Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

生きること

「なんとなく嫌」の分解

嫌いなものなら説明できる。辛い食べ物が嫌い。寒い朝が嫌い。理由は明快で、誰に聞かれても答えられる。しかし「なんとなく嫌」は違う。理由がない。理由がないのに避けたい。避けたい理由を聞かれると困る。困るから「なんとなく」と言う。 「なんとなく」は説明の放棄ではなく、正確な記述だ。本当に「なんとなく」なのだから。 「嫌い」と「なんとなく嫌」は別の現象である 「嫌い」には構造がある。対象があり、理由があり、経験がある。犬に噛まれたから犬が嫌い。怒鳴られた記憶があるからあの部屋が嫌い。原因と結果が追跡可能だ。 「なんとなく嫌」には構造がない。あるいは、構造が見えない。特定のUIを触ったときの居心地の悪さ。特定の言い回しに対する微かな反発。特定の場所に入ったときの、帰りたいという衝動。どれも、問い詰められれば答えに窮する。 この二つは質的に異なる。「嫌い」は意識の出来事だ。「なんとなく嫌」は意識の手前の出来事だ。身体が先に反応し、意識が後から「なんとなく嫌だ」

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

目が信じたものを名前が裏切った

完璧な贋作がある。 筆致、色彩、構図、ひび割れの一本一本まで、オリジナルと区別がつかない。世界最高の鑑定家が「傑作だ」と唸り、美術館の壁にかけられ、数十億の値がつく。そしてある日、それが贋作だと判明する。絵は一ミリも変わっていない。あなたの網膜に映る像は、昨日と一ピクセルも違わない。しかし価値はゼロになる。 何が変わったのか。 絵は同じだ。色も線も、光の反射も。変わったのは「誰が描いたか」という、目には見えない情報だけだ。もし美しさが見えるものの中にあるなら、この崩壊は説明がつかない。もし美しさが見えないものの中にあるなら、私たちはいったい何を「見て」いたのだろう。 見分けがつかない二枚の絵 ネルソン・グッドマンは1968年の著書『芸術の言語(Languages of Art)』で、美学に不穏な問いを投げ込んだ。 二つの絵画がある。一方はレンブラントの真作、もう一方はそれと視覚的に完全に同一の贋作。現在のあなたには、どちらがどちらか区別できない。この二つの絵に美的な違いはあるか。 素朴に考えれば、答えはノーだろう。見た目が同じなら、美的経験も同じはずだ。

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

存在するものは何もなかった

あなたの目の前に机がある。 そう思っている。木の板と四本の脚。引き出しの中には文房具。表面にはコーヒーの染み。それを「机」と呼ぶことに、誰も疑問を持たない。 だが、メレオロジカル・ニヒリズムはこう言う。机は存在しない。 板も脚も引き出しも存在しない。あるのは素粒子の配列だけだ。「机」とは、ある特定のパターンで並んだシンプルズ(それ以上分割できない最小単位)に、人間が貼りつけたラベルにすぎない。複合的な物体は存在しない。部分が集まって「一つのもの」を構成することは、決してない。 これはメタファーではない。文学的な誇張でもない。分析哲学の中で真剣に擁護されている存在論的立場だ。そしてこの立場を受け入れると、哲学の古典的パラドックスのいくつかが、問いとして成立しなくなる。 問いは最初から壊れていた メレオロジカル・ニヒリズムが応答しようとしている問いがある。特殊構成問題(Special Composition Question)と呼ばれるものだ。 ピーター・ヴァン・インワーゲンが1990年の Material Beings で定式化したこの問いは、こう尋ねる。「二つ以上のもの

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哲学を読む

永遠にあと半分の距離を走る

あなたはゴールに近づいている。あと半分。あとその半分。あとそのまた半分。残り距離は限りなくゼロに近づく。けれどゼロにはならない。永遠に、あと少し。2500年前のギリシャ人がこの構造に気づいたとき、彼はたぶん笑っていたと思う。あなたの人生が、亀を追いかけるアキレスとまったく同じ構造をしているのだと。 紀元前5世紀、エレアのゼノンは運動が不可能であることを論証しようとした。論証は失敗した。しかしその失敗が2500年間、哲学者と数学者の喉に刺さった小骨のように残り続けている。成功よりも長持ちする失敗というものがある。 亀はまだ先にいる もっとも有名なのは「アキレスと亀」だ。俊足のアキレスが、先にスタートした鈍足の亀を追いかける。アキレスが亀のいた地点に到達すると、亀はわずかに前進している。その新しい地点にアキレスが到達すると、亀はまたわずかに前進している。追いかけっこは無限に続く。論理的には、アキレスは永遠に亀に追いつけない。 現実のアキレスは10秒もあれば亀を追い越す。しかしゼノンの問いは「追いつけるか」ではない。「無限に分割された距離を、有限の時間でどうやって通過するのか」だ。

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日常の構造

正しさの総和が全員を沈める

あなたが節約するのは正しい。隣の人が節約するのも正しい。全員が正しいことをした結果、全員が貧しくなる。これは寓話ではない。経済学が「倹約のパラドックス」と呼ぶ現象であり、哲学が「合成の誤謬」と呼ぶ構造そのものだ。 個人の合理性が集団の不合理を生むという事実は、私たちが「正しさ」と呼んでいるものの足元を静かに崩す。正しいことをしているのに世界が壊れる。それは誰のせいでもなく、だからこそ誰にも止められない。 一人が立てばよく見える 倹約のパラドックスは、ジョン・メイナード・ケインズが1936年の『雇用・利子および貨幣の一般理論』で体系化した概念だとされる。話の骨格は単純で、一人の人間が支出を減らして貯蓄を増やせば、その人の財務状態は改善する。しかし全員が同時にそれをやると、消費が減り、企業の売上が下がり、雇用が失われ、所得が減り、結果として全員の貯蓄すら減少する。 節約という美徳が、集団で実行されると災厄に変わる。 古典派経済学の立場では、貯蓄は投資に回るのだから問題は生じないはずだった。セイの法則、すなわち「供給はそれ自身の需要を生み出す」という原理がそう保証していた。しかし

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哲学を読む

三十七兆の欠片では足りない

あなたの体は約37兆個の細胞でできている。そのひとつひとつに、ほんのわずかな「感じ」があるとしよう。痛みとも呼べない微かな何か。光とも呼べない微かな何か。では、その37兆の「微かな何か」を全部足したら、今あなたが見ているこの文字の白さ、画面の光、指先の温度、そして「これを読んでいる私がいる」という確信になるだろうか。 ならない。 少なくとも、なぜなるのか誰にも説明できない。これが結合問題(Combination Problem)と呼ばれる哲学的難問であり、意識を語るすべての試みが最終的にぶつかる壁のひとつだ。 壁の前の壁 意識にはすでに有名な難問がある。デイヴィッド・チャーマーズが1995年に定式化した「意識のハードプロブレム」。物質的な過程、つまりニューロンの発火や電気信号のやりとりが、なぜ「体験」を伴うのか。脳の中で起きていることを物理的にすべて記述できたとしても、そこに「赤の赤さ」や「痛みの痛さ」が生じる理由は説明されない。機能は説明できる。しかし「感じ」は説明できない。 これに対して、いくつかの立場がある。物理主義は、意識は物質の働きから生じると主張する。だが「

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哲学を読む

緑がずっと緑である保証はない

エメラルドは緑だ。これまでずっと緑だった。だから明日も緑だろう。 その「だから」の根拠を、あなたは説明できない。もしできると思ったなら、ネルソン・グッドマンの名前を覚えておいたほうがいい。1955年に彼が書いた数十ページが、帰納法という人類最大の知的習慣の足元に、修復不能な亀裂を入れた。 エメラルドの裏切り 話はシンプルだ。 あなたは1000個のエメラルドを観察した。すべて緑だった。そこから「すべてのエメラルドは緑である」と帰納する。合理的に見える。 グッドマンは「grue(グルー)」という述語を発明した。定義はこうだ。ある時点tより前に観察されたものは緑で、tより後に観察されたものは青。この述語のもとでは、あなたがこれまで見た1000個のエメラルドは、すべてグルーでもある。tより前に観察され、すべて緑だったのだから。 問題が生じる。同じ証拠が、「すべてのエメラルドは緑である」と「すべてのエメラルドはグルーである」を等しく支持している。前者が正しければ明日のエメラルドも緑だが、後者が正しければ明日のエメラルドは青い。帰納法は両方を同じ力で推している。しかし両方が正しいこと

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光と写真

止まったように見える景色の先へ

5年前のカメラで撮っても、困らない。 これは実感だ。数年前のミラーレスカメラであっても、日常的な撮影で「このカメラでは撮れない」と感じる場面はほとんどない。画素数は十分。高感度も実用的な範囲に収まっている。AFは被写体を見失うことが減った。RAW現像のワークフローも成熟している。 「カメラの技術的進化は頭打ちだ」という言説が繰り返されるのは、この実感が広く共有されているからだろう。だが「困らない」ことと「頭打ち」は、同じことを意味しているのか。 「頭打ち」を分解する 「頭打ち」という言葉は、物理法則的な限界に到達したことを暗示する。しかし実際に何が起きているかを分解してみると、見える景色は変わる。 センサー解像度。 フルサイズセンサーでは6100万画素(ソニーα7R V)クラスが上限に近づいている。一般的な用途、つまりSNSへの投稿やA3サイズまでのプリントであれば、2400万画素で十分すぎる。ただし中判デジタルの領域では1億画素を超える製品が登場しており、科学・産業用途ではセンサーの高解像度化はまだ進んでいる。「頭打ち」に見えるのは、民生用フルサイズという特定の文脈に限っ

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大学生活

最初の一言が全員の席を決める

グループワークの課題が出た瞬間、教室に微かな緊張が走る。3人から5人のグループに分かれ、テーマについて議論し、成果物をまとめる。大学では何度も経験する光景だ。 そして不思議なことに、何度やっても、同じような役割分担が「自然に」出来上がる。誰かが仕切り始め、誰かが黙り、誰かがなんとなく調整役に回る。メンバーが違っても、構造は似ている。 性格の問題だろうか。もう少し踏み込んで考えてみると、どうもそうではなさそうだ。 最初の30秒で決まる グループワークの役割分担は、最初の30秒でほぼ決まる。 グループが形成された直後、最初に口を開いた人間が、その後のグループ内での発言権を大きく獲得する。最初の発言者が議論の方向を設定し、他のメンバーはその方向に沿って自分の位置を調整する。いわば、最初の一手がゲーム全体の構図を決めてしまう。 一度固定された発言量のバランスは、その後の議論でほとんど変化しない。最初に多く話した人はますます多く話し、最初に黙っていた人はますます黙る。フィードバックループが回り始めると、役割は急速に固定化する。 つまり、リーダーになったのは能力や性格のためではなく

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光と写真

星の光がフィルムに届くまで

デジタルカメラで星空を撮るのは、ある意味で素直な作業だ。ISOを上げて、シャッターを開けて、センサーに光を溜める。露光時間を2倍にすれば、記録される光の量も2倍になる。比例関係がきちんと成り立つ。 フィルムでは、そうはいかない。 相反則不軌という厄介者 フィルムの感度には、教科書通りにいかない領域がある。相反則不軌(reciprocity failure)と呼ばれる現象だ。 通常、フィルムの露光は「光の強さ × 時間」で決まる。これを相反則(reciprocity law)という。ISO 400のフィルムで、ある絞りとシャッター速度の組み合わせが適正露出なら、光の強さを半分にしてシャッター速度を2倍にしても、同じ露出が得られるはずだ。 しかし、露光時間が長くなると、この法則が崩れる。フィルムの感光乳剤に含まれるハロゲン化銀の結晶は、光子を受け取って潜像核を形成するが、光子の到達間隔が長くなりすぎると、形成途中の潜像核が安定する前に崩壊してしまう。つまり、弱い光を長時間当てても、計算通りには感光しない。 星空撮影では、これが致命的に効いてくる。計算上は30秒で適正露出になる

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光と写真

物撮りは遠くから

物撮りがうまくいかない原因は、たいていシンプルだ。近すぎる。 被写体に寄れば寄るほど、手前と奥の距離差が相対的に大きくなる。結果、手前が膨らみ、奥がすぼまる。円筒形のボトルが台形に見え、箱の前面だけが不自然に大きくなる。これは「広角レンズの歪み」と呼ばれがちだが、正確ではない。歪みの原因はレンズではなく、距離だ。 パースペクティブは距離で決まる よくある誤解がある。「望遠レンズを使えば歪みが減る」。結論だけ見れば間違っていない。しかし理屈が違う。 パースペクティブ、つまり遠近感の見え方を決定するのは、カメラと被写体の距離だけだ。焦点距離は画角を変えるが、パースペクティブそのものには関与しない。同じ距離から撮れば、35mmで撮ってもトリミングしても、85mmで撮っても、パースペクティブは同じになる。 望遠レンズで「歪みが減る」のは、同じ大きさに被写体を写そうとすると、焦点距離が長いぶん後ろに下がらざるを得ないからだ。離れるから歪まない。レンズが歪みを消しているのではなく、距離が歪みを消している。 物撮りでマクロレンズの90mmや105mmがよく使われるのも、これが理由だ。マ

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大学生活

大学生の「暇」は退屈か、意味の不在か

「暇だ」と言いながら、スマートフォンの画面をスクロールし続ける。やるべき課題は積まれているのに、なぜか「暇」と感じる。この矛盾は、「暇」という言葉が指しているものが、実は時間の空白ではないことを示している。 「暇」は時間の問題ではない 「暇」と感じるとき、多くの場合、物理的に何もしていないわけではない。SNSを眺め、動画を流し見し、メッセージに返信している。時間は消費されている。にもかかわらず「暇」なのは、そこに「意味のある予定」が存在しないからだ。 「暇」の正体は、時間の余りではなく、時間に対する意味づけの不在にある。予定があること、つまり「やるべきこと」「行くべき場所」「会うべき人」が時間を構造化する。その構造がないとき、時間はただ流れるものになり、それを「暇」と呼ぶ。 退屈の心理学 心理学者ジョン・イーストウッドらの研究は、退屈(boredom)を「注意を向けたい対象が見つからず、その状態を不快に感じること」

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