「主観でしょ」という沈黙の刃

「それって主観でしょ」。議論の中でこの言葉が出た瞬間、会話は終わる。反論として完成しているように見えるこのフレーズは、実際には何も言っていない。正確に言えば、「言っていないこと」があまりにも多い。

このフレーズは何を主張しているのか

「それって主観でしょ」という発言を分解すると、以下のような前提が隠れている。

「あなたの意見は主観的である。主観的なものは客観的ではない。客観的でないものは正しいとは言えない。したがって、あなたの意見は正しいとは言えない。」

一見筋が通っているように見えるが、この推論にはいくつもの飛躍がある。

「主観」と「客観」の雑な二分法

日常語の「主観」は「個人の感想」とほぼ同義で使われる。「客観」は「誰が見ても同じ事実」を意味する。この二分法はシンプルだが、シンプルすぎる。

たとえば「このコーヒーは苦い」という判断は主観か客観か。味覚は個人差があるから主観だと言えるが、カフェインの含有量や焙煎度は客観的に測定できる。「苦い」という判断は、客観的な特性に基づいた主観的な報告である。完全に主観でも完全に客観でもない。

あるいは「この政策は不公平だ」という主張。これは「主観でしょ」と言われやすい典型だが、不公平さの判断には論拠がある。所得分配のデータ、影響を受ける層の分析、過去の類似政策との比較。これらは主観的感想ではなく、根拠に基づいた判断である。

「主観か客観か」という二択に落とし込むことで、こうした中間領域がすべて無視される。

共有可能性という視点

主観と客観の二分法に代わる視点として、「共有可能性」がある。ある判断が主観的であっても、他者と共有可能であれば、それは単なる個人的感想を超えている。

「このりんごは甘い」は主観的だが、他の人も同じりんごを食べれば似た判断をする可能性が高い。「この映画は退屈だ」は主観的だが、具体的にどのシーンがなぜ退屈なのかを説明できれば、その判断は共有可能になる。

「それって主観でしょ」が見落としているのは、主観的判断にも根拠の強弱があり、共有可能な判断と純粋に個人的な感覚の間にはグラデーションがあるということである。

あなたには何も見えていないで論じたクオリアの問題が示すように、主観的経験の領域は一枚岩ではなく、その中にも構造と層がある。「主観だから無価値」という断定は、その構造を丸ごと無視している。

議論停止装置としての構文

「それって主観でしょ」は、内容に対する反論ではなく、議論そのものを止めるための構文として機能している。同じ機能を持つフレーズは他にもある。

「人それぞれだよね」。「正解なんてないよ」。「価値観の違いだね」。

これらに共通するのは、相手の主張の中身を検討することなく、主張が存在する地盤そのものを無効化しようとする構造である。反論のふりをしているが、実際には何も反論していない。

何も確かではないで述べたように、確実性が保証されないことと、判断に意味がないことは別の話である。「それって主観でしょ」が暗黙に前提としている「客観的でなければ意味がない」という基準自体が、検証されていない。

「言っていないこと」のリスト

「それって主観でしょ」という反論が言っていないことを列挙してみる。

  • 相手の主張のどの部分が主観的なのか
  • その主観的な部分に根拠がないと言えるのかどうか
  • 自分の立場が客観的であるという根拠
  • 「客観的でなければ無意味だ」という前提の正当化
  • この話題について「客観的な」判断がそもそも可能なのかどうか

つまり「それって主観でしょ」は、自分自身は何の主張もせずに、相手の主張だけを無効化しようとする非対称な構文である。反論するならば、どの部分がなぜ問題なのかを具体的に指摘する必要がある。それができないなら、「主観でしょ」と言っているのは自分のほうかもしれない。

写真の評価と「主観でしょ」

この構文が頻出する領域の一つが、写真や芸術の評価である。「この写真はいい写真だ」と言うと、ほぼ確実に「それって主観でしょ」が返ってくる。

確かに、写真の評価には主観的な要素がある。しかし、構図の分析、光の使い方、被写体との距離感、文脈の読み取りなど、共有可能な判断基準は存在する。「いい写真」の定義は一つではないが、だからといって「すべてが等しく主観的」とは言えない。

美術館で何を見ればいいか分からない理由で論じたように、芸術の評価には文脈の読解が必要であり、その読解には学習可能なスキルが含まれている。「主観でしょ」は、そのスキルの存在を無視する。

まとめ

「それって主観でしょ」は反論のように見えるが、実際には議論の内容に一切触れずに会話を終わらせる装置である。主観と客観の二分法は現実の判断を捉えるには粗すぎるし、主観的であることは根拠がないことを意味しない。このフレーズを使いたくなったとき、まず考えるべきは「相手の主張のどこが問題なのか」を具体的に言語化することである。それが言えないなら、議論を止めたいだけかもしれない。

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