なぜ勉強をしなければならないのか

「なぜ勉強しなきゃいけないの?」

子供にそう聞かれて、すぐに答えられる大人はほとんどいない。「将来のためだよ」と言えば「なぜ将来のためにやらなきゃいけないの?」と返される。「いい仕事に就くため」と言えば「なぜいい仕事に就かなきゃいけないの?」と返される。どこまで答えても、次の「なぜ?」が待っている。終わらない議論の果てに立つということで書いた前提の無限遡行と同じ構造が、この問いにもある。底が抜ける。

大人が黙るのは、答えを知らないからではない。答えが循環するからだ。「勉強すれば幸せになれる」。では幸せとは何か。「他人より良い生活を送ること」。では良い生活とは何か。比較でしか幸福を測れないなら、その基準は誰が決めるのか。問いは出発点に戻ってくる。

この記事では、「なぜ勉強しなければならないのか」に対して明快な答えを出すつもりはない。出せないからだ。代わりに、この問いがなぜ厄介なのかを構造的に分解する。

「勉強」と「学び」は別の行為だ

「勉強しなさい」と言われたとき、その言葉が意味しているのは、ほとんどの場合「テストで点を取れ」「宿題を出せ」「成績を上げろ」だ。つまり制度が要求する行動への適応であって、知的好奇心の充足ではない。

小学生が庭で虫を何時間も観察している。そこには好奇心があり、観察があり、素朴な仮説がある。しかし誰もそれを「勉強」とは呼ばない。一方で、興味のない漢字ドリルを嫌々こなすのは「勉強」だと言われる。この分類は奇妙だ。

大学生は下手に履修するより聴講をしろで書いた「単位を取ることと学ぶことはまったく別の行為だ」という分離は、大学に限った話ではない。小学校から大学院まで、制度的な「勉強」と知的な意味での「学び」はずっとすれ違い続けている。子供が「勉強嫌い」と言うとき、嫌いなのは学びそのものではなく、点数を取るための作業かもしれない。

テストが学びを殺す

1975年、イギリスの経済学者チャールズ・グッドハートは英国の金融政策に関する講演の中で、ある法則を提示した。のちにグッドハートの法則と呼ばれるようになるその命題は、こう要約される。「ある指標が目標として設定された瞬間、その指標は指標としての機能を失う」。

教育においてこの法則は鮮明に作動している。テストの点数は、本来、学びの度合いを間接的に測るための代理指標にすぎない。しかし「テストで良い点を取ること」が目標に設定されると、子供も親も教師も、学びそのものではなく点数の最大化に向けて動き始める。暗記し、テクニックを覚え、出題パターンを分析する。点数は上がる。しかし学びは消える。

誰も学びを測れないで詳しく論じたように、指標と目的の転倒は教育制度の根幹に埋め込まれた構造的欠陥だ。テストで測れるのは、テストで測れる能力だけである。好奇心も、思考の深さも、問いを立てる力も、テストの外にある。そしてテストの外にあるものは、制度の中では「存在しない」ことになる。

報酬が遠すぎる

勉強にはもう一つ、構造的な困難がある。報酬の遅延だ。

行動経済学で現在バイアスと呼ばれる認知傾向がある。人間の脳は、遠い将来の大きな報酬よりも、目の前の小さな報酬を過大に評価する。これは意志が弱いからではなく、脳の報酬系がそのように設計されているからだ。

勉強の報酬は数ヶ月後のテスト結果、数年後の進学、数十年後のキャリアにある。一方、勉強をやめてスマートフォンを開けば、即座にドーパミンが得られる。脳が後者を選ぶのは構造的に当然であり、それを「怠け」と呼ぶのは的外れだ。努力できない仕組みの分析で書いたように、努力できないのは本人の責任ではなく、努力が報われる構造が設計されていないことの帰結であることが多い。

子供に「将来のために今我慢しろ」と言うのは、脳の設計に逆らえと言っているのと同じだ。それは精神論であって、解決策ではない。

手段が目的を喰う

勉強にまつわる奇妙な現象がもう一つある。勉強すること自体が目的化し、勉強の先にあるはずの「何か」が消失する構造だ。

受験勉強は大学に入るための手段だ。大学での勉強は就職するための手段だ。就職は生活を維持するための手段だ。では生活の維持は何のためか。各段階が次の段階への手段にすぎず、最終的な目的がどこにも設定されていない。永遠の素振りで論じたように、手段が目的を食い尽くし、「本番」が永遠に来ない構造がここにもある。

「勉強して何になるの?」という子供の問いは、この構造の矛盾を正確に突いている。大人がその問いに答えられないのは、答えが存在しないからではなく、大人自身もその構造の中にいて、最終目的を持っていないからだ。

「教育さえあれば」の神話

「教育は人類の希望である」という信念は、近代以降もっとも広く共有されている物語の一つだ。教育すれば人は変わる。社会は良くなる。貧困は解消される。この信念は美しいが、信仰に近い。

1971年、オーストリア生まれの思想家イヴァン・イリイチは『脱学校の社会』で、学校という制度が学びを独占する構造を批判した。学校は「学び」と「学校教育」を同一視させることで、学校の外で起きる学びを「学び」として認めなくなる。資格や学歴が学びの唯一の証明として機能し始め、制度が学びの定義そのものを占有する。

教育万能論にはもう一つの盲点がある。教育の効果は構造的条件に依存するという事実だ。いい教育を受けても、その外側の構造、経済格差、地域格差、家庭環境が変わらなければ、教育単体では限界がある。「勉強すれば報われる」が機能するのは、報われる構造が社会の側に存在する場合に限られる。構造がなければ、勉強は空転する。

学校に行かない子供

不登校は「問題」だとされる。しかし、何が問題なのかを考える前に、前提を問い直す必要がある。問題なのは学校に行かないことそのものなのか、それとも学校に行かないと社会的に不利になる構造のほうなのか。この二つはまったく別の問いだ。

学校に行かなくても学ぶことはできる。学校に行っていても学んでいないことはある。ぼっちで過ごす大学生活で書いたように、孤立と孤独は違う。学校に行かないことと、学びから離れることは同義ではない。

ただし「学校に行かなくてもいい」を安易に言い切ることにもリスクがある。学校は教育機関であると同時に、安全な居場所、同年代との接触、給食、基本的な社会化を提供する社会的インフラでもある。それらを家庭や地域で代替できるかどうかは、また別の問いだ。

不登校の責任を親だけに帰するのも短絡的である。「親が悪い」という論法は、構造の問題を個人の責任にすり替える典型的な手法だ。

答えられないことの誠実さ

哲学を学ぶデメリットあるいはメリットで書いた前提確認の態度は、この問いにも有効だ。「なぜ勉強しなければならないのか」に対して「いい大学に入るため」と答えるのは、問いに答えているのではなく、前提を固定しているだけだ。「大学に行くことが良いことである」という前提を疑わなければ成り立たない答えであり、問いの射程を狭めている。

終わらない議論の果てに立つということで論じたように、結論が出ないことには価値がある。子供の「なぜ?」は哲学の原初形態だ。大人はどこかで「そういうものだ」と打ち切る。打ち切ることで日常を回している。しかし打ち切らなかった子供の問いの中には、大人が見失ったものが残っている。

「なぜ勉強しなければならないのか」に明快な答えを出すことは、たぶんできない。できないことを認めること自体が、この問いに対するもっとも誠実な態度だろう。

残酷な現実

ここまで勉強を取り巻く構造的な問題を分解してきた。しかし、構造を理解したところで、現実は変わらない。

統計的に、教育年数と生涯所得には相関がある。健康リテラシー、情報リテラシー、制度を利用する能力も、教育に依存する部分が大きい。勉強しなくても生きていけるとは言い切れない。

ただし、その相関を因果と混同してはいけない。教育を受けた人が豊かなのは、教育そのものの効果なのか、それとも教育を受けられる環境にいたことの効果なのか。この問いは簡単には決着しない。

「なぜ勉強しなければならないのか」の実質的な意味は、「この社会の構造の中で不利にならないようにしろ」かもしれない。それは希望ではなく、防衛だ。教育は救済ではなく、保険として機能している。そう考えると、子供が「なぜ?」と問うのは当然だ。保険の必要性を子供に説明するのは難しい。保険が必要になるのは、うまくいかなかったときだけだからだ。

問い続けること

暇が怖いだけで書いたように、人は暇を恐れる。勉強させておけば子供は暇にならない。暇にならなければ、余計な問いを発しない。勉強は知識を授ける装置であると同時に、子供を管理する装置でもある。授業の空きコマはなぜ無に溶けるのかで書いた「有意義に使おうという意識が行動を麻痺させる」構造は、「勉強しなさい」という圧力と同根だ。

この記事は「勉強しなくていい」とも「勉強しなければならない」とも言わない。どちらの主張も、前提を固定しなければ成立しないからだ。

言えるのは、「なぜ勉強しなければならないのか」という問いに答えが出ないことは、その問いに価値がないことを意味しない、ということだ。答えが出ない問いを抱え続けること。安易な結論に飛びつかないこと。それ自体が、たぶん「学び」と呼ばれるものにもっとも近い行為だ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

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