日常の構造

Why you always sit in the same seat. Why you bought three things you didn't need at the convenience store. Why nobody speaks first in a group. These entries take apart the invisible mechanisms behind ordinary moments — cognitive biases, spatial norms, social scripts, attention design — and show that very little of what feels like free choice actually is. Not philosophy in the grand sense, but philosophy at ground level.

日常の構造

誰も等しくなれない世界で選び続けること

「公平な社会をつくるべきだ」という主張に反対する人はほとんどいない。しかし「公平とは何か」を定義しようとした瞬間、合意は崩壊する。結果を等しくすることなのか、機会を等しくすることなのか、貢献に応じて分配することなのか、必要に応じて分配することなのか。これらは互いに矛盾し、どれを選ぶかによって社会の設計はまったく異なるものになる。公平は理念としては美しいが、実装しようとすると必ず何かを犠牲にする。その犠牲の中身を見ずに「公平」を語ることはできない。 四つの公平、四つの矛盾 公平の定義は少なくとも四つある。 第一に、結果の平等。全員が同じ量の資源を受け取る。最も直感的だが、最も実現困難な定義である。人間の能力、意欲、環境が異なる以上、同じインプットを与えても同じアウトプットにはならない。結果を揃えようとすれば、アウトプットの段階で強制的な再分配が必要になる。 第二に、機会の平等。全員が同じスタートラインに立つ。しかしスタートラインを揃えること自体が幻想である。生まれた家庭の経済力、遺伝的な知能や体力、育った地域の教育環境。これらを完全に均すことは原理的に不可能であり、配られたカー

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

あなたのことは何も書いていない

あなたは他人から好かれたいと思っている。あなたには使いきれていない能力がある。外向的に振る舞うこともあるが、内心では不安で、ときどき自分の選択が正しかったのか疑っている。 もし今、少しでも「当たっている」と感じたのなら、それはあなたのことを知っているからではない。あなたが、自分のことを知ってほしいと思っているからだ。 全員に同じ手紙を送った 1949年、心理学者バートラム・フォアラーは学生39人に性格検査を受けさせた。一週間後、「個人別の結果」として全員にまったく同じ文章を手渡した。新聞の星座占いコラムから抜き出した13の記述。「あなたには他人から好かれたいという強い欲求がある」「あなたは自分自身に対して批判的になる傾向がある」「外見上は規律正しく自制心があるが、内面では不安で心配性なところがある」。 学生たちはその記述の正確さを5点満点中、平均4.26と評価した。 この現象は後にバーナム効果、あるいはフォアラー効果と呼ばれるようになった。サーカスの興行師P.T.バーナムの「誰にでも当てはまることを言え」という戦略にちなんで。フォアラーの論文のタイトルは "The Fall

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

結論の手前にある見えない扉についての対話

ゼミで議論が噛み合わない。Aさんは「それは間違っている」と言い、Bさんは「いや、正しい」と言う。30分後、どちらも同じことを言っていたと気づく。前提が違っていただけだった。 この30分は無駄だったのか。無駄だった。だが、ほとんどのグループ議論でこの種の無駄は日常的に発生している。 結論が違うのではなく、前提が違う 議論が噛み合わないとき、多くの人は「相手の結論が間違っている」と考える。だが実際には、結論が違うのではなく、前提が違っていることのほうが圧倒的に多い。 「大学の授業は役に立たない」という主張を例にする。これに対して「いや、役に立つ」と反論する前に、確認すべきことがある。「役に立つ」とは何を意味しているのか。就職に直結するスキルのことか、思考力の訓練のことか、教養としての知識のことか。この定義が揃っていなければ、議論は永遠に平行線だ。 会話で賢く見える人は、この前提のズレに最初に気づく人だ。正しい結論を持っているからではなく、結論の前に前提を確認するからだ。 前提を確認する技術 前提の確認は、具体的には「問い返し」の技術だ。相手の発言を受けて、その背後にある前

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

選んだはずの指先が止まらない夜に

スクリーンタイムの通知を見て「嘘でしょ」と思ったことがあるなら、あなたは問題の当事者である。3時間、4時間、ときには5時間。自分では30分くらいしか触っていないつもりだった。しかもその間、「やめよう」と思えばいつでもやめられたはずだった。少なくとも、そう感じていた。 選んでいるのに、選んでいない スマホを操作しているとき、私たちは常に「選択」をしている。この動画を見るかスキップするか。この投稿にいいねするかしないか。次のアプリを開くか閉じるか。選択肢は確かに存在しており、どちらを選ぶかは自分が決めている。 しかし問題は、その選択肢の「枠組み」自体が設計されていることである。選択肢は与えられているが、選択の場を設計したのは自分ではない。これが「自分で選んでいる感覚」が維持される仕組みである。 アテンション・デザインの具体的な仕組み スマホのUIには、ユーザーの注意を引き続けるための設計が随所に埋め込まれている。 無限スクロール。 コンテンツに「終わり」がない。雑誌なら最後のページがあるが、SNSのフィードは底がない。「もう少しだけ」が永遠に続く構造になっている。 自動再

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日常の構造

正しい羊飼いが牧草地を枯らす

あなたが正しいことをしている間に、世界は壊れていく。 誰も間違っていない。誰も悪意を持っていない。各人がそれぞれに合理的な判断を下し、それぞれの立場から最善を尽くしている。そして、そのすべてが足し合わされたとき、結果は破滅になる。 1968年、生態学者ギャレット・ハーディンは Science 誌に「共有地の悲劇(The Tragedy of the Commons)」を発表した。共有の牧草地。羊飼いがひとりずつ羊を追加する。一頭増やすことで得られる利益は自分のもの。牧草地の劣化というコストは全員で分担される。だから一頭増やすのは合理的だ。全員にとって。そして全員が一頭ずつ増やした結果、牧草地は荒廃する。 これは牧草地の話ではない。あなた自身の話だ。 正しさの総和 ハーディンの寓話が残酷なのは、そこに悪人がひとりもいないことだ。 全員が合理的に行動している。全員が自分の利益を最大化しようとしている。経済学がそう教え、進化がそう設計した。個人の最適解を足し合わせたら全体の最適解になるはず、とアダム・スミスの見えざる手は約束した。しかし共有地ではその約束が裏切られる。見えざる手

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日常の構造

成功した予防は記憶から消える

何も起きなかった。橋は落ちなかった。飛行機は墜ちなかった。サーバーは止まらなかった。あなたは今日も病気にならなかった。 おめでとう。そのことに、誰も気づかない。 予防が成功すると、予防は不要だったように見える。これは公衆衛生の文脈では「予防のパラドックス」として知られている。疫学者ジェフリー・ローズがこの語を最初に用いたとき、彼が指していたのは「集団全体への予防策は個々人にとっての恩恵が小さい」という構造だった(Rose, 1981)。しかし予防が抱える問題はそれだけではない。もっと厄介な構造が、その奥に潜んでいる。成功した予防は、自分が必要だった証拠ごと消してしまうのだ。 崩落しなかった橋 橋が落ちなかったのは、定期点検のおかげかもしれない。しかし橋が落ちなかったという事実は、「点検がなくても落ちなかった」という解釈を同時に許してしまう。 これは因果推論の根本問題だ。私たちは「予防しなかった世界」を観察できない。予防した世界しか存在しない以上、比較対象はどこにもない。哲学ではこの問題を反事実条件文の検証不可能性と呼ぶ。「もしXしなかったらYが起きていた」という命題は、原理

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日常の構造

満ちることのない器よ問いかけは続く

「足るを知れ」と言われたとき、どこか引っかかるものがある。 正論だ。欲望には際限がない。手に入れても次が欲しくなる。だから今あるもので満足しろ。論理としては明快で、反論の余地がないように聞こえる。それなのに素直にうなずけないのは、なぜだろう。 たぶん、この言葉が「満足しろ」という命令として届いてしまうからだ。しかも、すでに満たされている人の口から出ることが多い。持っている人が「持っているもので十分だ」と言うのと、持っていない人が「持っていなくても十分だ」と言わされるのでは、同じ言葉でも意味がまったく異なる。 「足るを知る」の出典を確認する 「足るを知る」の原典とされるのは、老子の第46章だ。原文には「知足者富」という語がある。足るを知る者は富む、と読める。 ただし、この章の文脈は「現状に満足しなさい」という穏やかな教えではない。第46章の主題は、天下に道が行われていない時代の描写だ。戦争のために軍馬が使われ、欲望が際限なく拡大していく状態への批判がある。「知足」はその過剰な欲望に対する処方箋であって、「今ある暮らしに文句を言うな」という意味では、少なくとも原典においては、な

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日常の構造

イヤホンを外さない世代の公共空間の歩き方

街を歩く人の耳を見てほしい。電車の中、大学のキャンパス、カフェ。かなりの確率で、小さな白い塊がそこにある。イヤホンは音楽を聴くための道具から、公共空間における「見えない壁」へと変わった。 境界線としてのイヤホン イヤホンをしている人に話しかけるのは、どこか気が引ける。物理的には何の障壁もないのに、「今は話しかけないでほしい」というメッセージが、あの小さなデバイスから発されている。 これは音楽の問題ではない。実際、何も再生していなくてもイヤホンを装着している人は少なくない。音を聴くためではなく、外界との接触を制御するために使っている。パーソナルスペースを物理的に確保できない公共空間で、聴覚という回路だけを自分の管理下に置く。それが現代のイヤホンの役割になった。 ウォークマンが開いた扉 公共空間で個人的な音を聴くという行為は、1979年にソニーが初代ウォークマン(TPS-L2)を発売したときに始まった。当時も「電車の中でヘッドホンをするのは失礼だ」、「周囲の音が聞こえなくて危険だ」という批判はあった。しかし約半世紀を経て、その行為はもはや議論の対象ですらなくなった。イヤホンは

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ことばと文学

「主観でしょ」という沈黙の刃

「それって主観でしょ」。議論の中でこの言葉が出た瞬間、会話は終わる。反論として完成しているように見えるこのフレーズは、実際には何も言っていない。正確に言えば、「言っていないこと」があまりにも多い。 このフレーズは何を主張しているのか 「それって主観でしょ」という発言を分解すると、以下のような前提が隠れている。 「あなたの意見は主観的である。主観的なものは客観的ではない。客観的でないものは正しいとは言えない。したがって、あなたの意見は正しいとは言えない。」 一見筋が通っているように見えるが、この推論にはいくつもの飛躍がある。 「主観」と「客観」の雑な二分法 日常語の「主観」は「個人の感想」とほぼ同義で使われる。「客観」は「誰が見ても同じ事実」を意味する。この二分法はシンプルだが、シンプルすぎる。 たとえば「このコーヒーは苦い」という判断は主観か客観か。味覚は個人差があるから主観だと言えるが、カフェインの含有量や焙煎度は客観的に測定できる。「苦い」という判断は、客観的な特性に基づいた主観的な報告である。完全に主観でも完全に客観でもない。 あるいは「この政策は不公平だ」と

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大学生活

「やる気が出ない」は本当に感情なのか

「やる気が出ない」と口にするとき、私たちは自分の内側に何かが欠けていると感じている。やる気という燃料が切れた、と。だからその燃料が補充されるのを待つ。しかし、そもそも「やる気」とは何だ。燃料なのか。感情なのか。それとも、もっと別の何かなのか。 「やる気」という言葉を分解する 「やる気がない」という一語は、驚くほど多くの状態を包み隠している。少なくとも、以下の三つは区別する必要がある。 動機づけ(motivation)。特定の行動を起こす理由や目的がある状態だ。報酬、興味、義務感など、行動の方向を決める力をいう。 意志力(willpower)。やりたくないことを、それでもやる力だ。動機づけとは独立に存在しうる。報酬がなくても、必要だからやる、という場面で使われる。 気分(mood)。その時点での感情的な状態だ。倦怠感、退屈、不安、抑うつ。「やる気が出ない」の多くは、この層に属している。 「やる気が出ない」と言うとき、動機づけが欠けているのか、意志力が消耗しているのか、

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日常の構造

自分だけが知らない

1999年、二人の心理学者がひとつの実験で暴いた構造は単純だった。能力のない人間は、自分に能力がないことを知る能力すら持っていない。つまり、あなたが「自分は大丈夫だ」と思えば思うほど、あなたはおそらく大丈夫ではない。そしてそのことに、あなたは永遠に気づけない。 二重の呪い コーネル大学の心理学者ジャスティン・クルーガーとデイヴィッド・ダニングは、1999年に Journal of Personality and Social Psychology 誌にひとつの論文を発表した。タイトルは「Unskilled and Unaware of It(能力がなく、そのことに気づかない)」。 彼らが実施した実験では、論理的推論、英文法、ユーモアの理解力という3つの領域でテストが行われた。結果は明快だった。成績が下位25%に入った参加者は、自分の成績を平均以上と評価した。一方で、上位25%の参加者は、自分の成績を控えめに見積もった。 ダニングとクルーガーはこの非対称をメタ認知の問題として説明した。メタ認知とは、自分自身の認知プロセスを認知する能力のこと。能力が低い領域では、自分の回答の質を

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

正しさの総和が全員を沈める

あなたが節約するのは正しい。隣の人が節約するのも正しい。全員が正しいことをした結果、全員が貧しくなる。これは寓話ではない。経済学が「倹約のパラドックス」と呼ぶ現象であり、哲学が「合成の誤謬」と呼ぶ構造そのものだ。 個人の合理性が集団の不合理を生むという事実は、私たちが「正しさ」と呼んでいるものの足元を静かに崩す。正しいことをしているのに世界が壊れる。それは誰のせいでもなく、だからこそ誰にも止められない。 一人が立てばよく見える 倹約のパラドックスは、ジョン・メイナード・ケインズが1936年の『雇用・利子および貨幣の一般理論』で体系化した概念だとされる。話の骨格は単純で、一人の人間が支出を減らして貯蓄を増やせば、その人の財務状態は改善する。しかし全員が同時にそれをやると、消費が減り、企業の売上が下がり、雇用が失われ、所得が減り、結果として全員の貯蓄すら減少する。 節約という美徳が、集団で実行されると災厄に変わる。 古典派経済学の立場では、貯蓄は投資に回るのだから問題は生じないはずだった。セイの法則、すなわち「供給はそれ自身の需要を生み出す」という原理がそう保証していた。しかし

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