大学に入ってから1年が異様に速く感じる理由

高校までの1年は長かった。4月の入学式から3月の終業式まで、体感としても確かに1年分の重みがあった。ところが大学に入った途端、1年が蒸発するように過ぎる。2月になって「え、もう?」と思う。なぜこうなるのか。

二つの「速さ」

時間の速さには、二つの種類がある。経験中の時間(prospective time)と、回想時の時間(retrospective time)だ。

経験中の時間とは、「今この瞬間がどれくらいの速さで流れているか」という感覚だ。退屈な講義の90分は永遠に感じる。逆に、夢中で何かに取り組んでいるとき、時間はあっという間に過ぎる。

回想時の時間とは、「あの期間はどれくらい長かったか」という振り返りの感覚だ。問題はここにある。経験中に「速い」と感じた時間は、振り返ると「短い」。経験中に「遅い」と感じた時間は、振り返ると「長い」。リアルタイムの体感と、記憶の中の体感は、しばしば逆転する。

大学生が感じる「1年が速い」は、主にこの回想時の時間に関わっている。

ジャネーの法則の魅力と限界

フランスの哲学者ポール・ジャネは1877年に、体感時間は年齢に反比例するという考えを提示した。10歳の子どもにとっての1年は人生の10分の1だが、20歳にとっての1年は20分の1にすぎない。この比率の差が、年齢を重ねるほど時間が速く感じられる原因だ、と。

直感的にはわかりやすい。しかし、この法則だけでは大学に入った瞬間の急激な加速を説明できない。18歳と19歳の比率の差はわずかなのに、高校3年と大学1年の体感時間の差は劇的だ。ジャネーの法則は長期的な傾向の説明としては有効だが、特定の時期の急変を捉えるには粗すぎる。

4000週間という限られた持ち時間を前にして時間の流れを意識するとき、ジャネーの法則は直感的な足がかりにはなる。だが、その先を掘る必要がある。

記憶の密度が時間をつくる

認知心理学では、回想時の時間の長さが「記憶の密度」に依存するという仮説が提示されている。ある期間に新しい出来事が多ければ多いほど、振り返ったときにその期間は長く感じられる。

これは一見、大学生活に当てはまらないように思える。大学1年目は新しいことだらけだ。新しいキャンパス、新しい人間関係、新しい生活リズム。記憶の素材はむしろ豊富なはずだ。なのになぜ「速い」のか。

答えは「ルーティン化の速度」にある。大学生活は、高校生活に比べてルーティン化が驚くほど速い。最初の数週間は新鮮だった通学路も、1か月もすれば景色として認識されなくなる。新しかった教室の配置も、友人の顔ぶれも、食堂のメニューも、すぐに「いつものもの」になる。ルーティンは記憶に残りにくい。火曜日の昼に何を食べたか、3か月後に思い出せる人は少ない。

大学生活の構造的な問題

高校までの時間割は外部から与えられる。朝8時に登校し、6時間の授業を受け、部活をして帰る。時間は隙間なく構造化されている。その構造が記憶のフックになる。「あの授業の後に部活があって、帰りにあの道を通った」という連鎖が、時間に輪郭を与える。

大学に入ると、この構造が一気に緩む。時間割は自分で組む。空きコマがある。何をしてもいい時間が生まれる。その自由は、使い方を知らなければただ溶けて消える。空白の時間は記憶に残らない。記憶に残らない時間は、振り返ったときに存在しなかったことになる。

1年間のうち、記憶に残る出来事が少なければ、その1年は振り返ると「一瞬」になる。物理的には同じ365日なのに、回想上の密度が違う。

「忙しい」は「充実」ではない

「忙しかった」と「充実していた」は、似ているようで違う。忙しさは時間を埋めるが、必ずしも記憶を作らない。毎日同じ講義に出て、同じ課題をこなし、同じアルバイトに行く。忙しくはあるが、どの一日も他の一日と区別がつかない。

クラウディア・ハモンドは著書 Time Warped(2012年)で、時間を長く感じるための条件として「新しさ」と「注意の集中」を挙げている。新しい経験は注意を引き、記憶に刻まれ、振り返ったときにその期間を「長い」ものにする。逆に、習慣化された行動は意識の表面を滑り落ち、記憶のなかで存在感を失う。

時間を遅くするために

時間の加速は止められない。しかし、遅くすることはできるかもしれない。

ひとつは、ルーティンを意識的に壊すことだ。通学路を変える。行ったことのない店に入る。話したことのない人と話す。新しい経験は記憶に残り、振り返ったときの時間密度を上げる。

もうひとつは、記録をつけること。日記でも写真でもいい。記録する行為そのものが、出来事への注意を高め、記憶を定着させる。「写真を撮ると、その場面の記憶がより鮮明に残る」という知見は、複数の心理学研究で報告されている。カメラを向けた瞬間、注意がその場面に集中する。その集中が、記憶をつくる。

大学生活が速いのは、同じ日々が繰り返されるからだ。同じ日々を繰り返しながら、そのなかに小さな異物を差し込むこと。それだけで、1年の手触りは変わる。

まとめ

大学に入ってから1年が速いのは、年齢のせいだけではない。大学生活の構造が、ルーティン化を加速させ、記憶に残る出来事を減らしている。時間は、経験の量ではなく、記憶の密度によって長さを変える。何もしなかった午後は、振り返ったとき、そこに存在しなかったことになる。1年を長くする方法があるとすれば、それは忙しくすることではなく、記憶に残る瞬間を意識的につくることだ。

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