便利な言葉が思考を眠らせる

「すごい」「重要」「さまざま」「多い」。便利な言葉だ。何にでも使えて、文字数も稼げる。だが、これらの言葉は、実は何も言っていない。

レポートの添削で最も多い指摘は、文法のミスではない。「具体的に書いてください」だ。

言葉の節約は思考の放棄である

「言葉の節約」とは、本来なら具体的に書くべきところを、曖昧な言葉で済ませてしまうことを指す。

「この問題はすごく重要である」。何がすごいのか。誰にとって重要なのか。どの程度重要なのか。この一文には情報がほとんど含まれていない。書いた本人は何かを伝えたつもりだが、読み手には何も伝わっていない。

言葉を節約しているように見えて、実際には思考を節約している。「すごい」と書いた瞬間、「何がどの程度すごいのか」を考える作業を放棄している。具体的に言い換える作業こそが、思考そのものだ。

雑語リストと言い換えの方向

大学生のレポートで頻出する曖昧な言葉と、その言い換えの方向性を示す。

「すごい」 何がどの程度そうなのかを数値や比較で示す。「前年比で30%増加した」「他の手法と比較して処理速度が2倍になる」。

「重要」 誰にとって、なぜ重要なのかを明示する。「政策立案者にとって、財源配分の判断基準として重要である」。

「多い」「少ない」 数字を入れる。比較対象を入れる。「全体の68%を占める」「前年の半数以下に減少した」。

「さまざま」 具体的に列挙する。「経済的要因、文化的要因、制度的要因の3つが挙げられる」。

「〜と言われている」 誰が言っているのかを示す。「田中(2020)は〜と指摘している」。大学生がレポートでどう引用すればいいか迷ったらに書いたとおり、出典を明示することで主張の信頼性が上がる。

「〜的」 何が「的」なのかを具体化する。「効率的」なら「処理時間が従来の半分になる」。「本質的」なら「根本的な原因は〜にある」。

「〜など」 列挙を途中でやめる言葉。使うなら、少なくとも3つは具体例を示してから使う。1つだけ示して「など」で逃げるのは、他の例を思いつかなかった証拠に見える。

「いろいろ」 「さまざま」と同じ問題を抱えている。具体的に並べる。

「ある意味」 「どういう意味で」かを明示する。「ある意味で正しい」は、どの文脈で正しいかを限定していないから、何も主張していないのと同じだ。

「基本的に」 例外がある場合にだけ使う。「基本的にAだが、Bの場合は例外である」。例外を示せないなら、「基本的に」を取って断定する方が正確になる。

「非常に」 「すごい」と同様、程度を具体化する。「非常に大きな影響」ではなく「GDP比3%の損失をもたらす影響」。

「一般的に」 何をもって「一般的」とするかの根拠を示す。統計データか、学術的合意か、経験的観察か。根拠を示さない「一般的に」は、個人の印象を一般論に偽装しているだけだ。

なぜ雑語が生まれるのか

雑語を使ってしまう原因はいくつかある。

時間がない。 締め切り直前に書くと、言葉を吟味する余裕がない。「すごい」で済ませた方が早い。だが、その「早さ」は読者への負担として転嫁される。

考えがまとまっていない。 自分の中で主張が整理されていないとき、曖昧な言葉で誤魔化しやすい。書くことは考えることだ。努力できない仕組みの分析に書いたように、「やるべきだと分かっているのにできない」には構造的な要因がある。言葉を曖昧にしてしまうのも、その一種かもしれない。

読者を想定していない。 「分かるだろう」という甘えが雑語を生む。自分の頭の中では「すごい」の内容が見えているから、それで十分だと錯覚する。だが、読者の頭の中には何もない。

「うまい文章」ではなく「正確な文章」

目指すべきは、うまい文章ではない。正確な文章だ。

正確な文章とは、読者が誤解する余地が少ない文章のことだ。主語が明示されている。数量が具体的。根拠が示されている。範囲が限定されている。

ジョージ・オーウェルは1946年のエッセイ「政治と英語」で、文章を書く際のルールを6つ挙げた。その中の一つに「短い言葉で済むなら長い言葉を使うな」がある。だが同時に、「既製の言い回しを使わず、自分の言葉で考えろ」とも書いている。雑語はまさに「既製の言い回し」だ。便利だから使い回されているが、思考が通っていない。

文章のうまさは才能に依存する部分があるが、正確さは技術で身につく。雑語を具体語に置き換えるだけで、レポートの質は一段上がる。大学生、初めてのレポートで基本的な構成を押さえた上で、この「言い換え」の習慣を加えれば、レポートで困ることは大きく減るはずだ。

まとめ

「すごい」「重要」「さまざま」。これらの言葉が出てきたら、一度立ち止まる。何がすごいのか。誰にとって重要なのか。具体的に何と何が含まれるのか。その問いに答える作業が、文章を書くということだ。言葉の節約は、効率ではない。思考の放棄だ。

Read more

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu