Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

日常の構造

なぜ勉強をしなければならないのか

「なぜ勉強しなきゃいけないの?」 子供にそう聞かれて、すぐに答えられる大人はほとんどいない。「将来のためだよ」と言えば「なぜ将来のためにやらなきゃいけないの?」と返される。「いい仕事に就くため」と言えば「なぜいい仕事に就かなきゃいけないの?」と返される。どこまで答えても、次の「なぜ?」が待っている。終わらない議論の果てに立つということで書いた前提の無限遡行と同じ構造が、この問いにもある。底が抜ける。 大人が黙るのは、答えを知らないからではない。答えが循環するからだ。「勉強すれば幸せになれる」。では幸せとは何か。「他人より良い生活を送ること」。では良い生活とは何か。比較でしか幸福を測れないなら、その基準は誰が決めるのか。問いは出発点に戻ってくる。 この記事では、「なぜ勉強しなければならないのか」に対して明快な答えを出すつもりはない。出せないからだ。代わりに、この問いがなぜ厄介なのかを構造的に分解する。 「勉強」と「学び」は別の行為だ 「勉強しなさい」と言われたとき、その言葉が意味しているのは、ほとんどの場合「テストで点を取れ」「宿題を出せ」「成績を上げろ」だ。つまり制度が要求

By Sakashita Yasunobu

大学生活

履修登録の風

春になると、大学のキャンパスにはある種の空気が漂う。履修登録期間だ。 掲示板の前で時間割を睨む顔。シラバスの画面をスクロールする指。「あの授業、楽単らしいよ」という囁き。数日のあいだに、半年間の学びの全体像が決まる。否、「決まってしまう」と言ったほうが正確だろう。 GPAから逆算する 結論から言う。大学では、得意な科目を選べ。 身も蓋もない言い方に聞こえるかもしれない。しかしこれは精神論ではない。GPAの計算式から導かれる、構造的な結論だ。 GPAは加重平均だ。大学生は履修上限を超える意味がないで詳しく書いたが、科目を増やしても平均は上がらない。追加した科目の成績が現在の平均と同じなら、GPAは変わらない。平均以下なら下がる。上がるのは、平均以上の成績を取れたときだけだ。 つまり、GPAを守る最も確実な方法は、自分が高い成績を取れる見込みのある科目を選ぶことだ。それは多くの場合、自分が得意な科目であり、興味のある科目であり、学習の下地がある科目だ。 興味と得意は一致しないことがある ここで正直に書いておく。興味がある科目と、得意な科目は、必ずしも重ならない。 哲学

By Sakashita Yasunobu

生きること

金曜日を消した囚人の朝

あなたは来週死ぬ。ただし、いつ死ぬかは知ることができない。 これは脅しではない。哲学史のなかでもっとも厄介なパラドックスのひとつ、「予期せぬ絞首刑」の宣告文だ。囚人はこの宣告を聞いて、完璧な論理で「処刑は不可能だ」と証明してみせた。そして水曜日に、予告どおり、驚きとともに絞首台に立った。 論理は正しかった。結論は間違っていた。その矛盾のなかに、私たちの「知る」という行為そのものの限界が、静かに横たわっている。 完璧な推論、完璧な誤り パラドックスの骨子はこうだ。 判事が囚人に宣告する。「来週の月曜日から金曜日のいずれかの正午に絞首刑を執行する。ただし、当日の朝まで何曜日に執行されるかはわからない」。 囚人は考える。まず金曜日を検討する。もし木曜の正午まで処刑されていなければ、残りは金曜しかない。そうなれば木曜の夜に「明日だ」とわかってしまう。だから金曜はありえない。 金曜が消えれば、木曜が最終候補になる。水曜の夜には「明日だ」と推論できる。だから木曜もありえない。 同じ論法で水曜が消え、火曜が消え、月曜が消える。 すべての曜日が論理的に不可能になる。囚人は安堵して眠

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大学生活

誰も何も言わない部屋で息をしていた

エレベーターの中で、誰も何も言わない。目のやり場に困り、スマートフォンを取り出す。あの沈黙が不快なのは、人間の本能だと思っている人が多い。だが、そうではない。沈黙を「気まずい」と感じるかどうかは、文化によってまるで違う。 沈黙の意味は一つではない フィンランドでは、沈黙は信頼の表れとされる。会話が途切れても、相手が気を悪くしているとは考えない。むしろ「この人の前では黙っていられる」という安心感の証拠になる。一方、アメリカでは会話の途切れは不快とされやすく、沈黙を埋めることが社交スキルとして求められる傾向がある。 日本はどうか。日本には「間」を重んじる美意識がある。茶道や能における「間」は、余白として肯定される。ところが、エレベーターやゼミの質疑応答では、同じ沈黙が途端に気まずくなる。この矛盾は、沈黙そのものではなく、沈黙が生じる「場」の構造に原因がある。 なぜ沈黙が圧力になるのか 会話分析(Conversation Analysis)の分野では、「ターン・テイキング」という概念がある。会話は話者が交互に「ターン」を取ることで成立しており、

By Sakashita Yasunobu

生きること

1兆の夜明けを数えた星の沈黙

深夜、ベランダに出て空を見上げる。星が見える。あるいは曇っていて何も見えない。どちらにしても、足元の地面は動いていない。少なくとも、そう感じる。 しかし今この瞬間も、あなたは地球の自転によって時速約1,670km(赤道上の場合)で移動している。新幹線の5倍以上。音速の約1.4倍。それをまったく感じないのは、あなたが地球と同じ慣性系の中にいるからだ。空気も、建物も、コーヒーカップも、すべてが同じ速度で動いている。相対的な差がないから、体感としてはゼロになる。 では、この回転は今まで何回繰り返されたのだろうか。 数えてみる 地球の年齢は約46億年とされている。放射性同位体の崩壊を利用した年代測定(ウラン-鉛法など)によって推定された数値だ。 単純に1日1回転として計算すると、46億年 x 365.25日 = 約1兆6,800億回転。途方もない数だ。しかしこの計算は正確ではない。地球の自転速度は一定ではないからだ。 月の重力が地球の海水を引っ張ることで潮汐が生じる。この潮汐は地球の自転にブレーキをかける。結果として、地球の1日は100年あたり約2.3ミリ秒ずつ長くなっている。わ

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大学生活

正しさのなかで眠りにつく問いたち

「多様性を尊重しよう」。誰も反対できないこの言葉が、議論のなかで使われると、不思議なことが起きる。議論が終わるのである。 美しい言葉が思考停止装置になるとき 「多様性を尊重しよう」は倫理的に正しい響きを持っている。多様な価値観を認め合おう、異なる背景を持つ人々を排除しないようにしよう。この理念自体に問題はない。 問題は、このフレーズが議論の場で「結論」として持ち出されるときに起きる。価値観が衝突し、どちらかを選ばなければならない場面で「多様性を尊重しよう」と言うことは、判断を保留することと同義になる。しかも、判断を保留していることが道徳的に正しいかのように見えてしまう。 価値衝突は「尊重」では解決しない 現実には、互いに両立しない価値が衝突する場面がある。 たとえば表現の自由と他者の尊厳。ヘイトスピーチを表現の自由として保護すべきか、それとも他者の尊厳を守るために規制すべきか。この問いに対して「多様性を尊重しよう」と答えることは、何も答えていないのと同じである。 「表現の自由も大事だし、尊厳も大事だよね」は事実の確認であって、衝突の解決ではない。どちらを優先するかの判

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ことばと文学

便利な言葉が思考を眠らせる

「すごい」「重要」「さまざま」「多い」。便利な言葉だ。何にでも使えて、文字数も稼げる。だが、これらの言葉は、実は何も言っていない。 レポートの添削で最も多い指摘は、文法のミスではない。「具体的に書いてください」だ。 言葉の節約は思考の放棄である 「言葉の節約」とは、本来なら具体的に書くべきところを、曖昧な言葉で済ませてしまうことを指す。 「この問題はすごく重要である」。何がすごいのか。誰にとって重要なのか。どの程度重要なのか。この一文には情報がほとんど含まれていない。書いた本人は何かを伝えたつもりだが、読み手には何も伝わっていない。 言葉を節約しているように見えて、実際には思考を節約している。「すごい」と書いた瞬間、「何がどの程度すごいのか」を考える作業を放棄している。具体的に言い換える作業こそが、思考そのものだ。 雑語リストと言い換えの方向 大学生のレポートで頻出する曖昧な言葉と、その言い換えの方向性を示す。 「すごい」 何がどの程度そうなのかを数値や比較で示す。「前年比で30%増加した」「他の手法と比較して処理速度が2倍になる」。 「重要」 誰にとって、なぜ重

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大学生活

大学生はいい枕を買え

一人暮らしを始めるとき、ベッドフレームやマットレスにはそれなりに気を使う。でも枕はどうか。ホームセンターで一番安いやつを買って、そのまま何年も使っている人が多いのではないか。 枕は安い。安いのに、睡眠の質への影響が大きい。大学生が限られた予算の中で手を出せる投資として、枕ほどコスパのいいものはなかなかない。 睡眠は成績に出る 「睡眠が大事」なんて言われなくてもわかっている、と思うかもしれない。でも数字で見ると印象が変わる。 カーネギーメロン大学の研究チームが3つの大学の600人以上の一年生に毎晩睡眠トラッカーを装着させ、睡眠と成績の関係を調べた(米国科学アカデミー紀要掲載)。平均睡眠時間は6時間半。毎晩6時間未満の学生は成績が明確に低下し、睡眠が1時間増えるごとに期末の成績がわずかに上がるという相関が出ている。 国内でも似た傾向が報告されている。ある調査では、1日の睡眠時間が6時間以上の学生はGPA上位群に44%いたのに対し、6時間以下の学生はGPA下位群の45%を占めていた。睡眠の質、タイミング、量のすべてが良好な学生群は、学修成果や大学への適応度でも明確に良い傾向を示し

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日常の構造

全員が見ていた

駅のホームで人が倒れた。あなたはそれを見た。周囲には何十人もの人がいた。あなたは足を止めかけて、しかし止めなかった。誰かが助けるだろう、と思った。全員が同じことを思っていた。全員が歩き続けた。 これは冷酷さの話ではない。構造の話だ。 三十八人の神話 1964年3月13日、ニューヨーク・クイーンズ地区で、キティ・ジェノヴィーズという女性が自宅アパートの前で殺害された。二週間後、ニューヨーク・タイムズ紙は衝撃的な記事を掲載した。38人の目撃者が犯行を見聞きしていたにもかかわらず、誰一人として警察に通報しなかった、と。 この記事はアメリカ社会に激震を与えた。都市生活の冷淡さ、人間の無関心、道徳の崩壊。あらゆる角度から語られ、引用され、教科書に載った。 ただし、この報道は嘘だった。 2007年、マニング、レヴァイン、コリンズの研究が、ニューヨーク・タイムズの記事を精査し、38人という数字には根拠がないことを示した。実際に犯行を目撃した人数はそれよりはるかに少なく、何人かは通報を試みていた。事件の全容を把握していた目撃者はほとんどいなかった。 しかし、嘘が正しい問いを生んだ。

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ことばと文学

哲学書が読めない理由は難しさではない

哲学書を開く。三ページ読む。一行も頭に入っていない。 この経験をした人は多いだろう。そしてたいていの場合、その原因を「哲学は難しいから」に帰着させる。専門用語が多い。文章が回りくどい。抽象的すぎる。だから読めない。 本当にそうだろうか。専門用語は辞書を引けば分かる。「アプリオリ」は「経験に先立つ」であり、「弁証法」は「対立する概念を統合して高次の理解に至る思考法」だ。文章が回りくどいのは事実だが、法律文書だって回りくどい。抽象的だというなら、数学の方がよほど抽象的だ。 哲学書が読めない理由は、難しいからではない。あなたの側に、問いがないからだ。 問いの不在 哲学書は情報を得るための本ではない。 多くの読者が哲学書に挫折するのは、読み方の期待がずれているからだ。新書やビジネス書のように、「結論は何か」、「要点は何か」を探しながら読む。そして見つからない。あるいは見つかったとしても、その結論がなぜ重要なのかが腑に落ちない。 カントの「純粋理性批判」(1781)の結論を一行で書くことは可能だ。「人間の認識能力には限界があり、経験を超えたものについて確実な知識を持つことはできな

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大学生活

大学生がレポートでどう引用すればいいか迷ったら

結論から言う。特に指定がないなら、シカゴ・マニュアル・オブ・スタイル(The Chicago Manual of Style)に従え。 教員から引用スタイルの指定がある場合は、そもそもこの記事を読む必要はない。指定どおりに書けばいい。この記事が対象としているのは、「特に指示がなくて、何をどう書けばいいかわからない」という人だ。 なぜシカゴ・マニュアルなのか シカゴ・マニュアルは、人文科学系で最も広く使われている引用スタイルだ。歴史学、文学、哲学、芸術などの分野で国際的に採用されている。 人文社会系のレポートを書く場合、シカゴ・マニュアルに従っておけば、形式面で問題になることはまずない。汎用性が高く、書籍、論文、Webサイトのいずれにも対応している。 二つの方式がある シカゴ・マニュアルには、二つの引用方式がある。 脚注・参考文献方式(Notes-Bibliography) は、引用箇所に脚注番号を振り、ページの下部または文書の末尾に文献情報を記載する方式だ。歴史学、文学、哲学の分野でよく使われる。

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生きること

人が比較でしか幸福を測れない理由

幸福には単位がない。 体重はキログラムで測れる。気温は摂氏で測れる。距離はメートルで測れる。だが、幸福を測る単位は存在しない。「今日の幸福度は73ハッピーです」とは言えない。 だから人は比較する。他の誰かと。昨日の自分と。あるいは、想像上の「あるべき自分」と。それ以外に、自分がどれだけ幸福かを知る方法がない。 隣の芝が永遠に青い理由 レオン・フェスティンガーは1954年に社会的比較理論を提唱した。人間は客観的な基準がないとき、他者との比較によって自分の能力や意見を評価する、という理論だ。 幸福にも同じことが当てはまる。幸福の絶対的な基準がないから、人は周囲を見渡す。友人の昇進。同僚の結婚。SNSに流れてくる誰かの旅行写真。それらと自分の状況を並べて、自分が「まあまあ幸せ」なのか「不幸せ」なのかを判定する。 問題は、比較の対象が常に上方に偏ることだ。自分より幸せそうに見える人間ばかりが目に入る。これはSNSによって劇的に悪化した。かつての比較対象は近所の人間や職場の同僚に限られていた。今では世界中の「幸せそうな人間」が比較対象になる。 あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚

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