世界はそこで終わっている

あなたが今この瞬間に感じていることを、正確に言葉にしてみてほしい。

無理だ。

「悲しい」に似ているかもしれないが「悲しい」ではない。「不安」でもない。もっと輪郭がぼやけていて、もっと捉えどころがない。言葉にしようとした瞬間に、別の何かにすり替わる。いつも少しだけ足りない。いつも少しだけ嘘になる。

そしてここに、素通りするには不穏すぎる問いがある。言葉にできないその感覚は、「存在している」と言えるのか。もし言えないなら、あなたの内側には、あなた自身にさえ見えていない領域が、いったいどれほど広がっているのか。

名前のないものは存在しない

ポルトガル語に "saudade" という言葉がある。失ったもの、あるいは最初から手にしなかったものへの、甘く痛みを帯びた切望。日本語にも英語にも、ぴったり重なる一語はない。

日本語には「木漏れ日」がある。葉の隙間からこぼれ落ちる光。英語話者がこの現象を目にしないわけではない。ただ、それを一語で切り取る道具を持たない。ドイツ語には "Schadenfreude" がある。他人の不幸への密かな喜び。日本語話者もその感覚を知っているだろうが、それを呼ぶための名前を持っていない。

これらは旅行ガイドの余白に載るような文化的トリビアではない。もっと不穏な事実を指している。言語は世界をそれぞれ違う仕方で切り分けている。あなたの言語にない概念は、あなたの中で輪郭を持たない。存在はしているのかもしれないが、焦点が合わない。焦点の合わないものを、人は「ある」とは思えない。誰にも聞かれなかった音が「存在した」と言えるのかという古い問いと、これは根を同じくしている。

では、あなたの知らない言語にだけ名前のついた感情を、あなたは感じることができるのか。感じていたとして、それに気づく方法はあるのか。

おそらく、ない。

あなたの青と誰かの青

言語が世界の見え方を変えるという直感は、言語学では「言語相対性」と呼ばれ、エドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフの着想に由来する「サピア=ウォーフ仮説」として知られている。ただし、二人がこれを厳密な「仮説」として定式化したわけではなく、「強い版」「弱い版」という区分も後世の研究者によるものだ。

「強い版」は言語が思考を完全に決定するという主張で、現在では広く退けられている。しかし「弱い版」、言語が思考に影響を与えるという主張には、実験的な裏づけが蓄積されている。

2007年、ジョナサン・ウィナワーらは米国科学アカデミー紀要に実験結果を報告した。ロシア語には英語の "blue" にあたる領域を二つに分ける基本色彩語がある。明るい青の「голубой(ガルボーイ)」と暗い青の「синий(シーニー)」だ。英語ではどちらも "blue" で済む。実験では、ロシア語話者がこの二つのカテゴリをまたぐ色の弁別を英語話者より速く行うことが示された。母語の語彙が持つ境界線が、色の知覚速度に実際に影響していたのだ。

色の名前が違うだけで、見えている世界が違う。(そもそも同じ「青」と呼んでいる色が、二人の内側で同じ体験を指しているかどうかすら確かめようがないのだが。)

そしてこれが色だけの話であるはずがない。時間。因果。責任。善悪。あなたの言語がそれぞれの領域をどう区切っているかによって、あなたの世界の輪郭そのものが変わっている。あなたは世界をありのままに見ているのではない。言語というフィルター越しに、影を見ている。

そしてそのフィルターは、外せない。(知覚と経験のずれについては「あなたは赤を知らない」で、メアリーの部屋を通じて考えた。)

檻の形は見えない

1921年、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の命題5.6にこう記した。

Die Grenzen meiner Sprache bedeuten die Grenzen meiner Welt.
私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。

この一文はときおり「語彙を増やせば世界が広がる」という自己啓発的な文脈で引用されるが、ウィトゲンシュタインの意図はそんなに温かくない。

あなたの言語が届かない場所に、あなたの思考は行けない。そしてその「届かない場所」がどこにあるのかを、あなたは知ることすらできない。檻の内側にいる者が檻の外を想像しようとしても、想像に使う道具がすでに檻の中のものだからだ。

これは比喩ではない。あなたが「自由に考えている」と感じている思考は、すでに言語の文法に沿って動いている。主語があり、述語があり、原因があり結果がある。その構造の外にある思考がどんなものか、あなたにはわからない。わからないという自覚すら、たぶん持てない。壁が透明であるかぎり、壁は存在しないのと同じだ。

ウィトゲンシュタインは後年、この立場を自ら修正していった。しかし初期のこの冷たい洞察は、修正されてなお残響が消えない。

あなたの世界は、あなたの言葉が届く範囲で終わっている。

言葉は鏡ではない

ここまでの話は、言葉が世界を「映しきれない」という話だった。では、言葉は世界を映すだけのものなのか。

J・L・オースティンは1955年のハーバード大学ウィリアム・ジェイムズ講義で、言語に対する常識をひっくり返した(講義録は死後の1962年に『言語と行為』として刊行)。言葉は世界を描写するだけではない。世界を変えてしまう。

「あなたを解雇します」と上司が言えば、あなたは職を失う。「宣戦を布告する」と宣言されれば、戦争が始まる。「はい、誓います」と式場で口にすれば、婚姻が成立する。

オースティンはこれを「遂行的発話」と呼んだ。これらの発話は事実を記述していない。発話そのものが新しい事実を生み出している。言葉は鏡ではない。世界を殴って形を変えるハンマーだ。

ここで話が一段暗くなる。もし言葉が現実を描写するだけなら、言葉が不完全でも現実はそこにある。しかし言葉が現実を作り出しているのだとしたら、言葉の不在は記述の失敗ではなく、現実そのものの欠落になる。

名前のない感情は「まだ名前がついていないだけ」ではない。名前がつかないかぎり、現実の中に場所を持てない。言語の外にあったものが、言語によって、存在ごと消されている。(「現実」そのものの基盤が揺らぐ問題については「現実は返事をしない」で扱った。)

誰も同じ言葉を話していない

そしてもう一つ、もっと身近で、もっと救いのない話がある。

同じ言語を話しているはずの二人が、同じ言葉で同じ意味を運んでいる保証はどこにもない。

「愛」と聞いてあなたの頭に浮かぶものと、隣にいる人の頭に浮かぶものは違う。記憶が違う。経験が違う。傷が違う。同じ文字が、まったく異なる重力を帯びている。「自由」も「正義」も「幸福」もそうだ。辞書に載っているのは意味の骨格にすぎず、その骨に肉をつけているのは各自の人生だ。

誰かと長く話して「通じ合えた」と感じた夜がある。翌朝、ふと思う。本当に通じていたのか。あなたが発した言葉は、あなたの中にあった何かの不完全な翻訳にすぎない。それを受け取った相手は、さらに自分の文脈で再翻訳している。あなたが送ったものと、相手が受け取ったものは、最初から別のものだ。それは空間だけの問題ではない。過去の自分にたった一言だけ届けられるとしても、届いた瞬間にそれは別の意味を帯びる。時間を隔てた自分ですら、同じ言葉を同じようには受け取れない。

ウィトゲンシュタインは後期の著作『哲学探究』(1953年刊)で、自分だけに通じる「私的言語」の可能性を否定した。言語は本質的に公共的なものであり、共有された規則に従ってこそ機能する、と。(もしこの世界から他者がすべて消えたら、言語は規則ごと崩壊するだろう。)だがこの議論を裏返すと、こうも言える。公共の言語に、あなたの私的な経験を正確に載せることは、そもそも原理的にできないのではないか。

もしそうなら、あなたは生まれてこのかた、一度も、自分の考えを正確に誰かに伝えたことがない。そしてたぶん一度も、誰かの考えを正確に受け取ったこともない。(他者を理解することの原理的な不可能性については「あなたは私を知りうるか」でレヴィナスを手がかりに考えた。)

言葉にならなかったものは消える

ここまで来て、避けようのない問いが残る。

言葉がなければ、人は「考える」ことができるのか。

赤ん坊は言語を持たないが、泣き、笑い、何かに手を伸ばす。動物は文法を知らないが、道具を使い、仲間の死の前で立ち止まる。これらは思考だろうか。

言語なしに何らかの認知が成り立つのだとすれば、言語とは思考そのものではなく、思考を捕まえて固定するための網にすぎないのかもしれない。しかし、網にかからなかった思考は、水のように指の間を抜けて、痕跡を残さず消える。

あなたが今日考えたことの中で、言葉にならなかったものはどれくらいあるだろう。一瞬だけ意識の表面をかすめて、名前を与えられる前に沈んでいった何か。その断片に、もしかしたら重大な意味があったのかもしれない。しかし確かめる手段はない。言葉にならなかったという理由だけで、あなたの人生から、なかったことになっている。

思い出せないのではない。「あった」という証拠すら、残っていない。

この文章もあなたに届いていない

最初の問いに戻る。

名前のつかない感情は「存在している」のか。言語が違えば世界も違うのか。「愛」は全員にとって同じものか。言葉なしに思考は可能か。言葉は世界を映しているのか、作っているのか。

どの問いにも答えは出ない。出ないようにできている。言語について語るには言語を使わなければならず、檻の鍵を檻の中から探すような堂々巡りに落ちる。

しかしそれは、この文章だけの問題ではない。あなたが今日誰かと交わした会話も、書いた文章も、頭の中で自分に向けた独白も、すべて同じ循環の中にある。言葉は便利だ。便利すぎて、言葉の外側に何があるかを忘れさせる。

あなたは今この文章を日本語で読んでいる。もし別の言語で書かれていたら、少し違う何かを感じていたかもしれない。しかしその「少し違う何か」がどういうものか、今のあなたには想像する手段がない。

あなたの世界は、あなたの言葉の届く範囲で終わっている。その境界線は、あなたには見えない。見えないから、自分の世界がすべてだと思って明日も生きていく。

ここまで読んで、何か考えが浮かんだだろうか。浮かんだとして、それを正確に言葉にできるだろうか。

できないとしたら、その考えは、今このページを閉じた瞬間に、どこへ行くのだろう。

そしてそれは、最初からなかったのと、何が違うのだろう。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

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