哲学を読む

A text was opened, and these entries follow where it leads. Bergson, Kant, Descartes, Locke, Beauvoir, Nietzsche, Merleau-Ponty, Russell. Not summaries, but readings: slower, more patient than paraphrase allows.

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu

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壊れた時計が正しい時刻を指す偶然

あなたは時計を見た。3時だった。そして実際に3時だった。あなたは時刻を知っていた。 ただし、その時計は12時間前に止まっていた。 あなたの信念は正しかった。根拠もあった。時計を見るという、これ以上ないほど日常的で合理的な行為に基づいていた。そして偶然、ちょうどその瞬間だけ、壊れた時計が正しい時刻を指していた。 あなたは時刻を「知っていた」のか。 たった3ページで崩れたもの 2400年ほど前、プラトンは『テアイテトス』のなかで知識の条件を整理した。知識とは「正当化された真なる信念」(Justified True Belief) である。すなわち、それを信じていて、それが真であり、その信念に正当な根拠がある。この三条件が揃えば、それは知識だ。 2000年以上、この定義はほぼ疑われなかった。 1963年、エドマンド・ゲティアという哲学者が、学術誌 Analysis にわずか3ページの論文を発表した。タイトルは "Is Justified True Belief Knowledge?"。何も確かではないことを示すのに、

By Sakashita Yasunobu

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数学の足元が音もなく崩れた日

数学は確実なものだと信じられていた。論理によって導かれ、矛盾を許さず、人間の感情が入り込む余地のない純粋な体系。その数学が、たった一つの問いで自分自身を疑いはじめた。 「自分自身を含まない集合すべての集合は、自分を含むか」 含むなら、定義により含まないことになる。含まないなら、定義により含むことになる。この問いには答えがない。そして、この問いに答えがないということが、数学の基礎に穴が開いていることを意味していた。 一通の手紙が崩したもの 1901年、バートランド・ラッセルは集合論の内部にこの矛盾を見つけた。集合R、すなわち「自分自身を要素として含まない集合すべてを集めた集合」を定義する。RはRを含むか。含むと仮定すれば、Rは「自分を含まない集合」の条件を満たさないから、含まないはず。含まないと仮定すれば、Rはまさに「自分を含まない集合」なのだから、含むはず。どちらに転んでも矛盾する。 翌1902年6月、ラッセルはゴットロープ・フレーゲに宛てて手紙を書いた。 フレーゲは20年以上をかけて『算術の基本法則(Grundgesetze der Arithmetik)』を書き上げて

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論理が未来を一本の線に縛る

明日、海戦は起こるか。 2300年以上前にアリストテレスがこの問いを立てた。答えは出ていない。出ないのではなく、出せない。「起こる」と答えれば未来は決定済みになる。「起こらない」と答えれば海戦は不可能になる。「どちらでもない」と答えれば、論理学の土台が割れる。 あなたは明日の予定を手帳に書き込む。アラームを設定する。友人と約束する。そのすべては、未来が開かれているという暗黙の前提の上に成り立っている。しかしその前提を論理の言葉で正当化しようとした瞬間、足元から地面が消える。 アリストテレスの罠 『命題論(De Interpretatione)』第9章。アリストテレスはここで、すべての命題は真か偽かのどちらかであるという原則、いわゆる二値原理(principle of bivalence)を未来の偶然的事象に適用したとき何が起こるかを問うた。 論理はこう要求する。「明日、海戦が起こる」という命題は、今この瞬間、真か偽かのどちらかである。もし真なら、海戦は必然的に起こる。もし偽なら、海戦は必然的に起こらない。どちらの場合も、未来はすでに確定している。偶然など存在しない。 これ

By Sakashita Yasunobu

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言葉を研ぐほど声は遠くなる

哲学書を開いて3ページで閉じた経験は、哲学に興味を持ったことがある人なら一度はあるだろう。「なぜこんなに分かりにくく書くのか」、「わざと難しくしているのではないか」。この疑問は自然だが、答えは「半分当たっていて、半分外れている」である。 難しさの正体は一つではない 哲学の文章が難しい理由は複数あり、それを区別せずに「わざと難しくしている」と括ってしまうことが、誤解の出発点になる。ここでは4つの原因を分けて考える。 精密化の代償 哲学が日常語を避けるのは、日常語が曖昧だからである。「自由」という言葉ひとつとっても、日常会話では「好きにしていいよ」から「政治的自由」まで、文脈によって意味が大きく異なる。哲学はその曖昧さを許容できない。 たとえば「自由意志」を論じるとき、「自由」が何を指すのかを厳密に定義しなければ、議論が成立しない。そのために専門用語を導入し、定義を重ね、限定条件を付す。結果として文章は長く、複雑になる。これは難しくしたいのではなく、正確にしたいのである。 「存在」「本質」「主観」「認識」。これらの語は日常でも使われるが、哲学での意味は日常語とズレている。そ

By Sakashita Yasunobu

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灯りが消えたことに気づかない部屋

あなたの脳を、ひとつずつ、シリコンチップに置き換えていく。ひとつ。もうひとつ。あなたはまだ笑っている。まだ痛みを訴えている。まだ「意識がある」と言い張っている。860億個すべてが置き換わったとき、あなたの口は相変わらず「私はここにいる」と言うだろう。 問題は、そのとき本当にそこに誰かがいるのかどうかだ。 デイヴィッド・チャーマーズが1996年の著作 The Conscious Mind で提示した思考実験「消えるクオリア(Fading Qualia)」は、意識の問題を砂山の崩壊のように描き出す。一粒の砂を取り除いても山は山だ。では百粒では。一億粒では。意識はいつ消えるのか。そもそも「消える」とはどういうことなのか。そして、消えたことに気づけないとしたら、それはもう消えていないのと何が違うのか。 置き換えられるもの チャーマーズの思考実験は単純な設定から始まる。あなたの脳のニューロンを一つ取り出し、まったく同じ入出力関係を持つシリコンチップに置き換える。そのチップは元のニューロンが受け取っていた信号をそのまま受け取り、元のニューロンが送り出していた信号をそのまま送り出す。外から

By Sakashita Yasunobu

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鏡の向こうにもう一人の私が立つ

あなたの脳を真ん中で割って、左半球をAの体に、右半球をBの体に移植する。どちらも目を覚ます。どちらもあなたの記憶を持っている。どちらもあなたの性格で、あなたの価値観で、あなたの好きな音楽を口ずさむ。 さて、どちらがあなたか。 両方だと言えば、一人の人間が二人になったことになる。どちらでもないと言えば、記憶も性格もそのままなのに、あなたは死んだことになる。片方だけだと言えば、もう片方が「自分はあなただ」と訴えたとき、何と答えるつもりなのか。 デレク・パーフィットが1984年の『理由と人格(Reasons and Persons)』で突きつけたのは、この三択のどれを選んでも行き止まりだという事実だった。そしてパーフィットの答えは、三択そのものを踏み潰すものだった。同一性なんて、そもそも重要ではない(identity is not what matters)。 どこが私という問いは、テセウスの船から転送装置まで手を替え品を替え問われてきた。だがパーフィットの分裂は、その問いの急所を別の角度からえぐる。転送装置が「コピーは本人か」という一対一の問題だとすれば、分裂は「一人が二人になった

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選んだはずの手が誰かに握られていた

あなたが「自分で選んだ」と思っているもののうち、本当にあなたが選んだものはいくつあるだろう。 カフェテリアの野菜が目線の高さに並んでいるのは偶然ではない。年金の自動加入がデフォルトになっているのは親切ではない。トイレの的に蝿が描いてあるのは遊び心ではない。すべて設計されている。そして設計者は、あなたの自由を奪っていないと主張する。選択肢は残してあるのだから、と。 2008年、経済学者リチャード・セイラーと法学者キャス・サンスティーンは『Nudge』を出版し、「リバタリアン・パターナリズム」という概念を世に送り出した。自由を守りながら、人々をより良い方向へ導く。その名前自体が矛盾を抱えている。自由主義と父権主義の婚姻。しかし誰もその矛盾を気にしなかった。あまりにもうまく機能したから。 世界中に500を超えるナッジ・ユニットが設立され、世界銀行も国連もこの手法を採用した。だが、ここにひとつの問いが残されている。「より良い方向」とは、誰にとっての、何のことなのか。 中立という幻想 サンスティーンの最も重要な指摘は、中立的な選択環境は存在しないということだった。カフェテリアの食品に

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境界のない砂の上を歩く

砂山から砂を一粒取り除く。まだ砂山だ。もう一粒。まだ砂山だ。これを一万回繰り返す。手元には数粒の砂が残っている。それはもう砂山ではない。 では、いつ砂山でなくなったのだろう。 一粒の論証 紀元前4世紀、メガラ学派のエウブリデスはこの問いを最初に定式化した。ギリシャ語で「砂山(σωρός, soros)」に由来するこのパラドックスは、単純な二つの前提から出発する。 前提1. 一粒の砂は砂山ではない。 前提2. 砂山から一粒を取り除いても、それは依然として砂山である。 前提2は「寛容原則(tolerance principle)」と呼ばれる。一粒ごとの差は無視できるほど小さい。だから隣り合う二つのケースに質的な違いはない。これは直感的にまったく正しく聞こえる。そしてこの直感的に正しい前提を数千回適用すると、百万粒の砂も砂山ではないという結論に辿り着く。 論理的には完全に有効な推論だ。前提も妥当に見える。しかし結論は明らかに偽だ。これがパラドックスと呼ばれる所以であり、二千年以上にわたって哲学者たちを苛立たせ続けている理由でもある。 言葉が世界を裏切るとき ソリテスのパ

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

星だけが増えていく沈黙の宇宙

1950年、ロスアラモスの食堂。物理学者エンリコ・フェルミが同僚たちの雑談に割って入った。 "Where is everybody?" みんなはどこにいるんだ。76年が経った。返事は来ていない。 宇宙には観測可能な範囲だけでおよそ2兆の銀河がある。天の川銀河だけで数千億の恒星がひしめき、そのうち相当数が居住可能領域に惑星を持つ。確率的に考えれば、どこかに知的生命がいてもおかしくない。いてもおかしくないどころか、いないほうが不自然に見える。 なのに、何も見つからない。信号も、痕跡も、残骸すらない。 科学者たちはこの矛盾をフェルミのパラドックスと名づけた。だが、矛盾しているのは宇宙のほうだろうか。それとも「いるはずだ」と期待してしまう、こちらの推論のほうだろうか。 食堂で生まれた問い フェルミの問いが厄介なのは、それが直感的に正しく聞こえるからだ。 宇宙は約138億年前に始まった。地球は約46億年前に形成され、生命は少なくとも38億年前には出現していたとされる。宇宙の年齢からすれば、地球の生命はかなり早い段階で生まれたことになる。ならば、地球より数十億年早くできた惑星で、

By Sakashita Yasunobu

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足し算の意味を誰も知らない

あなたは68+57の答えを知っている。125。当然だ。 でもなぜそう言い切れるのか。 あなたはこれまでの人生で、68+57という計算をしたことがあるだろうか。おそらくない。だとしたら、あなたが「+」という記号で意味していたのは、本当に足し算だったのか。 1982年、哲学者ソール・クリプケはウィトゲンシュタインの『哲学探究』を読み解くなかで、ひとつの問いを立てた。あなたが「+」で意味していたものが足し算であるという根拠は、実はどこにもない、と。 答えが125であることを保証するものは何もない。 5を返す演算 クリプケが提示した「クワス算」は、次のように定義される。 二つの数が両方とも57未満であれば、足し算とまったく同じ答えを返す。だが57以上の数がひとつでも含まれれば、答えは常に5になる。 たとえば、2+3なら5。12+31なら43。ここまでは足し算とクワス算の区別がつかない。あなたがこれまでに計算してきたすべてのケースが57未満の数同士だったとしたら、あなたの過去の計算結果は足し算ともクワス算とも完全に一致してしまう。 68+57を計算するとき、足し算なら125。

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