穴は開いたまま誰も埋めない

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。

この問いに答えた人間は、まだいない。たぶん、これからもいない。1714年、ライプニッツがこの問いを定式化してから3世紀が過ぎた。物理学者が宇宙の始まりを計算し、神学者が第一原因を語り、論理実証主義者が「無意味だ」と宣告した。それでも問いは閉じなかった。ハイデガーはこれを「形而上学の根本問題」と呼んだけれど、根本問題と名付けたところで根本が見えるわけではない。

あなたは今日も、理由なく存在している。

すべてには理由がある、はずだった

ライプニッツの充足理由律(Principle of Sufficient Reason)は、こう主張する。

いかなる事実も、それがそうであり他でないための十分な理由なしには、成立しえない。 (『モナドロジー』第32節、1714年)

美しい原理だと思う。あらゆるものに理由がある。この椅子がここにあるのにも、この惑星が青いのにも。世界は説明可能な場所であってほしいという願いを、ライプニッツは原理にまで昇華した。

ところが、この原理を「存在そのもの」に適用した途端、足場が崩れる。

「存在全体」の理由は何か。それは存在全体の外部にあるはずだが、存在の外側には「無」しかない。無は何の理由にもならない。そして充足理由律そのものが「なぜ充足理由律は成り立つのか」という問いに晒される。原理が自分自身を支えられない。底が抜けたのは、数学の基礎だけではなかったらしい。

神を置いても穴は塞がらない

宇宙論的論証(Cosmological Argument)の骨格は単純だ。

  1. すべてのものには原因がある
  2. 原因の系列は無限に遡れない
  3. ゆえに第一原因が存在する
  4. その第一原因を「神」と呼ぶ

一見すると隙がない。しかし「神にはなぜ原因がないのか」という問いが即座に発生する。「神は必然的存在だから原因を必要としない」と答えるなら、なぜ宇宙そのものが必然的存在ではいけないのかを説明しなければならない。神を据えることで問いが一段ずれただけで、穴は塞がっていない。

ライプニッツ自身もこの困難を意識していた。彼の応答は「神は自己の存在の理由を自己のうちに持つ」(『理性に基づく自然と恩寵の原理』第7-8節、1714年)というものだったが、これは「なぜ」を「何」に置き換えただけかもしれない。神という名前を与えたところで、終わらない議論が終わるわけではない。

「問いが無意味だ」という逃走

論理実証主義者たちは、もっと手っ取り早い方法を選んだ。この問いは経験的に検証できないから無意味だ、と。

気持ちはわかる。しかし「この問いは無意味だ」と宣言すること自体がひとつの哲学的立場であり、その立場はそれ自身の正当化を要求する。「なぜ何かがあるのか」を無意味と断じるためには、意味のある問いとそうでない問いを区別する基準が要る。その基準はどこから来るのか。それもまた経験的に検証できるのか。

問いを棄却することは回答ではない。問いから目を逸らすことと、問いに答えることは違う。そして目を逸らしたところで、問いは消えない。あらゆる「なぜ」は別の「なぜ」を呼び寄せ、問いは放棄されるまで終わらない。放棄してもなお、そこにある。

物理学者の「無」は無ではない

2012年、ローレンス・クラウスは著書 A Universe from Nothing で、量子力学がこの問いに決着をつけると宣言した。真空は静寂ではない。量子ゆらぎによって仮想粒子が絶えず生成と消滅を繰り返しており、「無は不安定だ。無は常に何かを生む」とクラウスは書いた。

哲学者のデイヴィッド・アルバートは New York Times の書評でこの議論を一蹴した。量子場の真空状態はすでに「何か」であって、哲学者が問うところの厳密な「無」ではない。宇宙物理学者のジョージ・エリスも Scientific American のインタビューで同様の批判を展開している。クラウスは物理法則がなぜ存在するのか、なぜその形をとるのか、宇宙の誕生以前にどのような様態で存在していたのかに一切答えていない、と。

量子ゆらぎが起きる「場」は、すでに存在している。その場がなぜあるのかを問えば、また同じ穴に落ちる。物理学は「何がどう起きたか」を精密に記述できる。しかし「なぜそもそも何かが起きうる宇宙なのか」には手が届かない。子供の「なぜ」を究極まで遡ると、必ずここに着く。ビッグバンを説明しても「ビッグバンはなぜ起きたのか」が残る。物理法則で説明しても「物理法則はなぜ存在するのか」が残る。偶然はどこにもないと言うなら、必然だけが残るはずだが、存在の必然性を証明した者もまたいない。

沈黙のなかの存在

宇宙は138億年前に始まったとされる。観測可能な宇宙には2兆個の銀河があり、そのどれもが数十億の恒星を抱えている。これだけの規模で「何か」が存在しているのに、なぜそうなのかを説明する言葉を誰も持っていない。返事は来ないのは宇宙人だけではない。存在そのものが、問いかけに対して沈黙している。

ハイデガーは『形而上学入門』(1935年)で、この問いを科学的な起源の問題から明確に切り離した。ビッグバンがいつ起きたかは問題ではない。問題は、なぜ「ある」が「ない」に優越するのかだ、と。この問いは歴史的ではなく、構造的なものだ。宇宙がいつ始まったかに関わらず、「なぜ始まったのか」「なぜ始まりうる枠組みがそもそも存在するのか」は消えない。

時計が止まっても何も変わらない。時間を止めたところで、存在の問いだけは残り続ける。

穴は開いたまま

あなたはなぜ存在しているのか。

答えはない。ライプニッツの充足理由律は自らを支えられなかった。宇宙論的論証は神を据えたところで問いを一段ずらしただけだった。論理実証主義は問いを棄却したにすぎなかった。物理学者の「無」は「無」ではなかった。

この問いは「答えるもの」ではないのかもしれない。問いそのものが、存在の底に空いた穴だ。そしてその穴は、覗き込んだ者を飲み込みもしなければ、埋まりもしない。ただそこに、開いている。

あなたが存在する限り。あなたが存在しなくなっても。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu