人が比較でしか幸福を測れない理由
幸福には単位がない。
体重はキログラムで測れる。気温は摂氏で測れる。距離はメートルで測れる。だが、幸福を測る単位は存在しない。「今日の幸福度は73ハッピーです」とは言えない。
だから人は比較する。他の誰かと。昨日の自分と。あるいは、想像上の「あるべき自分」と。それ以外に、自分がどれだけ幸福かを知る方法がない。
隣の芝が永遠に青い理由
レオン・フェスティンガーは1954年に社会的比較理論を提唱した。人間は客観的な基準がないとき、他者との比較によって自分の能力や意見を評価する、という理論だ。
幸福にも同じことが当てはまる。幸福の絶対的な基準がないから、人は周囲を見渡す。友人の昇進。同僚の結婚。SNSに流れてくる誰かの旅行写真。それらと自分の状況を並べて、自分が「まあまあ幸せ」なのか「不幸せ」なのかを判定する。
問題は、比較の対象が常に上方に偏ることだ。自分より幸せそうに見える人間ばかりが目に入る。これはSNSによって劇的に悪化した。かつての比較対象は近所の人間や職場の同僚に限られていた。今では世界中の「幸せそうな人間」が比較対象になる。
あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚本の上で踊っているだけだったかもしれない。あなたが欲しいと思ったものは、本当にあなたが欲しかったものなのか。それとも、誰かが持っているのを見て欲しくなったものなのか。
順応という名の裏切り
幸福研究の中で最も残酷な知見のひとつが、ヘドニック・トレッドミル(快楽の踏み車)だ。
人間は良いことにも悪いことにも順応する。昇給しても、新しい家に引っ越しても、恋人ができても、一定期間が経てば幸福度は元のレベルに戻る。Dienerらの研究によれば、人間の幸福度には「セットポイント」があり、大きな出来事による変動も、やがてはこの基準線に回帰する傾向がある。
これはつまり、どんなに幸福を追求しても、あなたの幸福度はほぼ同じ場所に留まり続けるということだ。走り続けているのに、景色が変わらない。虚空をつかむように、手を伸ばしても指の間から零れ落ちる。
それでも明日の朝また幸せを冀う。そのこと自体が、この踏み車の動力源だ。
比較できない幸福
だが、すべての幸福が比較によって測られているわけでもない。
たとえば、風呂に入ったときの気持ちよさ。日向で目を閉じたときの温もり。好きな食べ物を口にした瞬間の味覚的な快。これらの身体的な幸福は、他者との比較を必要としない。誰かの入浴体験と自分の入浴体験を比較する人間はあまりいない。
ところが、地位、収入、容姿、学歴、キャリア、人間関係といった社会的な幸福は、ほぼすべてが比較によってしか評価できない。そして人間が「幸福」と呼ぶものの大部分は、この社会的な幸福に分類される。
つまり、人が比較でしか幸福を測れないのは、人が幸福と呼んでいるものの多くが、そもそも比較の中でしか存在しない種類のものだからだ。
アンカーのない海
心理学にアンカリング効果がある。最初に提示された数値が、その後の判断に影響を与えるという認知バイアスだ。
幸福にもアンカーがある。ただし、そのアンカーは常に動いている。友人の成功がアンカーになり、SNSのタイムラインがアンカーになり、過去の自分の「あのときは幸せだった」という記憶がアンカーになる。そしてアンカーが動くたびに、あなたの幸福の評価も揺れ動く。
私という凡庸は、比較の海の中でいっそう際立つ。誰かの傑作の隣に並んだとき、自分の作品がどれだけ小さく見えるか。誰かの成功の隣に立ったとき、自分の日常がどれだけ退屈に見えるか。
測れないまま生きる
「比較をやめましょう」というアドバイスは、至るところに溢れている。そして、そのアドバイスはほとんど機能しない。
比較は意志の問題ではなく、認知の構造の問題だからだ。目の前にリンゴとミカンがあれば、脳は自動的に比較を始める。幸福についても同じだ。他者の状況が視界に入る限り、比較は止まらない。「比較をやめろ」は「考えるのをやめろ」と同じくらい無理な要求だ。
幸福という自殺が示唆するように、幸福を追求すること自体が幸福から遠ざかる運動になりうる。だとすれば、「自分は幸せかどうか」という問いを立てること自体が、すでに罠なのかもしれない。
幸福には単位がない。測れないものを測ろうとするから苦しくなる。だが、測らずにいることは、人間にはできない。
比較しなければ幸福がわからない。比較すれば幸福が消える。その間で、あなたはこれからも揺れ続ける。