繰り返されてなお残る言葉たちへ

「使い古された表現を避けろ」という助言は、表現を巡る議論のなかで最も使い古された表現の一つだ。

クリシェ(cliché)はフランス語の印刷用語に由来する。活版印刷で繰り返し使う鋳型のことで、同じ型から同じ文字が何度でも刷り出される。そこから転じて「型にはまった独創性のない表現」を指すようになった。ステレオタイプも同じ語源を持つ。型から作られる量産品。

だが型が繰り返されるのには理由がある。何百年、何千年と反復されてなお生き残っている構造は、その持続性自体が何かを証明している。淘汰を生き延びた表現。では何が、それを生き延びさせたのか。

型はプロトコルである

起承転結。序破急。三幕構成。英雄の旅。

物語の「型」は、退屈の原因ではない。書き手と読み手が情報を受け渡すためのプロトコルだ。

ジョーゼフ・キャンベルは『千の顔を持つ英雄』(1949年)で、世界中の神話に共通する物語構造を抽出した。出発、イニシエーション、帰還。この「モノミス」と名づけられた型は、ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』の脚本に直接応用したことで広く知られている。しかしルーカスが借りたのは構造であって、物語そのものではない。構造は器であり、中身は毎回異なる。

型を共有していると、読者は「起」を読んだ時点で全体の地図を手にする。地図があるから安心して歩ける。安心は退屈ではない。「次にこれが来るだろう」という予測がうっすら立ち、その予測が的中すること自体が快楽になる。

この快楽の構造は音楽によく知られている。西洋和声におけるドミナント(V度)からトニック(I度)への解決は、緊張から安定への移行として聴き手に深い満足を与える。調性音楽の根幹をなすこの進行は、バッハからポップスまで数えきれないほど繰り返されてきた。飽きられていない。予測可能な解決がもたらす生理的な快感は、反復では減衰しない。逆に言えば、現代音楽が「分からない」と感じられるのは、この共有プロトコルから意図的に逸脱しているからだ。プロトコルの外に出れば、予測は立たず、快楽の回路も動かない。

アリストテレスは『詩学』で悲劇の構造を分析し、ペリペテイア(逆転)とアナグノリシス(認知)という二つの要素を抽出した。運命が反転し、登場人物がその反転の意味に気づく瞬間。この二つが重なるときに最も強いカタルシスが生まれる、と。紀元前4世紀の分析だが、2400年後の映画脚本にそのまま通用する。人間の感情の構造が変わらないから、型も変わらない。

新しさは義務ではない

クリシェ批判の前提には、「新しさ」が表現の価値基準であるという信念がある。独創的であれ。前例のないものを作れ。既存の枠を壊せ。

だが、新しさは表現の必要条件なのか。

読者が本当に求めているのは「読んだことのない文章」なのか、それとも「読んでよかった文章」なのか。この二つは必ずしも重ならない。カレーライスを何百回食べても注文する人は多い。それを「創造性がない」と批判する人はいない。料理に求められているのは新規性ではなく、満足だからだ。

表現にも同じ構造がある。「お約束」を楽しむジャンルがある。時代劇、プロレス、少年漫画。観客はこの先何が起きるかをおおむね知っている。知った上で見に来ている。型どおりに進む心地よさに対価を払っている。一方で、「お約束」を嫌うジャンルもある。純文学、現代アート、実験映画。しかし前者が「低俗」で後者が「高級」だという序列は、嗜好の問題であって、表現の質の問題ではない。

クリシェが機能しなくなる瞬間はある。型が見え透いて、操作されていると感じるとき。書き手が型に何も付け加えず、なぞるだけで手を止めたとき。しかしそれはクリシェそのものの問題ではなく、クリシェとの距離の問題だ。

裏切りは型を前提とする

メタフィクション。叙述トリック。物語の定型を意図的に裏切る表現は、「型を壊す」行為として評価されることが多い。

しかし壊すためには、まず型がなければならない。

読者が起承転結を予期しているからこそ、「転」のない物語に衝撃が走る。和声のルールを共有しているからこそ、不協和音が不協和音として機能する。型を壊す表現とは、型の存在を最も強く前提にしている表現だ。

美術館で何を見ればいいか分からないという経験は、ここに接続する。デュシャンの『泉』が衝撃だったのは、「芸術とはこういうものだ」という型を観客が共有していたからだ。型を知らない観客にとって、型の破壊はただの意味不明になる。前衛は共有された文脈なしには成立しない。

同じことは古典文学の読みにくさにも通じる。古典は、当時の読者と共有されていた型の上に書かれている。現代の読者がその型を持っていなければ、作品が何を試みているのかが見えない。挫折するのは読者の能力不足ではなく、共有すべきプロトコルが断絶しているからだ。

日常という巨大なクリシェ

「お疲れ様です」「よろしくお願いします」「お世話になっております」。

日本語の日常会話はクリシェで構成されている。独創的な挨拶を毎朝考案する人はいない。なぜなら、これらは表現ではなく社会的な潤滑剤として機能しているからだ。

表現の独創性と伝達の効率性にはトレードオフがある。独創的であればあるほど、相手に伝わるまでの認知的コストが上がる。日常のコミュニケーションでそのコストを引き受ける必要はない。

SNSで「エモい」とされる写真や文章にも型がある。夕焼け。逆光のシルエット。ポエム調のキャプション。「量産型」と嘲るのは簡単だが、繰り返される理由を考えたほうが面白い。人が夕方の光で立ち止まるのは、美的センスの問題ではない。人間の視覚系が光の変化に対して敏感に反応するようにできているからだ。型の奥には、表現以前の生理的基盤がある。感動の「型」を嘲笑う人は、自分もまたその型の中にいることに気づいていない。

成功した表現の老齢期

「クリシェを避けろ」というアドバイスそのものがクリシェだ。

この再帰構造が示しているのは、クリシェから完全に逃れることは原理的に不可能だということだろう。ある表現が十分に多くの人に届き、十分に長い時間を生き延びれば、やがてクリシェと呼ばれるようになる。つまりクリシェとは、成功した表現の老齢期だ。若くて斬新だった言い回しが年を重ね、繰り返されるうちに「陳腐」のレッテルを貼られる。しかし老いは失敗ではない。長く生きた証拠だ。

型を知り、型を使い、型との距離を意識しながら書く。型を無視して独創的だと思い込むより、型の中で何ができるかを問うほうが、おそらく難しい。そして難しいことのほうが、たいてい面白い。

フィクションに泣くという行為が教えてくれるのは、人間が型に反応する生き物だという事実だ。架空の物語に涙するとき、その涙の回路は物語の「型」によって起動されている。使い古されていようが、初見だろうが、回路が動けば涙は出る。クリシェは人間の認知構造に宿っている。だから死なない。

この文章の構成もまた、定義から入って構造を示し、反例を挟んで限界に触れるという型を踏んでいる。それ自体がクリシェかもしれない。しかし、伝わっただろうか。伝わったなら、型は仕事を果たしている。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu