人はなぜ夕方の光で立ち止まるのか

急いでいた。用事があった。それなのに、足が止まる。夕方の光が建物の壁をオレンジに染めている。ただそれだけのことだ。太陽が低くなり、光の波長のうち青が大気に散乱され、赤みを帯びた光だけが地表に届く。色温度にして約3000K前後。物理の教科書に載っている、ありふれた現象にすぎない。

それなのに、あなたは立ち止まる。スマートフォンを取り出すか、あるいはただ黙って見つめる。なぜか。たぶん、あなた自身にもわからない。

身体が先に知っている

「美しい」と思った瞬間には、もう足は止まっている。順序が逆なのだ。

美的判断というのは、通常、知覚してから評価し、そして行動に移るという段階を踏むと考えられている。ところが夕方の光に対する反応は、その手順を無視する。足が止まり、息が浅くなり、視線が固定される。そのあとで「ああ、きれいだ」と思う。判断より先に身体が動いている。

メルロ=ポンティは、知覚が単なる情報処理ではなく、身体そのものが世界と交渉する行為だと考えた。私たちは脳で世界を見ているのではなく、身体で世界に触れている。夕方の光に足が止まるのは、頭で「美しい」と判断したからではなく、身体がその光に応答しているからだ。

つまり、あなたが立ち止まったのは、あなたの意志ではない。灯りと不在について考えるまでもなく、意識より先に身体が反応している。それは判断ではなく、応答だ。

光の温度と記憶の温度

夕方の光が喚起するのは、しばしばノスタルジアだと言われる。だが、ここで注意が必要だ。

ノスタルジアとは、本来は「帰郷の痛み」を意味する。17世紀のスイスの医師ヨハネス・ホーファーが、故郷を離れた兵士たちの症状を記述するために作った医学用語だった。つまりノスタルジアは病名だった。帰れない場所への痛み。帰る場所はなかったのだとしても、その痛みだけは残る。

夕方の光が記憶を呼び起こすとすれば、それはおそらく特定の記憶ではない。「あの日の夕方」ではなく、「夕方というもの」全体への漠然とした郷愁だ。子どもの頃、夕方は帰る時間だった。遊びの終わり。一日の終わり。何かが閉じていく感覚。

大人になってから、その「閉じていく感覚」が「美しさ」として再解釈されるようになる。皮肉な話だ。かつて嫌だった時間が、いつのまにか美しい時間になっている。それは光が変わったのではなく、あなたが変わったからだ。もっと正確に言えば、あなたが失ったものが増えたからだ。

撮るという衝動

カメラを持っていると、余計に立ち止まる。

ゴールデンアワーの光は、写真において特別な意味を持つ。柔らかく、方向性があり、影が長く、色が暖かい。技術的に言えば、被写体の肌を美しく見せ、風景に奥行きを与える理想的な光だ。写真を撮る人間にとって、夕方の光は「チャンス」として認識される。

だが、写真を撮る行為にはある逆説がある。その瞬間を記録しようとする行為は、同時にその瞬間から一歩引くことを意味する。ファインダーを覗いた瞬間、あなたはもうその光の「中」にはいない。そこにいなかった人たちが指摘するように、記録することと体験することは、しばしば両立しない。

シャッターを切る。画面に映った夕焼けは、目の前の夕焼けとはまるで違うものに見える。色温度が違う。空気感がない。何かが抜け落ちている。それでも人は撮り続ける。その「何か」を取り戻せるかもしれないという希望があるのか。あるいは、失われることがわかっているからこそ、せめて影だけでも残そうとするのか。

立ち止まらないという選択肢

もちろん、夕方の光を見ても立ち止まらない人はいる。急いでいる人、疲れている人、あるいはそもそも光に興味がない人。それは感受性の欠如ではなく、単に身体が別のものに応答している状態だ。空腹や締め切りや不安が、夕方の光より強い引力を持っているだけだ。

ここで問いが反転する。立ち止まる人が特別なのではなく、立ち止まれる人が特権的なのかもしれない。美しさに応答する余裕は、生活に余白がなければ生まれない。余白が語りはじめるためには、まず余白がなければならない。

そう考えると、夕方の光に立ち止まるという行為は、ある種の贅沢だ。世界が美しく見えるためには、あなたが十分に暇でなければならない。あるいは、十分に何かを失っていなければならない。

答えのない問いに立ち止まる

結局、なぜ夕方の光で立ち止まるのかという問いに、満足のいく答えはない。

物理学は光の振る舞いを説明する。神経科学は脳の反応を記述する。心理学はノスタルジアのメカニズムを分析する。だが、それらのどれも、あの瞬間に胸の奥で何かが軋む感覚を説明してはくれない。

たぶん、夕方の光の中で人が立ち止まるのは、世界がもうすぐ暗くなることを知っているからだ。今この瞬間の光が、二度と同じ形では戻ってこないことを、身体のどこかで知っているからだ。

それは美しさへの反応というより、喪失の予感への反応なのかもしれない。まだ失っていないものを、すでに悼んでいる。

そして明日もまた、夕方が来る。あなたはまた立ち止まる。何度でも。答えが出ないまま、何度でも。

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