読む前の自分はもういない

あなたが誰かに本を贈るとき、あなたはその人の好みに合った本を選ぼうとする。しかし、本当に良い本は、読んだ人の好みそのものを変えてしまう。つまりあなたは、「読む前の相手」の好みで本を選ばなくてはならないのに、その本が成功すればするほど、「読んだ後の相手」は別の人間になっている。贈り物は届いたときにはもう、届くべき相手がいない。

これは本の話に限らない。人生のあらゆる重要な選択が、この同じ構造を持っている。

あなたはまだその本を知らない

哲学者L.A.ポールは2014年の著作 Transformative Experience で、こうした状況を「変容的経験(transformative experience)」と呼んだ。ポールによれば、変容的経験には二つの特徴がある。第一に、経験する前にはそれが「どのようなものか」を知ることができない(認識的変容性)。第二に、経験することで自分の核心的な選好や価値観が変わる(個人的変容性)。

子供を持つこと。恋に落ちること。重い病の診断。宗教的回心。初めて海外で暮らすこと。これらはすべて、経験する前と後で世界の見え方が根本的に変わる出来事だ。

本を読むことも、その小さな変奏かもしれない。もちろん、すべての読書が人を変えるわけではない。しかし、ときどき、ある一冊が思考の前提そのものを組み替えてしまうことがある。読む前には「こういう本が好きだ」と思っていた自分が、読み終えた後にはまったく別の基準で本棚を眺めている。

ポールが指摘するのは、この種の変容が合理的な意思決定の前提を壊すということだ。合理的に選ぶためには、選択肢のそれぞれがどのような結果をもたらすか、そしてその結果を自分がどう評価するかを知っている必要がある。しかし変容的経験においては、経験後の自分の評価基準そのものが未知数になる。

未来の自分が何を良いと感じるかを、いまの自分の基準で測ること。それは、別人の人生を代わりに生きようとするのに似ている。

選好が溶ける

経済学の合理的選択理論は、人間の選好は安定しているという前提の上に成り立っている。あなたがチョコレートよりバニラを好むなら、明日もそうだろうし、その好みに基づいて合理的な選択ができる、と。

だが変容的経験は、この前提を静かに崩す。

子供を持つ前の人間は、睡眠を重視し、自由な時間を愛し、静かな夜を何よりの贅沢だと感じていたかもしれない。子供が生まれた後、同じ人間が午前3時に泣き声で起こされながら、それでも「この生活を手放したくない」と感じている。選好が変わったのだ。しかも、変わることを事前に予測できなかった方向に。

これは何をしても同じだったで書いた快楽適応の問題とも通じている。人間の幸福感は外的な変化に一時的に反応しても、やがて元の水準に戻る。しかし変容的経験が引き起こすのは、単なる適応ではない。水準そのものが、あるいは幸福を測る物差しそのものが、別のものに置き換わっている。

ノージックの経験機械の思考実験が問うたのは、「快楽だけで満足できるか」という問いだった(幸福という自殺)。変容的経験の問題はもう一歩先にある。快楽を選ぶか真実を選ぶか、という問いの手前で、そもそも「快楽とは何か」「真実とは何か」の定義が経験によって書き換わってしまう。

選択の基準が選択の結果に依存しているとき、どの基準で選べばいいのか。答えはない。だから問いが残る。

合理的な選択という幻想

ポールの議論が突きつけるのは、私たちが人生の重大な決断について抱いている素朴な信念への疑いだ。「よく考えて決めた」「メリットとデメリットを比較した」「自分にとって最善の選択をした」。こうした言い回しの裏には、選好が安定していて、将来の自分が何を望むかを現在の自分が知っている、という暗黙の仮定がある。

変容的経験はこの仮定を裏切る。しかし、だからといって何も選ばないわけにはいかない。選ばないことも選択である。

ウルマン=マルガリートが指摘したように、人生の大きな決断は合理的に最適化できる種類のものではなく、むしろ「ピッキング」に近い。キャンベルのスープの棚からひとつを手に取るように、理由なく、ただ選ぶ。

決断できない状態の構造で触れたキェルケゴールの洞察がここで再び顔を出す。「あれか、これか」の選択において、選ぶこと自体が自分を形成する。しかし変容的経験の文脈では、選ぶことで形成される「自分」が、選んだ時点の自分とは断絶している。キェルケゴールの信仰の飛躍は、少なくとも跳ぶ主体の連続性を前提にしていた。ポールの変容は、跳んだ先にいるのが自分かどうかすら保証しない。

哲学者アグネス・キャラードは Aspiration(2018)で、変容的な選択を「志向(aspiration)」の概念で捉えようとした。ワインの初心者は、ワインの何が良いのかまだわからない。しかし「わかるようになりたい」という方向だけは持っている。この「まだ見えないものへの暫定的な理由」をキャラードは「予示的理由(proleptic reasons)」と呼んだ。完成形は見えないが、向かう方向だけで歩き出す。

だがこの「向かう方向」すら、変容によって変わりうるとしたら。そもそも「ワインの良さがわかりたい」と思うこと自体が、何かの変容の結果かもしれない。志向は志向で、どこまでも根拠を遡れば宙に浮く。

教育は同意なき改造である

この問題がもっとも切実になるのは、教育の場面かもしれない。

なぜ勉強をしなければならないのかで書いたように、教育の価値を「受ける前」の基準で判断することには根本的な困難がある。教育は変容的経験そのものだからだ。

哲学を学ぶ前の自分は、哲学を学んだ後の思考の仕方を知らない。微積分を知る前の自分は、微積分を知った後の世界の見え方を想像できない。大学の教育目標が「批判的思考力の涵養」だとして、批判的思考力を持たない学生に「批判的思考力は良いものだ」と説明しても、それは変容後の視点からの評価を変容前の人間に押しつけているにすぎない。

ポールとクイギン(2020)は、大学教育がそもそも変容的経験を目標として掲げていることを指摘した。学生は入学時と卒業時で「別の人間」になることが期待されている。しかしそれは、入学前の学生に対して「あなたはこれから別の人間になります。同意しますか」と問うのと同じだ。同意する主体は変容前の人間であり、変容を経験するのは、ある意味では別の人間だ。

さらに厄介なのは、教育が漸進的に起こるということだ。恋愛と同じように、一つひとつのステップは変容的ではない。ある講義を聴くこと。一冊の本を読むこと。ひとつのレポートを書くこと。どれも単独では人を変えない。しかし数年を振り返ったとき、入学時の自分は見知らぬ他人になっている。キャラードが指摘したように、親になるという「一瞬の決断」に見えるものも、実際には長い変容的な旅路に埋め込まれている。教育は、それをゆっくりと、しかし確実に遂行する。

「やってみろ」という賭け

日常的に「やってみなければわからない」と言う。これは哲学的に見れば、「変容前の判断は信頼できない」という洞察の素朴な表現かもしれない。事前にどれだけ情報を集めても、変容的経験の「感じ」を事前に知ることはできない。だからとりあえず飛び込め、と。

ポール自身は「啓示(revelation)」に基づく選択を提案した。変容的経験を選ぶ理由は、その経験がどのようなものかを「発見すること」それ自体にある。何が起こるかわからないからこそ飛び込む。知りたいから選ぶ。これはある種の好奇心に基づく合理性だ。

しかし「すべてやってみる」わけにはいかない。人生の時間は有限であり、いくつかの変容的経験は不可逆だ。子供を持つか持たないか。ある職業に就くか就かないか。ある人と結婚するかしないか。一方を選べば他方の経験は永久に閉ざされる。そして閉ざされた経路の先にいたはずの「自分」がどのような人間だったかを、いまの自分は知りようがない。

後悔は治らないで書いたように、後悔とは変容後の自分が変容前の選択を振り返る構造を持っている。だが変容的経験の文脈では、後悔そのものが疑わしくなる。「あのとき別の選択をしていたら」と考えるとき、その「別の選択をした自分」はいまの自分とは別の人間になっていたはずだ。後悔している「いまの自分」は、別の選択をしていたら存在しない。いまの自分がいまの自分であるのは、あの選択をしたからだ。

後悔は、自分を否定しなければ成立しない。

「やってみたくない」も答えにならない

ここで一つの逃げ道が見える。変容が怖いなら、変わらなければいい。新しい本を読まない。新しい場所に行かない。新しい人に会わない。いまの自分の選好を守り続ける。

だが握りしめると消えるで見たように、いまの自分の幸福を握りしめようとする行為そのものが、幸福を遠ざける。変わらないことを選んでも、それは選択だ。世界は変わり続け、変わらないことを選んだ自分は、変わった世界のなかで取り残されるという仕方で変容する。

変わることも変わらないことも選べない。というより、どちらを選んでも「選んだ後の自分」は「選ぶ前の自分」ではない。選択の主体と結果の引き受け手が一致しないまま、それでも人は選び続ける。

パーフィットは個人的同一性の議論のなかで、未来の自分は厳密には「他人」であると論じた(私が二人になる日)。変容的経験の問題は、この主張を日常的な感覚のレベルに引き下ろす。あなたが明日読む一冊の本が、あなたを静かに殺し、別の誰かを生み出すかもしれない。大げさに聞こえるだろうか。しかし十年前の自分を思い出してほしい。あの人間は、いまのあなたとどれだけ同じだろうか。

誰のために選ぶのか

変容的経験が突きつける最も深い問いは、結局のところ「私とは誰か」に行き着く。選好が変わるのであれば、「私の好み」とは何か。いつの時点の好みが「本当の私」なのか。変容前か。変容後か。その途中のどこかか。あるいは、すべてが等しく「私」なのか。

ポールの議論を突き詰めると、「自分のために最善の選択をする」という考え方そのものが疑わしくなる。どの「自分」のための最善なのか。いまの自分が望むことは、未来の自分が望むこととは限らない。未来の自分が振り返って感謝することは、いまの自分が望んでいることとは限らない。

私たちは、まだ存在しない誰かのために、いまの自分の価値観で選んでいる。その誰かが「自分」だという保証は、実はどこにもない。

本を贈るということは、相手を変えようとすることだ。良い本を贈れば贈るほど、贈る相手はいなくなる。人生の選択も同じだ。良い選択をすればするほど、選んだ自分は消えていく。

それでも人は本を選び、人生を選ぶ。合理的だからではない。理由を知っているからでもない。ただ、まだ読んでいないページがあるというだけの理由で。

その理由すら、次の一冊で消えるかもしれないけれど。

Read more

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu