10年の値段

売り物

自分の寿命の10年を差し出せば、何かひとつ、望むものが手に入る。

欲望の棚卸し

「一生お金に困らない生活」と答える人がいる。「完璧な健康」と答える人がいる。「愛する人の幸せ」と書く人もいる。

何を選ぶかは自由だ。でも何を選んだかで、その人の切実さが透けて見える。お金と答えた人は冷たいのではない。おそらく今、お金に困っている。ただ、お金がなくなっても何も解決しないのと同じように、手に入れたところで何かが変わる保証はどこにもない。健康と答えた人は、きっとどこかが痛い。愛する人の幸せと答えた人は、たぶんその人をうまく幸せにできていない。

問いそのものにはたいした意味がない。答えのほうに、その人の輪郭が滲む。

年の不平等

ところで、10年とは何だろう。

20歳から30歳までの10年と、70歳から80歳までの10年は同じだろうか。可能性に満ちた10年と、静かに閉じていく10年を等価と呼べるだろうか。

厄介な問いだ。「10年」という数字の裏には、つねに「どの10年か」という別の問いが隠れている。そしてたいていの場合、どの10年を差し出すかは自分では選べない。もしかすると、そもそも誰も何も選んでいないのかもしれないが。僕たちは曖昧な恐怖に、曖昧な値札をつけることになる。

質のよい10年と、ただ過ぎていくだけの10年。もし選べるなら「無駄な」ほうを差し出すだろうか。でも、ある10年を無駄だったと断じられるのは、いつだって事後の自分だけだ。渦中にいる自分には、それが無駄かどうかすらわからない。

悪魔はいつも紳士的に現れる

寿命の取引には、長い物語の系譜がある。

ゲーテの『ファウスト』で、老学者ファウストは悪魔メフィストフェレスと賭けを交わす。もし自分がある瞬間に「止まれ、おまえはあまりに美しい」と口にしたなら、そのとき魂を明け渡す、と。ファウストが賭けたのは知識でも若さでもなく、自分が人生のどこかで心の底から満足してしまうかどうかだった。

満足することが敗北の条件になる取引。これは寿命の売買よりずっと根が深い。人が何かに満たされることを望みながら、同時にそれを恐れなければならないとしたら、生きるとはいったい何なのだろう。望んだはずの充足が自分を殺すなら、それはもはや幸福という自殺だ。ゲーテは、この賭けの決着に明快な判定を下さなかった。

2011年の映画『TIME/タイム』(アンドリュー・ニコル監督)は、もう少し直截にこの主題を映像にした。この世界では25歳で老化が止まり、以降は時間そのものが通貨になる。働いて時間を稼ぎ、買い物をすれば時間が減り、残高がゼロになった瞬間に死ぬ。

富裕層は数百年分の時間を腕に蓄え、貧困層は翌日の分すら覚束ない。極端な設定に見えるけれど、よく考えるとこの世界は僕たちの社会をそこまで誇張してはいないのかもしれない。

非売品

逆のことを考えてみる。

何を提示されても、10年を手放さない人がいるとする。お金でも、才能でも、健康でも、愛でも動かない。何を積まれても首を横に振る。

その人は時間そのものに究極の価値を見出している、と言えるだろうか。たぶん、そう単純ではない。もしかするとその人は、時間に価値を感じているのではなく、交換という行為そのものを拒んでいるのかもしれない。人生の一部を切り取って何かと差し替えるという発想自体が受け入れがたい、という感覚。

カントは『道徳形而上学の基礎づけ』のなかで、値段のあるもの(Preis)と尊厳のあるもの(Würde)を分けた。値段のあるものは等価な何かで置き換えられる。けれど尊厳を持つものには代わりがきかない。それは比較の外にある。

10年を売れないと感じるとき、守られているのは10年という量の時間ではなく、自分の生が値札のつかないものであってほしいという、静かな祈りなのかもしれない。その生をそもそも誰にも頼まれていないとしても。

使い道のない問い

この問いに正解はない。正解がないからこそ、夜中にふと浮かんでは人を黙らせる。

「10年と引き換えに何が欲しいか」。突き詰めれば、それは「あなたにとって生きるとはどういうことか」の言い換えにすぎない。そしてその問いは意味という病のように、問うほどに深くなる。そしてもっと厄介なことに、自分の人生にどれほどの重さがあるかを、生きている最中には誰も測れない

ただ、本当に落ち着かない気持ちになるのは、もしかしたら取引そのものについて考えたときではない。僕たちはすでに、毎日この取引をしている。誰に頼まれたわけでもなく、時間をお金に換え、義務に換え、惰性に換えている。違いがあるとすれば、契約書がないことと、悪魔が目の前に立っていないことくらいだ。

あなたなら、10年と引き換えに何を望みますか。

それとも、もう何かと引き換えてしまった後ですか。

もしそうなら、もう一度、最初からやり直せたとして、同じ取引をしないと言い切れますか。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu