草原で寝転びたい
草原に寝転びたいと思ったことがある人は、たぶん、その草原に行ったことがない。
あるいは行ったことがあるかもしれない。でもそこで実際に寝転んだとき、虫が這い上がってきて、地面は思っていたより固くて、日差しが強すぎて、十分もしないうちに起き上がったはずだ。それでも「また行きたい」と思う。正確に言えば、あの場所ではなく、一度も存在したことのない「あの場所」に。
なぜ草原なのか。なぜ海ではないのか。海は動いていて、音があって、塩の匂いがして、何より溺れる。草原は静かで、ほとんど動かない。もしかすると求めているのは草原ではなく、「静けさ」そのものなのかもしれない。だとすれば、この文章は静けさをめぐる長い寄り道のようなものだ。目的地は、たぶんない。
草の悲鳴
草原に寝転んだとき、あの匂いが好きだという人は多い。青くて透明な、あの匂い。正体を聞いても、好きなままだろうか。
あの匂いの正体は、植物が組織を傷つけられたときに放出する揮発性有機化合物だ。Green Leaf Volatiles(GLVs)と呼ばれる炭素6個と酸素を含む化合物群で、主に (Z)-3-ヘキセナールが含まれる。人間は0.25 ppbという極めて低い濃度でもこの匂いを感知できる。植物にとってこれは防御反応の一環であり、草食動物の天敵を引き寄せたり、周囲の植物に危険を知らせるシグナルとして機能する。
つまり、あの「いい匂い」は、草の悲鳴だ。
そのことを知った今も、次に草の匂いを嗅いだとき、やっぱりいい匂いだと思うだろう。知識は感覚を書き換えない。いや、書き換えてしまうこともあるかもしれないが、少なくとも身体はあの匂いに安らぎを覚え続ける。E.O. ウィルソンは Biophilia (1984) で、人間には自然や他の生命との結びつきを求める生得的傾向があるという仮説を立てた。進化の過程で自然環境に適応してきた結果、自然への親和性が遺伝子に刻み込まれた、と。この「バイオフィリア仮説」が正しいなら、草原に寝転びたいのは「選択」ではなく「本能」ということになる。だとすれば、「本能だから」で片付けるのではなく、「本能ですらこんなに切実だ」と読むべきだろう。本能に駆り立てられて、存在しない場所を探し続ける生き物。もっとも、バイオフィリア仮説は現時点では仮説の段階であり、これをもって何かを断じるのは早い。
私たちが美しいと感じるものの正体が、苦しみだったとしたら。花の色も、鳥の声も、夕焼けの赤も、すべてが何かの応答であり、何かのシグナルであり、何かの代償だとしたら。それを知ってもなお美しいと感じるなら、美しさとは、知識の手が届かない場所にあるのだろう。知ることと感じることの間にある断絶は、たぶん、永遠に埋まらない。(そもそもあなたの見ている世界が隣の人のそれと同じである保証すら、どこにもないのだが。)
何もない場所がほしい
コンビニも自販機もWi-Fiもない場所を想像するだけで呼吸が楽になるのは、その場所に行く気がないからだ。
都市で暮らしていると、「何もない場所」というものが消滅する。建物、道路、看板、信号、通知音。空間はすべて何かの用途に割り当てられていて、目的のない場所がない。公園でさえ「公園」という名前を与えられ、管理者がいて、利用規約がある。「何もない」ということ自体が贅沢品になった時代に、「何もない場所がほしい」と願うのは、裏を返せば、何もかもが割り当てられた世界に疲れているということだ。
John Koenig は The Dictionary of Obscure Sorrows (2021) で "anemoia" という語を造った。一度も訪れたことのない時代や場所に対するノスタルジアのこと。辞書に収録された正式な術語ではなく Koenig の創作した概念だが、この感覚を的確に捉えている。草原に憧れるとき、私たちは特定のどこかの草原を思い出しているのではない。写真で見た草原、映画の中の草原、絵本の草原。それらはどれも現実の草原とは違う。現実の草原は暑いか寒いかのどちらかで、虫がいて、地面は想像より固い。でもそんなことは、最初から関係ない。欲しているのは場所ではなく、場所の「概念」のほうだ。
ここで少し立ち止まって考えたいのは、これが「逃げたい」なのか「行きたい」なのかという区別だ。草原に行きたいのか、ここから逃げたいのか。もし逃げたいだけなら、草原でなくてもいい。それでも「草原」を選んでいるところに何かがある。でもたぶん、そのどちらでもない。「ここではないどこか」に引かれている、というのが正確なところだろう。そして「どこか」に着いた瞬間、そこは「ここ」になる。この構造に気づいてしまったら、もう逃げ場はない。
自然は優しくない
想像の中の自然には、蛇も台風も紫外線もない。それを「自然」と呼ぶのは、少し都合がよすぎる。
草原に寝転がりたいと想像するとき、そこに地震はなく、熊は出ず、天気は常に穏やかだ。想像の中の自然は、危険をすべて取り除いた自然であり、それはもはや自然ではなくテーマパークに近い。「大自然に癒やされたい」という言葉の裏には、静かな検閲がかかっている。嵐も洪水も噴火も、すべて自然だ。自然は人間のために存在しているわけではない。癒やしを提供するつもりなど、自然の側にはない。
カントは『判断力批判』(1790) で美と崇高を区別した。美は対象の形式が認識能力と調和するときに感じられる快であり、花や穏やかな風景がこれにあたる。崇高はそれとは質の異なる感情で、対象が感覚能力を圧倒するときに生じる、不快と快の入り混じった体験だ。カントはさらに崇高を二つに分けた。圧倒的な大きさによる数学的崇高(果てしない星空や広大な海原)と、圧倒的な力による力学的崇高(嵐や噴火)。崇高の条件は、安全な距離だ。嵐を安全な場所から眺めるとき、自然は崇高になる。嵐の中に放り出されたとき、自然はただ恐ろしい。
草原への憧れもまた、距離の産物ではないのか。実際に草原にいれば日焼けして、虫に刺されて、喉が渇く。「草原」が美しいのは、それが画面の中にあるか、記憶の中にあるか、想像の中にあるあいだだけだ。現代人の自然体験は基本的にすべて「安全な距離」のうえに成り立っている。登山道は整備されている。レスキューを呼べる。天気予報がある。その距離を取り去ったとき、自然に憧れていられるだろうか。「自然が好きだ」という感情そのものが、文明がなければ成立しない。文明の外に出れば、自然はただの脅威だ。だから「自然に帰りたい」は、厳密には「文明の中から自然を眺めたい」にすぎない。
完璧に晴れた日に室内にいると、微かな罪悪感が走ることがある。外に出なければ、と思う。誰に対する罪悪感だろう。太陽に対してか。自分に対してか。たぶん、そのどちらでもなくて、「こんなにいい天気なのに何もしていない自分」という、存在しない裁判官の目を恐れている。
立っているのが疲れた
一日中、重力に逆らって生きている。それだけで十分疲れていい。
立っていること、座っていることは社会的な姿勢だ。仕事中は座る。通勤中は立つ。会議では座る。上半身はつねに直立している。横になることは、社会的文脈からの静かな離脱だ。「寝転ぶ」と「寝る」は違う。寝転ぶとき意識はある。目は開いている。でも何もしない。重力に全面的に身を委ねるという、ただそれだけのこと。立つことが重力への抵抗であるなら、寝転ぶことは重力との和解だ。社会は人に立つことを要求し続ける。一日中重力に逆らい続ける疲労のことを、誰も疲労とは呼ばない。
「何もしない」とはどういうことか。呼吸している。心臓は動いている。思考は走り続けている。「何もしない」は厳密には実行不可能であり、にもかかわらず私たちはそれを望む。実行できないものを望むこと自体に、何かの意味があるのだとしたら、その意味は何か。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、観照(テオリア)を人間の最高の活動であると論じた。テオリアは何かを生産する活動ではない。真理をそのまま眺める活動だ。対象を変えようとせず、ただ見つめること。草原に寝転んで空を見ることは、どこかテオリアに似ている。何も生産せず、何も消費せず、ただ見ている。しかし現代では「何も生産しない時間」に罪悪感が伴う。生産性という概念が、休息すら汚染している。
ケインズは1930年のエッセイ Economic Possibilities for our Grandchildren で、100年後(つまり2030年頃)には技術進歩によって週15時間程度の労働で済むようになり、人類の最大の課題は「余暇をどう使うか」になるだろうと予測した。2026年の現在、生産性は飛躍的に向上したのに労働時間は減っていない。むしろ「常にオンライン」という状態で仕事と余暇の境界が溶け出し、ケインズの想像した「余暇の問題」はまったく別の形で到来した。余暇はあるのに、何をしていいかわからない。
子どもはなぜ草原を走るのだろう。走ること自体が目的で、どこかに向かっているわけではない。目的なき全力疾走。あの状態に大人が戻ることは、たぶん不可能だ。旅行先で「何もしない日」をつくることがある。そのために飛行機に乗り、ホテルを予約する。「何もしない」ために膨大な準備をする矛盾。でもその矛盾を笑える余裕があるうちは、まだ大丈夫なのかもしれない。
画面の中の草原
美しい草原の4K動画を見て「行きたいな」と思い、そのまま次の動画にスワイプしたことは、誰にでもある。
SNSには美しい草原の写真がある。4K動画もある。10時間の環境音ループもある。でもそれで満足できないのはなぜか。画面は視覚と聴覚しか伝えない。草の匂い、風の温度、地面の硬さ、服につく草の汁は伝わらない。
メルロ=ポンティは『知覚の現象学』(1945) で、身体を単なる物体ではなく、世界を経験するための「生きられた身体 (corps vécu)」として捉えた。知覚は脳の中だけで成立するのではなく、身体全体がかかわるプロセスだ、と。画面越しの草原は視覚情報としてはほぼ完璧かもしれない。でも身体は視覚だけでは満足しない。風を感じたい。地面の温度を知りたい。草の手触りを確かめたい。身体性が排除された体験は、体験として不完全だ。
ではVRが触覚、嗅覚、温度まで完全に再現できるようになったなら、「本物の草原」は要らなくなるのだろうか。脳が区別できないなら、シミュレーションと現実に違いはあるのか。この問いは古い。プラトンの洞窟の比喩、デカルトの欺く霊 (genius malignus)、パトナムの「水槽の中の脳」。「本物」と「偽物」の区別は、経験の質だけでは決着がつかない。ビデオ通話で人と話すのと、対面で話すのは「同じ」だろうか。2020年代に入って多くの人がこの問いを体感として知ることになった。十分な情報が届いているはずなのに何かが足りない。そして「何が足りないのか」をうまく言葉にできない。
犬は画面の中の肉に興味を示さない。匂いがしないからだ。人間だけが、画像や動画で「ほぼ満たされたつもり」になれる。そしてそのことに、居心地の悪い違和感を覚える。画面の中の草原で心から満足できてしまう日が来たとしたら、それは進歩だろうか、喪失だろうか。いっそ進歩であってほしいと願うのは、もうすでにどこかで諦めているからかもしれない。
帰る場所なんてなかった
「帰りたい」が病名だった時代がある。
ノスタルジアの語源は、ギリシア語の nostos(帰郷)と algos(痛み)。帰りたいのに帰れない痛み。1688年、スイスの医学生ヨハネス・ホーファーが学位論文 Dissertatio Medica de Nostalgia, oder Heimweh の中で、強い望郷の念に伴う身体症状を記述するために造った医学用語だった。疲労、不安、動悸、発熱。当時はれっきとした病気として診断され、治療の対象にされていた。いまではノスタルジアはただの感傷を指す日常語になっているが、「帰りたい」という感覚が身体に症状を引き起こすほど強烈だったという事実は、言葉が変わっても消えない。
問題は、ノスタルジアが向かう先が、しばしば実在しないことだ。子どもの頃の夏休みを懐かしむとき、思い出しているのは実際の夏休みではない。記憶は常に編集されている。不快な部分が薄れ、良い部分だけが光度を増す。「あの頃はよかった」の「あの頃」は、記憶の中にしか存在しない。一度も存在しなかった場所に「帰りたい」と感じるとき、それは何に対する欲求なのか。私たちは「あるもの」を欲しがっているのではなく、「ないもの」に引かれるようにできているのかもしれない。満たされた瞬間、欲求は消える。だから欲求は構造的に、不在に向けられている。
ルソーは『人間不平等起源論』(1755) の序文で、自然状態を「もはや存在せず、おそらく存在したこともなく、おそらく決して存在しないであろう状態 (un état qui n'existe plus, qui n'a peut-être point existé, qui probablement n'existera jamais)」と記した。重要なのは、ルソーがこれを歴史的事実としてではなく、現在の社会を分析するための思考実験として用いたことだ。「自然に帰れ (retour à la nature)」という有名なフレーズがルソーに帰されることがあるが、ルソーの著作にこの表現は見当たらない。同様に「高貴な野蛮人 (noble savage)」もルソーの言葉として流通しているが、この表現はドライデンの戯曲『グラナダの征服 (The Conquest of Granada)』(1672) に由来する。ルソーが実際に論じたのは文明の全否定ではなく、社会が人間に与えた変質の分析だった。だが「自然に帰れ」がルソーの言葉として生き続けているのは、それだけこの願望が人間の骨に染みついているからだろう。
エデンの園。楽園追放。多くの文化に「失われた楽園」のモチーフがある。しかし楽園は「失われた」のではなく、最初から物語の中にしかなかったのかもしれない。存在しない場所に帰ろうとし続ける生き物。それが人間の正確な肖像だとしたら、少しおかしいが、少し美しくもある。
退屈すら手に入らない
退屈になれた最後の日を、覚えているだろうか。
パスカルは『パンセ』の中で、人間の不幸はすべて部屋の中に静かに座っていられないことに由来する、と書いた。パスカルの言う「気晴らし (divertissement)」とは、仕事、賭け事、戦争を含む、自分自身から目をそらすためのあらゆる活動のことだ。人は自分と向き合うことに耐えられないから、常に何かで忙しくしていたがる。これは17世紀の洞察だが、スマートフォンを手にした現代人の前ではさらに鋭く響く。パスカルの時代、気晴らしは外に出なければ手に入らなかった。今では手のひらの中にある。気晴らしが24時間利用可能な環境では、自分自身と向き合う機会がそもそも発生しない。
ハイデガーは1929年から1930年にかけての講義『形而上学の根本諸概念 (Die Grundbegriffe der Metaphysik)』で、退屈に段階を見出した。まず、何かによって退屈させられること。駅で電車を待っている退屈。対象がある。次に、何かに際して退屈すること。パーティから帰って、あれは退屈だったと気づく退屈。対象がぼやける。そして最後に、深い退屈 (tiefe Langeweile)。「なんとなく退屈だ」。何が退屈なのかわからない。対象がない。存在そのものが空虚に感じられる。ハイデガーはこの最後の退屈を非人称構文 "es ist einem langweilig" で表現した。退屈させるものがない。退屈している「私」もない。ただ、退屈がある。
ハイデガーにとって、この第三の深い退屈は否定的なものではなかった。むしろ存在の根本気分 (Grundstimmung) として、自分自身と本来的に向き合うきっかけになりうるものだった。しかし現代では、第三の退屈に沈む前に通知が鳴る。SNSを開く。動画を再生する。深い退屈が訪れる前に、すべてが中断される。
動物は退屈するのだろうか。ハイデガーは同じ講義の中で、動物を「世界貧乏的 (weltarm)」と表現した。動物は環境に規定されて生きているが、人間のように「世界を形成する (weltbildend)」わけではない、と。退屈が「世界を持つ存在」にしか生じないのだとすれば、退屈は人間だけに許された特権だ。そして私たちは、その特権すら行使できなくなりつつある。
國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』(2011) の中で、暇と退屈の区別を軸に消費社会を分析した。暇は時間の構造の問題であり、退屈は存在の様態の問題だ。暇はあるのに退屈しない。退屈する暇すらない。これが現代の特徴だ、と。デジタルデトックスの流行は「退屈を取り戻す」試みとして読めるが、デジタルデトックスすら商品化されている。リトリート、瞑想アプリ、森林浴プログラム。退屈を「買う」時代。
草原に寝転びたいという欲求は、もしかすると「退屈になりたい」という欲求なのかもしれない。何もすることがなく、何も起きず、ただ空があって風が吹いている。退屈が訪れるのを、ただ待っている状態。最後に「本気で退屈だ」と感じた日を思い出せないなら、たぶん、それがこの時代の症状だ。
誰も来ない場所
一人になりたいが、完全に一人にはなりたくない。わがままに聞こえるだろうか。でもこれは、哲学的に正確な欲求だ。
草原に寝転びたいと想像するとき、だいたいそこには自分しかいない。一人でいたい。でも完全な孤独は怖い。ほしいのは「いつでも戻れる孤独」であり、できれば携帯の電波は届いていてほしい。安全が保証された上での孤独。贅沢と言えば贅沢だが、それ以外の孤独は、単に危険だ。
ハンナ・アーレントは孤独に二つの種類を見出した。Solitude(独居)は自分自身との対話の状態だ。一人でいるが、自分という「二者」の間で思考が交わされる。アーレントはソクラテスの「自分自身との対話 (the two-in-one)」を引き合いに出して、solitude を思考の条件であると位置づけた。Loneliness(寂寥)はそれとは異なる。他者からだけでなく、自分自身からも切り離された状態だ。アーレントは『全体主義の起原 (The Origins of Totalitarianism)』(1951) の中で、この loneliness が全体主義を受容する土壌になると分析した。
草原での一人は solitude だ。自分と一緒にいる時間。満員電車の中の一人は loneliness だ。人に囲まれているのに誰とも繋がっていない。人に囲まれているときのほうが孤独を感じるという逆説は、アーレントの区別に照らせば逆説ではない。常にオンラインで「繋がっている」のに寂しい、という感覚は loneliness の正確な記述であり、その孤独はおそらく治らない。
サルトルは戯曲『出口なし (Huis clos)』(1944) で「地獄とは他人のことだ (L'enfer, c'est les autres)」と書いた。これは「他人が嫌いだ」という意味ではない。サルトルの文脈では、他者のまなざしの中で私たちは常に自分を「対象」として経験させられる、ということだ。他者は私を見て、私について判断を下す。その視線から逃れることはできない。「誰もいない場所」を求めるのは、他者のまなざしから解放されたいということなのかもしれない。だがサルトルの論理に従えば、他者のまなざしは内面化されている。一人になっても、自分の中に「他者の目」が残る。フォロワー数、いいね数、既読。まなざしの総量が爆発的に増大した時代に、「誰もいない場所に行けば自由になれる」と信じることは、たぶん、幻想だ。
図書館の静けさが好きだという人がいる。あの空間にいると、何もしていなくても許されている気がする。「知の場所」にいるという名目があるからだ。でも本当は、静かな場所にいたいだけなのかもしれない。そしてそのことを認めるのが、少し怖い。
空を見るしかない
空には何も書いていない。だから、読むものがなくなった人間の最後の逃げ場になる。
草原に寝転んだら見えるのは空だけだ。空には意味がない。意味がないから、意味を探すことに疲れた人間にとって、空は休息になる。
カミュは『シーシュポスの神話 (Le Mythe de Sisyphe)』(1942) で不条理 (l'absurde) を定義した。世界そのものが不条理なのではない。人間が意味を求めること、世界がその問いに応えないこと、この二つの衝突が不条理だ、と。空は意味を返さない。空を見ているとき、意味を求める衝動が少しだけ弱まる。何も返してこないものの前で、問うことを休められる。それは一種の解放かもしれない。
だが空を見て「きれいだ」と思った瞬間、すでに意味を付与している。雲の形に顔を見出すのは、意味がないところに意味を作ろうとする人間の性質そのものだ。パレイドリア(顔や形のない対象にパターンを見出す知覚現象)は、意味を求める衝動のバグなのか、それとも機能なのか。
夜の草原で空を見上げれば、星が見える。あの光は何百年、何千年前に発せられたもので、時間のスケールが日常と根本的に異なる。日常の悩みが一瞬だけ相対化される。でもそれは一時的で、翌朝にはまた戻る。星空は何も解決しない。ただ、何も解決しないものの前にいることが、不思議と楽だ。
カミュはシーシュポスの結末で「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない (Il faut imaginer Sisyphe heureux)」と書いた。永遠に岩を山頂へ押し上げては転がり落ちるのを見届ける。意味はない。でもその行為の中にカミュは存在の肯定を見た。草原に寝転んで空を見ることも、構造としてはシーシュポスの岩に似ている。何の意味もない。でもそうしている。そのことに不思議な充足がある。その充足に意味を求めてはいけないのだろう。充足は、ただそこにある。
夜に考えたことは朝には消えている
深夜に浮かぶ考えには独特の透明さがある。そしてたいてい、翌朝にはもう信用できない。
昼間の自分なら絶対に書かないことを、夜は書ける。次の日に読み返すと恥ずかしいか意味がわからないかのどちらかだが、夜に書いたものの中に、たまに、本当のことが混じっている。昼間の検閲が外れた状態で出てくる思考。疲労によって前頭前皮質の抑制機能が低下し、衝動のコントロールが甘くなる。だから夜はメールを送って後悔する。SNSに投稿して後悔する。でも同時に、昼間には到達できない場所に思考が届くこともある。ブレーキが外れた思考は暴走するか、跳躍するか、そのどちらかだ。
草原に寝転びたいという欲求もまた、夜に浮かぶ種類の欲求だ。昼間、仕事や勉強をしているときにはあまり思い浮かばない。ふとした瞬間、深夜、あるいは何もしていない数秒間に、ぬっと現れる。あの一瞬は何だろう。
そしてたぶん、この文章もまた、夜に書かれている。朝にはこんなことを書いた自分が少し気恥ずかしくなるだろう。でも、それでいい。夜に書かれたものだけが触れられる場所が、きっとどこかにある。
何もしないことすらできない
「何もしない」を実行するには意志が要る。意志を使った時点で、もう何かをしている。
草原に寝転びたいのは、「何もしない自分」でいたいからだ。でも「何もしない自分」は想像の中にしか存在しない。実際に草原に行ったら、写真を撮る。スマートフォンを触る。帰りの交通手段を調べる。虫が気になる。「何もしないぞ」という意志を立てること自体が、すでに「何かをしている」状態であり、完全な「何もしない」は意識がある限り論理的に不可能だ。
「何もしない」を選ぶことは自由意志の行使だが、「何もしないことを選ぶ」という行為は、すでに何かを選んでいる。(そもそも誰も何も選んでいないのかもしれないが。)完全な受動性は、選択する主体がある限り成立しない。意識がある限り、人間は「何かをしている」状態から逃れられない。
「何のために生きているのか」と問うことがある。だがこの問い自体が「何かのために生きるべきだ」という前提に立っている。もし人生に目的がないなら、問い自体が成立しない。成立しないはずの問いが、なぜこんなに切実に響くのか。
草原に寝転びたいという欲求が永遠に満たされないことに、私たちはうすうす気づいている。気づいていて、なお望んでいる。「いつか草原に行きたい」の「いつか」は、たぶん永遠に来ない。でもその「いつか」がなくなったら、今日を耐えるための支えも消える。
雨の日に窓の外をただ見ていることがある。何もしていない。ただ見ている。あれもたぶん、一種の「草原に寝転ぶ」だ。画面越しではなく、窓越しに。でも満たされている。なぜか。わからない。わからないままで、いいのだと思う。