あなたは昨日と同じことをする

今朝、あなたは何をしたか。

目が覚めて、スマホを見て、歯を磨いて、服を着た。どれか一つでも「今日初めてやること」だっただろうか。たぶん、ない。明日も同じことをする。明後日も。そしてそのことに、ほとんど意識を向けない。

私たちは習慣の生き物だ。これは殺し文句ではなく、記述だ。一日の行動の大半は習慣であり、その習慣は意識的な決定を経由しない。問題は、それが何を意味するかだ。習慣とは自由の放棄なのか。それとも、自由の条件なのか。

徳は繰り返しから生まれる

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第2巻で、習慣について最も有名な主張を行った。徳(アレテー)は知識ではなく、習慣(ヘクシス)である。

「私たちがあることをする前に学ばなければならないことは、それをすることによって学ぶ」。建築家は建てることによって建築家になり、竪琴弾きは弾くことによって竪琴弾きになる。同様に、正しい行いを繰り返すことによって正しい人になり、勇敢な行いを繰り返すことによって勇敢な人になる。

ここには、プラトンへの明確な反論がある。プラトンは徳を知識の問題とした。「善」とは何かを知れば、人は善く振る舞う。悪とは無知である。アリストテレスはこれを退けた。徳は知的な条件だけでは成立しない。適切な感情反応を含む、全体的な傾向性(ヘクシス)が必要だ。そしてそれは、繰り返しによってしか得られない。

この主張は希望的にも絶望的にも読める。希望的に読めば、人は訓練可能だということだ。繰り返しによって、より良い人間になれる。絶望的に読めば、徳は自発的なものではないということだ。善人は善くあることを「選んだ」のではなく、善くあることに「慣れた」のだ。誰も何も選んでいないのだとしたら、徳もまた選ばれたものではなく、反復されたものにすぎない。

アリストテレスはさらに、習慣の両義性を指摘する。竄を弾く習慣が良い竄弾きも悪い竄弾きも作るように、習慣は徳も悪徳も同じメカニズムで生産する。習慣そのものには方向性がない。善に向かうか悪に向かうかは、習慣の外側から来る。しかし、その「外側」がどこにあるのかは、アリストテレスも明確には答えていない。

習慣という名の推論

デイヴィッド・ヒュームは、習慣をまったく別の場所に置いた。徳の問題ではなく、認識の問題として。

ヒュームにとって、因果関係とは「習慣(custom)」にすぎない。太陽が昨日昇ったから今日も昇る、と私たちは信じる。しかし、昨日と今日の間に論理的な必然性はない。あるのは、繰り返しの経験が生み出した「傾向性」だけだ。それをヒュームは「習慣」と呼んだ。

これは恐ろしい主張だ。私たちが「因果関係」だと思っているものは、実際には経験の繰り返しが生み出した心理的な傾向にすぎない。「火は熱い」という信念さえ、厳密には習慣に基づいている。火に触れて熱かった経験の繰り返しが、「火は熱い」という期待を生んでいる。論理がそう導いたのではなく、身体がそう「慣れた」のだ。

ヒュームはしかし、習慣を否定的に捉えたわけではない。彼は習慣を「人生の偉大な導き手(the great guide of human life)」と呼んだ。習慣がなければ、私たちは一歩も踏み出せない。毎回、太陽が昨日と同じように昇るかどうかを疑うような生活は不可能だ。習慣は、懐疑論からの救済であると同時に、懐疑論を覚ます原因でもある。

習慣がすべてを支えている。理性でさえ、習慣の上に立っている。この認識は、私たちの「理性的」という自己像を根底から揺るがす。

第二の自然

フェリックス・ラヴェッソンは1838年の『習慣論(De l’habitude)』で、習慣の「二重法則」を提示した。習慣が深まるにつれて、二つのことが同時に起きる。受動性が減少し、能動性が増大する。

たとえば、初めてピアノを弾くとき、鍵盤の硬さ、指の痛み、音の大きさに圧倒される。感覚的な刺激が強い。しかし練習を重ねると、それらの刺激は薄れていく。同時に、指が勝手に動くようになる。意識的な努力なしに、身体が音楽を奏でる。受動性の減少と能動性の増大。これが習慣の二重法則だ。

ラヴェッソンは、習慣を「第二の自然(seconde nature)」と呼んだ。最初は意識的な努力が必要だった行為が、繰り返しによって自然なものになる。意志が身体に沈潯し、身体が意志の代わりに動く。ここには、精神と身体の二元論を揺るがす何かがある。習慣の中では、意志と身体の境界が曖昧になる。

そして、この「第二の自然」は、自由の基盤になるとラヴェッソンは論じた。音楽家が曲を作るとき、その創造性は、楽器を弾く習慣、音楽理論の習慣、譜面を読む習慣の上に成り立っている。習慣が下層を引き受けることで、意識はより高次の活動に専念できる。習慣は自由を奪うのではなく、自由のための余白を作る。

ただし、この希望的な読みには影がある。習慣が自由の「条件」であるなら、自由は自己完結的ではない。自由は習慣に依存しており、習慣は反復に依存している。自由の根は、自動機械の中にある。鏈のない牢獄というイメージがあるが、習慣はまさにその構造だ。鏈はない。しかし、壁はある。そしてその壁を、私たちは意識しない。

収縮する現在

ジル・ドゥルーズは『差異と反復』(1968年)で、習慣を時間論の問題として再定義した。

ドゥルーズにとって、習慣は「時間の第一の総合」である。それは「収縮(contraction)」として記述される。過去の繰り返しを収縮し、未来への期待を生み出す。現在とは、過去と未来のあいだに習慣が作り出す「生きられた現在(living present)」だ。

これはヒュームを徹底化したものだ。ヒュームが「因果は習慣だ」と言ったところを、ドゥルーズは「時間そのものが習慣だ」という地点まで押し進めた。私たちが「現在」と感じているものは、実際には過去の反復が収縮されたものだ。そしてこの収縮は「受動的総合(passive synthesis)」である。意識が行うのではなく、意識の下で勝手に行われる。

ドゥルーズは別の場所でこう書いた。「私たちは何か。私たちは習慣だ。習慣以外の何ものでもない」。「私」と言う習慣。この一文は、どこが私かという問いに対する、もっとも不気味な答えかもしれない。「私」は実体ではなく、反復の収縮である。つまり、習慣である。

さらに重要なのは、ドゥルーズが反復を「同一のものの繰り返し」とは考えなかったことだ。反復の中には、つねに差異が含まれている。同じ散歩コースを歩いても、天候が違う、季節が違う、身体の状態が違う。反復は決して同一ではない。ベルクソンの純粋持続が示したように、時間は均質な反復ではなく、つねに質的な変化を含んでいる。習慣は同じことの繰り返しに見えて、その実、毎回が異なっている。

身体の記憶

習慣の場所は、究極的には身体だ。

メルロ=ポンティの現象学は、身体が単なる「精神の容れ物」ではなく、独自の知を持つ主体であることを示した。メルロ=ポンティの『知覚の現象学』が描いた「身体図式(schéma corporel)」は、習慣が体に刻まれる過程そのものだ。

タイピストはキーボードの配置を「知って」いる。しかし、「Aのキーはどこか」と聞かれると、すぐには答えられない。指が知っているが、意識は知らない。身体の知と意識の知は、異なる種類の知だ。習慣とは、意識の知が身体の知に沈潯していく過程だ。

ウィリアム・ジェイムズは『習慣』(1890年)の中で、習慣を神経系の可塑性の問題として描いた。神経回路は繰り返しによって強化され、ある行動が「自動的」になる。ジェイムズはこれを「水が川床を彫るように」と表現した。最初は浅い溝だが、水が繰り返し流れることで、深く、広く、水は自然にその道を選ぶようになる。

これは美しい比喩だが、不気味な比喩でもある。川床が彫られれば彫られるほど、水は別の道を選べなくなる。習慣が深まれば深まるほど、そこからの逸脱は困難になる。自由の条件であると同時に、自由の檜でもある。鏈を愛した動物がいたように、私たちは習慣という鏈を愛するようになる。それが心地よいから。

自由の条件か、自由の放棄か

この問いに、哲学は二つの答えを用意している。そしてどちらも正しい。

ラヴェッソンの線に沿えば、習慣は自由の条件だ。下層の自動化が、上層の創造性を可能にする。歩く習慣があるから、散歩しながら考え事ができる。言語の習慣があるから、詩が書ける。呼吸の習慣があるから、呼吸のことを忘れて生きられる。

その一方で、習慣は自由の放棄でもある。習慣化された行動は、もはや選択の対象ではない。毎朝同じ道を歩くのは、「選んでいる」のではなく、「選ばなくなっている」のだ。反復が選択を消去する。意識が習慣に吸収され、行動が自動化され、「私」は習慣の乗客になる。

おそらく、この二つは矛盾しない。習慣は自由の条件であると同時に、自由の放棄である。「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」だ。自由になるために自由を放棄するという、不快な構造。歩く自由を得るために、歩くことを意識する自由を放棄する。言葉を自由に使うために、言葉の規則に服従する自由を放棄する。

これは、自由という概念そのものの欠陥かもしれない。自由は、自動化の上にしか成立しない。つまり、自由はつねに不自由を前提としている。完全な自由、すなわちいかなる習慣にも依存しない自由は、何もできない自由だ。何もが自動化されていない存在は、呼吸のたびに呼吸を意識し、歩行のたびに筋肉を意識する。それは自由ではなく、麻痺だ。

溝の深さ

アリストテレスは習慣から徳が生まれると言った。ヒュームは、因果関係さえ習慣だと言った。ラヴェッソンは、習慣が自由の地盤だと言った。ドゥルーズは、私たちは習慣以外の何ものでもないと言った。メルロ=ポンティは、身体が意識より先に知っていると言った。ジェイムズは、習慣が神経に溝を彫ると言った。

すべてが同じことを言っている。私たちは、繰り返しの産物だ。

そして、その繰り返しに、私たちはほとんど気づいていない。今朝、あなたが歯を磨いたのは、歯を磨くことを「選んだ」からではない。昨日も磨いたからだ。さらにその前の日も。そしてそのさらに前の日も。一番最初に歯を磨いた日、それはおそらく誰かに教えられたのだろうが、その日の記憶はもうない。習慣はその起源を消去する。「なぜそうするのか」という問いを、習慣は不要にする。その不要さが、習慣の力だ。

ジェイムズの比喩に戻る。水が川床を彫る。溝が深くなる。いつか水は、別の道を知らなくなる。その溝が、あなただ。あなたの「性格」と呼ばれるもの、「個性」と呼ばれるもの、「自分らしさ」と呼ばれるもの。それらはすべて、水が彫った溝の形だ。

溝の形を「自由に選んだ」と言えるだろうか。言えない。しかし、溝がなければ水は流れない。溝なしの自由は、水たまりの自由だ。それは自由ではなく、停滞だ。

明日もあなたは同じことをする。それは悲しいことではない。ただ、それを「選んでいる」と思わない方がいい。あなたは流れているだけだ。昨日彫られた溝の中を、今日も。そしてその溝を、今日も少しだけ深くしている。

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