」見せるために、ちょっとした変換リストのようなものを持っていた。「なんかすげえな」と思ったら「感銘を受けた」と書く。「よく知らないけど、どうやらすごいらしい」は「心の琴線に触れた」になる。そうやって書き換えるだけで、まるで自分の感覚の解像度が上がったような気がしてくる。文筆家でもなんでもないし、自分の文章が上手いとも思っていない。ある種の処世術だ。下手くそで何が悪い、と開き直ってやっていた。 今なら、このくらいのことはAIがやってくれる。思いつくままにぽんぽんと言葉を並べて、あとはいい感じの体裁に仕上げてもらえばいい。 ただ、ここでちょっと

By Sakashita Yasunobu

技術

デジタルの紙を超えて

紙の資料がPDFになった。たったそれだけのことが、実際にはどれほど革命的だったか。そしてなぜ、それだけでは足りないのか。 紙からPDFへ 少し前まで、「資料」といえば紙のことだった。コピー機を通すたびに劣化する文字。数世代のコピーを経て原形をとどめないページ。手書きの注釈が入り混じった印刷物。回覧のために物理的に持ち運ばなければならない書類の束。それが「資料を配布する」ということの実態だった。 コロナ禍を契機にオンライン化が一気に進み、紙の資料は急速にPDFへと置き換わった。コミュニケーションツールが普及し、ファイル共有が当たり前になった。 この変化の大きさを、過小評価すべきではないと心から思う。 ニール・アームストロング船長の有名な言葉が頭に浮かぶ。 That's one small step for a man, one giant leap for mankind. 一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。 紙からPDFへ。ファイルを送るだけで同じ文書が相手の画面に表示される。文字を検索できる。拡大しても潰れない。地球の裏側にいる人に

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

道楽としてのブログ

ブログで収益を得ることについて、何度か考えたことがある。 アフィリエイト、広告、スポンサーシップ。ウェブ上で文章を書いて生活する方法は、少なくとも概念としてはいくつもある。「好きなことを書いてお金がもらえるなんて最高じゃないか」と言う人もいるし、その気持ちは理解できる。 けれど、実際にそこに足を踏み入れてみると、そう単純な話ではないことに気づく。 お金を受け取るということ アフィリエイトには、いい面がある。自分が本当に気に入っている製品やサービスを紹介して、それが誰かの役に立って、その結果としてわずかな報酬が入る。自分の経験を共有することが、そのまま誰かの助けになる。理想的な形で機能しているとき、それは悪い仕組みではない。 ただ、その構造には、静かな引力がある。 報酬が発生するとなると、どうしても「報酬が発生する記事」を書きたくなる。ある商品について正直に「悪くはないが、別にすすめるほどでもない」と思っても、アフィリエイトリンクを貼っている以上、その微妙なニュアンスは書きにくくなる。自分の誠実さと収益のあいだで、小さな摩擦が生まれる。 広告はもう少し単純だ。たとえばGo

By Sakashita Yasunobu

生きること

美しさに応えるということ

日常が美しいのは、それが過ぎ去るからではない。 それ自身として美しい 季節の移り変わり、窓から差す午後の光、何気ない食卓の風景。こうしたものに心を動かされるとき、「儚いから美しい」という説明がよく使われる。やがて失われるから、今この瞬間が尊い、と。 その感覚はわかる。だが、どうしても違和感が残る。 儚さに美の根拠を置くと、美しさは「失われること」の副産物になってしまう。永遠に続く穏やかな日々があったとして、それは美しくないのか。変化しない安らぎは、美の資格を持たないのか。 そうではないと思う。日常はそれ自身として美しい。失われるから美しいのではなく、ただそこにあることが、すでに美しい。 鑑賞者がいなくても ここで一つの思考実験をしてみる。 美しさには通常、見る側と見られる側がある。鑑賞者と対象。だが、「それ自身として美しい」と言うとき、鑑賞者の存在は本当に必要だろうか。 誰もいない森の中で、光が木漏れ日となって地面に落ちている。それは美しいか。 「美しいと感じる人がいなければ美しくない」と言うこともできる。だが直感的には、誰もいなくても、あの光は美しいと思える。

By Sakashita Yasunobu

生きること

なぜ私たちは書くのか

何かを問うとき、私たちはしばしば、すでに答えを知っている。 問いの逆説 たとえば、議論の場で質問が出ない光景を思い浮かべてほしい。参加者は質問を考えているようで、実は探しているのは問いではなく、期待する答えの方だ。「こう言ってほしい」という感覚がまずあって、それを質問の形に翻訳しようとしている。少し考えれば自力で辿り着けそうだと気づけば、結局聞かない。 これは怠惰ではない。問いの構造そのものがそうなっている。 一方で、純粋に知らないことを尋ねる場面もある。明日の天気。専門外の事実。自分の経験の外にある情報。これらは情報の要求であり、検索すれば事足りる。便利ではあるが、そこに対話としての深みはない。 この二種類の間に、もう一つの問いがある。答えの輪郭はぼんやり見えている。しかし言葉にならない。自分が何を考えているのか、書いてみるまでわからない。この第三の問いにこそ、書くことの核がある。 自己との対話 書くとは、自分の中の曖昧な感覚を言語に変換する作業だ。変換の過程で、自分が何を考えていたかが初めて明らかになる。言語化された考えに対して、今度は自分自身が批判者として応答す

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

比喩の美しさと危うさ

私の尊敬する書き手たちは、比喩を魔法のように使いこなす。たった一つの比喩が、長い説明よりも正確に、読者の胸に像を結ぶ。そういう文章に出会うたびに、自分もこんなふうに書けたらと思わずにはいられない。 近年、誰もが自由に書ける環境が整い、エッセイの書き方やレトリックのテクニックについて語られる機会も増えた。比喩のコツをまとめた記事だって珍しくない。しかし比喩というのは、テクニックの枠に収まりきらないものだと思う。もっと根の深い、もっと本質的な何かが関わっている。 比喩が成立するための前提 比喩が伝わるためには、書き手と読み手が前提を共有していなければならない。 平成生まれの人に昭和の日常感覚を使った比喩を持ち出しても伝わらない。これは世代間の知識差の問題のように見えるが、本質はもっと広い。比喩は、共有された経験や知識の土台がなければ機能しない。 学術論文やIR資料に比喩がほとんど登場しないのは、この共有を保証できないからだ。多様な読み手を想定する場面では、比喩は正確な伝達を妨げるリスクになる。逆にいえば、比喩が真に力を発揮するのは、書き手と読み手のあいだに豊かな共通基盤があると

By Sakashita Yasunobu

生きること

電子のゴミ

私は自分がつくるものをすべて「電子のゴミ」と呼んでいる。 別に気取っているわけでも、深刻ぶりたいわけでもない。ただ、少しだけ正直に言ってみただけだ。 文章を書く。写真を撮る。何かをつくる。それらはすべてデジタル機器の上で行われている。物理的に見れば、CPUの演算、RAMに保持された一時的な電荷、ストレージ上の微小な磁気パターン、ネットワークを流れる電気信号。いってしまえば、電子がどこかに移動して、どこかに留まって、その程度のことだ。 もちろん、厳密にはそう単純ではない。デジタルとはいえ、その土台にはアナログな物理過程がある。何かを書く行為が世界にまったく影響を及ぼさないとは言い切れないし、ちょっとした発信が思わぬ波紋を呼ぶことだってある。 でも、と思う。 画面に映る文字は液晶の発光パターンだ。紙に印刷すればインクの染みだ。ディスプレイの電源を落とせば、表示されていたものは消える。LEDが光を放つのも、インクが紙に定着するのも、結局は物理現象に過ぎない。 自分がそのとき抱いた価値。それは、LEDのちらつきだったのかもしれないし、インクのシミだったのかもしれない。 だから、電

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ことばと文学

日本語を外から見る

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 日本語の母語話者にとって、日本語は空気のような存在である。意識せずに話し、意識せずに聞き取り、意識せずに読み書きする。だからこそ、日本語を「外国語」として捉え直す視点は新鮮な発見に満ちている。 外国語として日本語を眺めると、普段は当たり前すぎて気にも留めない仕組みが、実は精緻な体系をなしていることに気づかされる。「です」「ます」の語尾でウが聞こえないのはなぜか。「は」と「が」の使い分けを外国人に説明できるか。「雨に降られた」がなぜ成立するのか。母語話者であるがゆえに見えなくなっているこうした問いに対して、日本語学と日本語教育学は明快な分析の枠組みを提供してくれる。 本シリーズでは、日本語の音声・文字・語彙・文法・語用の各領域を8本の記事にまとめた。日本語を教える立場からの知見を軸にしつつ、言語学的な分析も交えている。個別の記事は独立して読めるが、以下の順に読み進めると体系的に理解しやすい。 音声と文字 日本語の音声体系 日本語の音の世界を概観する記事。英語のような強弱ではなく高低で

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

ポーから読むアメリカ文学

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 エドガー・アラン・ポーという一人の作家が、アメリカ文学にどれほど深い刻印を残したか。その全体像を一つの記事で語り尽くすのは難しい。ミステリというジャンルの発明者であり、アメリカ・ロマン派のもっとも暗い側面を体現した作家であり、世界文学に計り知れない影響を及ぼした存在でもある。 本稿は、ポーを起点にアメリカ文学とミステリの世界を概観するための入り口として書かれた。個別の記事では扱いきれなかった全体の見取り図をここで示し、各記事への案内としたい。 ポーが切り拓いた二つの道 ポーの文学的業績は、大きく二つの方向に伸びている。 一つはミステリの発明だ。1841年に発表された『モルグ街の殺人』は世界初の推理小説として文学史に位置づけられている。名探偵オーギュスト・デュパンを主人公とするこの短編は、密室殺人、論理的推理、意外な犯人という、今日のミステリに受け継がれるほぼすべての約束事を一作で確立した。ポーはわずか五つの短編で、コナン・ドイルからクリスティ、チャンドラーに至るあらゆるミステリ作家が立

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ことばと文学

名探偵たちの部屋

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 ミステリの主人公である探偵たちはどこに住み、どのような空間で事件に向き合っているのか。一見些末なディテールに思えるかもしれないが、探偵の居住空間はそのキャラクターの本質を映す鏡であり、ひいてはミステリというジャンルの変遷をも映し出している。本稿では思索派から行動派、男性から女性へと探偵像が変化するなかで、その住まいがどのように描かれてきたかを辿る。 二つのタイプの探偵 ミステリに登場する探偵は、大きく二つのタイプに分けられる。 一つは思索派の探偵だ。本格ミステリに登場する安楽椅子探偵たちがこれにあたる。デュパン、シャーロック・ホームズ、エルキュール・ポアロ、ミス・マープル。自らの脚よりも頭脳を駆使することを重視し、推理すなわち謎解きの面白さで読者を惹きつける。 もう一つは行動派の探偵だ。ハードボイルド・ミステリに登場するタフガイな探偵たちがこれにあたる。1920年代のアメリカで台頭し、サム・スペード(ダシール・ハメット作)やフィリップ・マーロウ(レイモンド・チャンドラー作)が代表格だ。

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ことばと文学

本格ミステリの系譜

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 エドガー・アラン・ポーが1841年に切り拓いたミステリというジャンルは、その後一世紀あまりのあいだに驚くほど多様な枝葉を伸ばした。サスペンス、ハードボイルド、警察小説、スパイ小説。それぞれが独自の魅力を持ちながら、共通の幹としてポーが植えた一本の木につながっている。本稿ではまずミステリの主要なサブジャンルを概観したうえで、とりわけ「本格ミステリ」と呼ばれる領域に焦点を当て、その技法と系譜を辿る。 ミステリの多様な枝葉 サスペンスは、主人公の不安や緊張といった心理を描くことに重点を置くジャンルだ。論理的な謎解きよりも恐怖体験に重心があり、心理小説としての色彩が強い。ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』(1942)やルース・レンデルの『ロウフィールド館の惨劇』(A Judgement in Stone, 1977)がその代表作として知られる。アルフレッド・ヒッチコックはサスペンスとスリルとショックの違いをこう説明した。「テーブルの下に爆弾が仕掛けられていて、観客だけがそれを知っている。登場人物

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

黒猫とアメリカの闇

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 エドガー・アラン・ポーは世界初の推理小説『モルグ街の殺人』の作者として知られるが、彼の文学的業績はミステリの発明だけにとどまらない。ポーはアメリカ・ロマン派のもっとも暗い側面を体現した作家でもあった。1843年に発表された短編『黒猫』は、人間心理の奥底に潜む「闇の力」を描いた作品であり、アメリカ文学におけるロマン主義の本質を理解するうえで欠かせない一作である。 アメリカ・ロマン派の思想的背景 『黒猫』を読み解くためには、まずアメリカにおけるロマン主義の位置づけを確認しておく必要がある。 西洋文学史は大きく、古典主義からロマン主義、そしてリアリズムへと流れをたどる。古典主義は古代ギリシア・ローマの理想化された作品への回帰を志向し、リアリズムは19世紀半ばに社会や日常をあるがままに描く流れとして現れた。その間に位置するロマン主義は18世紀末にヨーロッパで興起し、感情や神秘体験、想像力を重視して、形式的な制約からの解放を追求した。 アメリカにおける思想の流れはさらに独自の展開を見せる。16世

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