言葉を研ぐほど声は遠くなる

哲学書を開いて3ページで閉じた経験は、哲学に興味を持ったことがある人なら一度はあるだろう。「なぜこんなに分かりにくく書くのか」、「わざと難しくしているのではないか」。この疑問は自然だが、答えは「半分当たっていて、半分外れている」である。

難しさの正体は一つではない

哲学の文章が難しい理由は複数あり、それを区別せずに「わざと難しくしている」と括ってしまうことが、誤解の出発点になる。ここでは4つの原因を分けて考える。

精密化の代償

哲学が日常語を避けるのは、日常語が曖昧だからである。「自由」という言葉ひとつとっても、日常会話では「好きにしていいよ」から「政治的自由」まで、文脈によって意味が大きく異なる。哲学はその曖昧さを許容できない。

たとえば「自由意志」を論じるとき、「自由」が何を指すのかを厳密に定義しなければ、議論が成立しない。そのために専門用語を導入し、定義を重ね、限定条件を付す。結果として文章は長く、複雑になる。これは難しくしたいのではなく、正確にしたいのである。

「存在」「本質」「主観」「認識」。これらの語は日常でも使われるが、哲学での意味は日常語とズレている。そのズレに気づかないまま読むと、著者が何か奇妙なことを言っているように見える。奇妙なのは著者ではなく、同じ言葉に別の意味が載っていることのほうである。

誤読を防ぐ限定表現

カントの文章が長いのは有名だが、その長さの多くは条件節の積み重ねに由来する。「AがBである場合に限り、かつCという条件のもとで、DはEと言える」。読みにくいが、各条件を省略すれば主張の範囲が不正確になる。

これは法律の文章が読みにくいのと同じ構造である。「誤読されないこと」を優先すると、文章はどうしても硬くなる。カントが条件節を積み重ねているのは、「この主張はここまでは言えるが、ここから先は言っていない」という境界を正確に示すためである。

読者にとっては負荷が高い。しかし、条件を省略して「AはEである」と書けば、カントはそう言っていないことを言ったことにされてしまう。

論理的含意の保持

哲学の議論では、「AならばB」「BならばC」という推論の連鎖が核になる。この連鎖のどこかで論理が壊れると、結論が成立しなくなる。そのため、各ステップを明示的に記述する必要がある。

日常会話では多くの推論が省略される。「まあそうだよね」で飛ばせる部分を、哲学は飛ばさない。その愚直さが読者にとっての負荷になる。しかし飛ばせば、論証としての価値を失う。

翻訳による難化

日本語で哲学書を読むとき、難しさの相当部分は翻訳に起因する。ドイツ語やフランス語の文構造を日本語に移すと、原文では自然な語順が不自然になる。長い関係節が主語と述語の間に割り込み、どこにかかるのかが見えにくくなる。

カントやヘーゲルの原文は確かに難解だが、翻訳はそれ以上に読みにくいことが多い。原語では一語で済む概念が、日本語では数語の術語に置き換えられ、注釈なしには意味が取れなくなる。

現代音楽が理解不能に感じる理由で述べたように、文脈やプロトコルを共有していなければ、表現の意図は届かない。翻訳された哲学書は、その文脈がさらに一層隔てられた状態で読者に届く。原文で読んでも難しいものが、翻訳でさらに難しくなるのは当然である。

分かりやすく書ける哲学者は存在する

プラトンは対話篇という形式で、登場人物の会話を通じて哲学的問題を展開した。バートランド・ラッセルは明晰な英語で論理学と哲学を書いた。サルトルは小説という形式で実存主義を描いた。

では、なぜすべての哲学者がそうしないのか。理由の一つは、分かりやすさと正確さがしばしばトレードオフの関係にあることである。プラトンの対話篇は読みやすいが、プラトンが「本当に何を主張していたか」は2000年以上議論が続いている。分かりやすさは、時として解釈の余地を広げすぎる。

もう一つの理由は、扱う問題の性質にある。世界はそこで終わっているで触れたように、言語の限界に関わる問題は、日常語の枠内では正確に記述しにくい。日常語を使う限り日常的な意味に引きずられるため、あえて非日常的な表現を採用せざるを得ない場面がある。

「分かりにくい=深い」も誤解である

難しく書かれているから深いとは限らない。逆に、分かりやすく書かれているから浅いとも限らない。難易度と深度は独立した変数である。

「分かりにくいから偉い」という権威主義も、「分かりやすくないのは怠慢だ」という反知性主義も、どちらも哲学の文章を正当に評価する態度ではない。哲学書が読めない理由は難しさではないで論じたように、哲学書が読めないのは、問いそのものに馴染みがないからであることも多い。

不必要に晦渋な文章を書く哲学者がいるのも事実である。しかし、難しさの多くには理由がある。その理由を知った上で「読みにくい」と言うのと、知らずに「わざと難しくしている」と断じるのでは、批判の質がまったく異なる。

まとめ

哲学の文章が難しいのは、精密化、誤読防止、論理的含意の保持、そして翻訳という4つの原因が重なった結果である。「わざと難しくしている」という批判は、これらを区別していない。哲学書を読むときに必要なのは、忍耐や知能ではなく、「なぜこの書き方をしているのか」を考える視点である。その視点があれば、難しさは壁ではなく、著者が何を守ろうとしているかを示す手がかりになる。

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