誰も聞いていない
森で木が倒れた。誰もいなかった。音はしたか。
あなたにとっては、どうでもいい話かもしれない。木が倒れれば空気は揺れる。物理としてはそれで片がつく。ところがこの問いは、少なくとも140年以上、哲学者にも物理学者にも片づけられずにいる。もしかすると、問い自体が壊れているのかもしれない。
問いは最初から壊れている
1883年、アメリカの雑誌『ザ・ショトーカン(The Chautauquan)』にこんな問いが載った。「木が島で倒れて、人間がひとりもいなかったら、音はあるのか?」。回答はこうだった。「ない。音とは空気の振動によって耳に引き起こされる感覚のことだから」。
翌年には『サイエンティフィック・アメリカン』が似た質問を取り上げ、より技術的な回答を添えている。音とは振動が耳という機構を通じて伝わり、神経中枢で認識されるものである。耳がなければ音はない、と。
問いの現在のかたち、つまり「森で木が倒れて、誰も周りにいなかったら、音はしたのか」は、1910年に出版されたチャールズ・リボーグ・マンとジョージ・ランサム・トゥイスの物理学の教科書『Physics』に登場したのが最初とされている。
ここで面白いのは、答えが「音」の定義に完全に依存するという点だ。音を空気の振動と呼ぶなら、音はした。木が地面に衝突すれば空気は圧縮と膨張を繰り返す波を生む。これは測定可能な物理現象であり、疑いの余地はない。
でも音を「聴覚体験」と呼ぶなら、誰の鼓膜にも触れなかった振動は音ではない。(物理的事実と主観的体験のあいだの埋められない溝については「あなたは赤を知らない」で書いた。)
どちらの定義を選ぶかで答えは決まる。しかし、どちらを選ぶかという判断それ自体が、すでに哲学的な選択だ。「物理的に波があったんだからそれでいいだろう」と言いたくなる気持ちはわかる。でも、そう言った瞬間に、知覚の有無にかかわらず世界は存在するという前提を、あなたはすでに採用している。(言葉が世界をどう区切るかで現実の輪郭が変わるという問題は「世界はそこで終わっている」で掘り下げた。)
その前提を、真正面から否定した人がいる。
見なければ、ない
18世紀アイルランドの哲学者ジョージ・バークリーは、ある有名な原理を残した。
Esse est percipi. 存在するとは、知覚されることである。
知覚されていないものは存在しない。バークリーの主観的観念論は、それほど徹底していた。
この「森の木」の問いはしばしばバークリーに帰せられるが、バークリー自身がこの正確なかたちで問いを立てた記録はない。ただし1710年の著作『人知原理論(A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge)』のなかで、彼はこう書いている。
たとえば公園に木々を、書斎に本を、想像してみなさい。それを知覚する者は誰もいないと。そんなことは簡単だ、とあなたは言うかもしれない。
しかしそれは、まさに知覚されていない対象を「想像」という知覚を通じて思い浮かべているにすぎない、とバークリーは指摘する。
直感に反する。目を閉じたところで、部屋の家具は消えない。
けれど、消えていないことを、あなたはどうやって確かめる? 目を開ける。つまり、知覚する。知覚なしに存在を確かめる方法を、私たちはそもそも持っていない。
バークリーの議論は突飛に聞こえるかもしれない。しかし「知覚されていない対象の存在は、原理的に証明できない」という一点においては、反論はかなり難しい。(この問いをデカルトの懐疑からシミュレーション仮説まで引き延ばしたのが「あなたの現実には根拠がない」だ。)
月を見ていないとき
20世紀に入り、この古い問いに物理学が新しい重力を加えた。
量子力学の創成期、アルバート・アインシュタインは同僚の物理学者アブラハム・パイスとの散歩中にふと立ち止まり、こう尋ねたという。
「君は本当に、月は君が見ていないときにも存在すると信じているのか?」
パイスの返答は、皮肉なほど慎重だった。「20世紀の物理学者は、この問いに確定的な答えを持っていると主張はしない」。このエピソードはパイスの著書『Subtle is the Lord』に記録されている。
量子力学では、粒子の状態は測定されるまで確定しない。有名な二重スリット実験では、電子がどちらのスリットを通ったかを検出しようとすると干渉パターンが消える。検出しなければ、干渉が現れる。測定という行為が結果を変える。これはミクロの世界では実験的に確認された事実だ。
ただし、注意がいる。量子力学における「観測」とは、意識を持った誰かが見るということではなく、測定装置と粒子のあいだの物理的相互作用のことだ。そしてこの効果が、倒れる木のようなマクロな対象にそのまま当てはまるわけではない。シュレーディンガーの猫という思考実験が有名だが、あれは量子力学の重ね合わせの原理をマクロな対象に適用したらどれほど奇妙なことになるかを示すためのものであって、「箱を開けるまで猫の生死が決まっていない」と主張しているわけではない。
それでも、世界の最も基礎的な物理法則が「測定」に特権的な地位を与えているという事実は、単なる比喩を超えた不気味さがある。物理学の最先端において、「観測されていない世界はどうなっているのか」に対する確定的な答えは存在しない。(現実が問いかけに沈黙し続けるという話は「現実は返事をしない」でも扱った。)
森で、木はまだ倒れたまま横たわっている。
あなたが見ていない部屋
問いは、もう森の話ではなくなっている。
あなたが家を出たあと、部屋のなかのものは存在し続けているか。帰宅したらそこにあった。だから留守中も存在していた? それは帰ってからの知覚で確かめたことであって、不在中の存在そのものの証拠にはなっていない。
防犯カメラを置けばいい。でもそれは観測者を追加しただけだ。しかもその映像は、結局誰かが見る。観測者なしの存在を証明するために、新しい観測者を持ち込んでいる。構造的に詰んでいる。
もう少し広げてみよう。
この宇宙に意識を持つ存在がひとつもいなかったとする。星は核融合反応を続け、銀河は回り、物質は物理法則に従って振る舞っている。しかし、それを「存在する」と認定する主体がどこにもいない。「存在する」という述語は、誰に向かって成立しているのか。
あるいは、もう少し手前の話。
あなたが一人きりのとき、あなたは何者か。誰にも見られていないときの行動は「あった」ことになるのか。SNSに投稿されなかった出来事は「起こった」のか。誰の記憶にも残らなかった一日は「存在した」と言えるのか。(目撃者のいない行為に意味はあるのかという問いは「誰も見ていない花壇」で、忘れられてもなお残るものについては「忘れられるとしても」で書いた。)
宇宙はたぶん、あなたが見ていなくても平気でそこにある。でもそれを証明しようとした瞬間に、あなたはもう見てしまっている。(あなたの知覚が映し出す世界の限界については「あなたには何も見えていない」でも考えた。)
森は静かだ
森で木が倒れて、誰もそれを聞いていなかったら、音はしたのか。
答えは、ない。この問いには答えがない。正確に言えば、答えを出すために必要な前提そのものが未決定だ。音の定義、存在の定義、知覚と実在の関係。どれも決着がついていない。140年経っても。
そしておそらく、それでいい。
この問いの本当の機能は、答えを得ることではなくて、「存在するとはどういうことか」という途方もなく大きな穴を覗き込ませることにある。覗いたところで何も見えない。何も見えないけれど、穴がそこにあることだけはわかる。わかったところで、何も変わらない。
木は倒れた。あなたは聞いていなかった。
それだけのことだ。