あたまのなか

Some things do not resolve. These entries sit with what remains open, turning it over slowly, without insisting on an answer.

あたまのなか

届かない一言

もし過去の自分に一言だけ伝えられるとしたら、何を言うか。 深夜のSNSで、あるいは終電を逃した夜のファミレスで、誰かがこの問いを口にする。哲学書の一節のような顔をして現れるが、正体はレシートの裏に書き殴られるたぐいの問いだ。誰でも答えられそうな気がする。でも、答えようとした瞬間に指の間からすり抜ける。 この問いに正面から向き合った時点で、あなたはもう袋小路の中にいる。 届いた瞬間に消える手紙 仮に、何らかの方法で過去の自分にメッセージを送れたとしよう。 もしその一言が効いて、過去の自分が行動を変えたとする。そうすると、今の自分はもう今の自分ではなくなる。今の自分が変われば、その一言を送ろうとした理由も、送ったという事実そのものも、まるごと消えてしまうかもしれない。 時間旅行の思考実験に「祖父のパラドックス」と呼ばれる有名な構造がある。過去に遡って自分の祖父の存在を阻止すれば、自分は生まれない。生まれなければ過去に遡ることもできない。原因が結果を打ち消し、結果が原因を打ち消す自己矛盾のループだ。 この問いにも、同じ構造がそっと忍び込んでいる。伝えたい。でも、伝わったら、伝

By Sakashita Yasunobu

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心を、人の心奥を、覗いてみたい?

もし明日、世界中の人間の思考が丸見えになったとする。あらゆる内面が、フィルターも遅延もなく、あなたの意識に流れ込んでくる。 さて、あなたはそれを望むだろうか。 たぶん、多くの人は「読みたい」と答える。好きな人が自分をどう思っているか。上司の本音。友人の裏の顔。好奇心は人間の根深い衝動だし、知ることは力だと、私たちはずっとそう教わってきた。 でも、少しだけ立ち止まってみてほしい。この問いの本当の重さは「読めること」にはない。「読んだあと」にある。 そもそも心なんてあるのか 哲学には「他者の心の問題(Problem of Other Minds)」と呼ばれる古典的な問いがある。あなた以外の人間に、本当に「心」があるのか。痛みを感じているのか。喜んでいるのか。それを直接確かめる手段は、原理的に、存在しない。 あなたが見ているのは、常に「ふるまい」だ。泣いている人が悲しいとは限らない。笑っている人が楽しいとは限らない。私たちに与えられているのは類推と推測だけで、それは証明とはまるで別のものだ。 だから「

By Sakashita Yasunobu

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世界はそこで終わっている

あなたが今この瞬間に感じていることを、正確に言葉にしてみてほしい。 無理だ。 「悲しい」に似ているかもしれないが「悲しい」ではない。「不安」でもない。もっと輪郭がぼやけていて、もっと捉えどころがない。言葉にしようとした瞬間に、別の何かにすり替わる。いつも少しだけ足りない。いつも少しだけ嘘になる。 そしてここに、素通りするには不穏すぎる問いがある。言葉にできないその感覚は、「存在している」と言えるのか。もし言えないなら、あなたの内側には、あなた自身にさえ見えていない領域が、いったいどれほど広がっているのか。 名前のないものは存在しない ポルトガル語に "saudade" という言葉がある。失ったもの、あるいは最初から手にしなかったものへの、甘く痛みを帯びた切望。日本語にも英語にも、ぴったり重なる一語はない。 日本語には「木漏れ日」がある。葉の隙間からこぼれ落ちる光。英語話者がこの現象を目にしないわけではない。ただ、それを一語で切り取る道具を持たない。ドイツ語には "Schadenfreude" がある。他人の不幸への密かな喜び。日本語話者もその感覚を知っているだろうが、それ

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誰も何も選んでいない

おめでとう。あなたはこの文章を「自分の意志で」開いた。少なくとも、そう感じている。 ここには答えがない。慰めも、希望も、用意していない。あるのは問いだけだ。その問いのすべてが、あなたの足元を掘り崩す方向を向いている。 読まなければよかったと思うかもしれない。でも安心してほしい。「読む」と決めたのも、あなたではなかったかもしれないのだから。 好みという化石 あなたが好きなものを一つ思い浮かべてほしい。音楽でも食べ物でもいい。 なぜそれが好きなのか。答えようとすると、驚くほど薄い理由しか出てこない。「なんとなく」「昔から」「聴いたら良かった」。どれも説明になっていない。 社会学者ピエール・ブルデューは「ハビトゥス」という概念を提唱した。人の好みや感性は、育った社会的環境のなかで無意識に形成される。クラシック音楽を高尚と感じるか退屈と感じるかは、個人の感性であると同時に、どの文化圏で育ったかの問題でもある。 友人に勧められた音楽をいつの間にか好きになる。繰り返し広告で見たブランドに親しみを覚える。アルゴリズムが選んだ動画を、まるで自分で見つけたかのように楽しむ。 では、環境

By Sakashita Yasunobu

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岩はまた転がり落ちる

朝、目覚ましが鳴る。昨日も鳴った。明日も鳴る。あなたはそれを止めて、起き上がる。なぜか、と問われたら、たぶん答えに詰まる。「仕事があるから」、「学校があるから」。でもそれは理由ではなく、状況の説明にすぎない。 ギリシア神話に、シーシュポスという王がいた。そして1942年、アルベール・カミュという哲学者が、この古い物語を使って、とても厄介な問いを投げかけた。 神々は退屈だったのかもしれない シーシュポスはコリントスの建国王にして、神話屈指のトリックスターだった。ゼウスが河神アーソーポスの娘アイギーナを連れ去ったとき、シーシュポスはそれをアーソーポスに密告した。死神タナトスが迎えに来れば鎖で縛り上げ、冥界に送られれば冥府の神すら言いくるめて地上に舞い戻った。 神々はついに、彼にふさわしい罰を考案する。巨大な岩を山の頂上まで押し上げること。ただし岩は、頂上に届く寸前で転がり落ちる。シーシュポスはまた麓に降り、また押し始める。それが永遠に繰り返される。 この罰の本当の残酷さは、肉体的な苦痛にあるのではない。無意味の反復にある。どれほど力を込めても、結果は振り出しに戻る。努力の痕跡は

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透明人間の倫理

善人はたぶんいない ひとつ、思考実験をしよう。 もし今この瞬間、あなたが完全に透明になれるとしたら。誰にも見えない。カメラにも映らない。記録も残らない。法も届かない。そうなったとき、あなたは今と同じように振る舞うだろうか。 約2400年前、プラトンの『国家』第2巻で、グラウコンがソクラテスに向かってひとつの寓話を語った。 リュディア王に仕えるギュゲスという羊飼いが、ある日、地震によって大地に開いた裂け目へ降りていく。そこには青銅でできた馬があり、扉を開けると、中には人間の骸骨が横たわっていた。その指に、金の指輪がはまっている。ギュゲスはそれを抜き取った。 後日、指輪の石を内側に回すと自分の姿が見えなくなることに気づく。透明人間になったギュゲスは王宮へ上り、王妃を誘惑し、王を殺害し、自ら王座に就いた。 グラウコンはソクラテスにこう問いかけた。もし正しい人間と不正な人間それぞれにこの指輪を与えたなら、二人の行動に違いは出るだろうか。彼自身の答えは明快だった。違いはない。どちらも同じことをする。人が正しくあるのは、見られているからにすぎない。正義とは、弱さゆえの社会的な妥協であっ

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灯りと不在

朝、目が覚める。自分がいる。少なくとも、そう感じる。 これほど当たり前のことを疑う人は少ない。目の前のコーヒーカップが存在すること、隣で眠っている猫が生きていること、電車で向かいに座っている人に心があること。全部まとめて「そりゃそうでしょ」で片づけられる。 ただ、哲学はこの「そりゃそうでしょ」をまったく信用しない。 隣の人には中身がない 通勤電車に乗っている人を見る。表情がある。動作がある。スマートフォンを操作し、あくびをし、ときどき窓の外を眺める。この人には意識がある、と思う。 しかし、それをどうやって証明するのか。 デイヴィッド・チャーマーズが1996年に提示した「哲学的ゾンビ」という思考実験がある。外見も行動も脳の物理的状態も、意識のある人間とまったく同じだが、主観的な経験が一切ない存在。痛みを感じているように振る舞うが、何も感じていない。笑うが、おかしくはない。泣くが、悲しくはない。 論理的に、この存在は矛盾しない。外側から意識の有無を確かめる方法は、原理的に存在しない。物理学も神経科学も、ニューロンの発火やシナプスの接続は説明できる。しかし「なぜそこに主観的な

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誰も聞いていない

森で木が倒れた。誰もいなかった。音はしたか。 あなたにとっては、どうでもいい話かもしれない。木が倒れれば空気は揺れる。物理としてはそれで片がつく。ところがこの問いは、少なくとも140年以上、哲学者にも物理学者にも片づけられずにいる。もしかすると、問い自体が壊れているのかもしれない。 問いは最初から壊れている 1883年、アメリカの雑誌『ザ・ショトーカン(The Chautauquan)』にこんな問いが載った。「木が島で倒れて、人間がひとりもいなかったら、音はあるのか?」。回答はこうだった。「ない。音とは空気の振動によって耳に引き起こされる感覚のことだから」。 翌年には『サイエンティフィック・アメリカン』が似た質問を取り上げ、より技術的な回答を添えている。音とは振動が耳という機構を通じて伝わり、神経中枢で認識されるものである。耳がなければ音はない、と。 問いの現在のかたち、つまり「森で木が倒れて、誰も周りにいなかったら、音はしたのか」は、1910年に出版されたチャールズ・リボーグ・マンとジョージ・ランサム・トゥイスの物理学の教科書『Physics』に登場したのが最初とされてい

By Sakashita Yasunobu

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暗闇の中でも、あなたは明日も誰かを愛そうとする

あなたの右隣にいる人間を見てほしい。その人は呼吸をしている。まばたきをしている。話しかければ返事をするし、冗談を言えば笑う。あなたと同じ言葉を使い、あなたと同じように怒り、あなたと同じように泣く。 だが、その人に意識があるという証拠は、どこにもない。 これは比喩ではない。誇張でもない。哲学が数百年にわたって格闘し、いまだに解決できていない問題だ。あなたが毎日すれ違うすべての人間について、その内側に「誰か」がいるのかどうか、あなたには原理的に確かめる方法がない。 この記事は、その絶望的な事実についてである。 確かなのは自分だけ デカルトは、あらゆるものを疑った。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、自分の身体すら、悪い霊に騙されている可能性がある。だが、「疑っている自分自身」の存在だけは疑えない。疑うという行為そのものが、疑う主体の存在を証明するから。有名な「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」だ。 ここで立ち止まってほしい。デカルトが確実だと言ったのは、自分の意識だけだ。あなたの意識の存在は、あなたにとっては疑いようがない。だが、その確実さは、あなたの隣にいる人間に

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誰もまだ死んでいない

あなたは自分が死ぬところを想像できるだろうか。試してみるといい。目を閉じて、呼吸が止まり、意識が途切れ、世界から自分という存在が消え去る、その瞬間を。 できない。想像しようとするたびに、「想像している自分」がそこに居座っている。自分の不在を描くには、不在を見届ける自分が必要になる。これは論理の欠陥ではなく、意識の構造そのものだ。 誰もまだ、本当の意味では死を知らない。死んだ人間は語らないし、生きている人間は死を知らない。つまりこの文章も、死について何かを語っているようでいて、たぶん何も語っていない。 届かない手紙 紀元前3世紀、ギリシアの哲学者エピクロスは友人メノイケウスへの手紙のなかで、こう述べた。死はわれわれにとって何ものでもない。善悪はすべて感覚のうちにあるが、死とは感覚の剥奪そのものだからだ、と。われわれが存在するとき死はここになく、死がここにあるときわれわれはもう存在しない。だから死は、生者にも死者にも関わりがない。 明快な論理だ。反論の余地がないほどに。 しかし、この完璧な議論を読み終えたあなたは、たぶん少しも安心していないだろう。エピクロスの論理は死の恐怖を

By Sakashita Yasunobu

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幸福という自殺

あなたの幸福が、すべて嘘だったとする。安らぎも、達成感も、誰かに愛されているという確信も、一つ残らず精巧に設計された幻だったとする。 あなたはその幻を壊した者に感謝するだろうか。それとも「余計なことをするな」と言うだろうか。 この問いに即座に答えられる人を、少し疑ったほうがいい。50年以上、哲学者たちはこの問いの前で立ち往生している。答えが出ないのではない。問いのほうが、底なしに深くなっていく。 影の中は暖かい プラトンは『国家』の第七巻で、ひとつの寓話を描いた。地下の洞窟に生まれ落ち、一度も外の光を知らない人々。彼らは壁に映る影を現実のすべてだと信じ、影の名前を覚え、影の動きを読む技術を競い合い、それなりに充実した日々を送っている。 ある日、一人が鎖を解かれて外に出る。太陽の光に目を灼かれ、やがて世界の本当の姿を知る。影は影にすぎなかった。 ここまではよく語られる。だが、あまり語られない部分がある。 洞窟に残った人々は、不幸だっただろうか。 彼らは何も失っていない。外の世界を知らないということは、欠落を感じようがないということだ。影を現実だと信じることに苦痛はない。

By Sakashita Yasunobu

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何でもいい

あなたが最後に「何でもいい」と言ったのは、いつだっただろう。 レストランで。カフェで。Netflixの画面の前で。誰かに「どっちがいい?」と聞かれて、少し考えて、考えることをやめて、「何でもいい」と言った。 あれは怠惰だっただろうか。無関心だっただろうか。 もしかすると、あれが一番正直な答えだったのかもしれない。 ロバは正しかった 600年以上語り継がれている思考実験がある。 完全に同じ量の、完全に同じ質の干し草の山が、完全に等しい距離に二つ置かれている。その真ん中に一頭のロバが立っている。ロバは空腹だ。どちらの干し草を食べてもいい。だが、どちらを選ぶ理由もない。条件がまったく同じだからだ。 ロバは選べない。そして、餓死する。 「ビュリダンのロバ」と呼ばれるこの寓話は、14世紀フランスの哲学者ジャン・ビュリダンの名を冠しているが、ビュリダン本人がロバについて書いたわけではない。似た着想はアリストテレスの『天体論』にまで遡ることができる。哲学の世界では、考えを生んだ人と名前を残した人は、しばしば別人だ。 それはさておき、このロバはばかげているように見える。どちらでもい

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