Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

線はどこにもなかった

あなたは今、何かの「内側」にいる。 部屋の中。国の中。言語の中。「自分」の中。どこを見ても、境界がある。内と外を分ける線がある。しかし、その線を指で触ろうとすると、何も触れない。近づけば近づくほど、線はぼやけていく。 私たちは線を引くことで世界を理解する。昼と夜、善と悪、生と死、自己と他者。分けることが、理解することだと信じている。しかし、分けられないものを分けているのだとしたら、その「理解」は何なのか。 砂の一粒 ギリシアの哲学者エウブリデスが提起したとされるソリテスのパラドクス(砂山の逆理)は、境界の不在を最も明快に示す。 砂山がある。そこから一粒を取り除く。まだ砂山だ。もう一粒。まだ砂山だ。この推論を繰り返すと、最後の一粒になっても「砂山」であることになる。あるいは逆に、一粒は砂山ではない。二粒も砂山ではない。この推論を繰り返すと、百万粒あっても「砂山ではない」ことになる。

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

名前だけが残る

あなたの名前は、あなたではない。 けれども、あなたの名前がなければ、この世界にあなたの居場所はない。生まれ落ちた瞬間、誰かがあなたに音の列を割り当てた。あなたの同意もなく、あなたの趣味も聞かず、あなたがまだ何者でもないうちに。それが名前だ。あなたはそのラベルの下で一生を過ごし、そのラベルの下で埋葬される。もっとも、ラベルの下には最初から何もなかったのかもしれないが。 固定された影 1970年、ソール・クリプキはプリンストンの講義室で、名前について奇妙なことを言った。名前は「固定指示子(rigid designator)」である、と。 あなたの名前は、あらゆる可能世界を横断して、同じ対象を指し続ける。あなたが医者になった世界でも、犯罪者になった世界でも、生まれなかった世界でも(その場合は何も指さないが)、「あなた」の名前は「あなた」を追いかける。記述によって人を特定する従来の考え方を、クリプキはひっくり返した。「アメリカ合衆国の第37代大統領」という記述は、別の可能世界では別の人を指すかもしれない。しかし「ニクソン」という名前は、どの可能世界でもニクソンを指す。名前は記述の束で

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倫理と思考実験

余白が語りはじめる

完成した作品など、どこにもない。 何かが書かれるとき、書かれなかったものがある。何かが描かれるとき、描かれなかった部分がある。何かが語られるとき、語られなかった沈黙がある。私たちは書かれたもの、描かれたもの、語られたものに注意を向ける。当然だ。そこに意味があると思っている。だが、意味は本当にそちら側にあるのだろうか。 もしかすると、余白のほうが雄弁なのかもしれない。 塗り残された場所 長谷川等伯の『松林図屏風』を見たことがあるだろうか。六曲一双の屏風に、松林が描かれている。だが「描かれている」という表現はすでに正確ではない。画面の大部分は何も描かれていない。霧か靄か、あるいはただの紙の白さか。松の幹と枝がぼんやりと浮かび上がり、そしてまた霧の中に消えていく。この絵の核心は、松が描かれている部分にはない。描かれていない部分にある。 日本美術には「間」(ま)という概念がある。空間的な隙間、時間的な間隔、あるいはそのどちらでもない何か。建築における柱と柱のあいだ。音楽における音と音のあいだ。能舞台における動きと動きのあいだ。「間」は単なる空白ではない。空白そのものが表現の一部とし

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倫理と思考実験

隠すものなどなかった

人類最初の感情は、恐怖でも喜びでもなかったらしい。 創世記によれば、アダムとイヴが禁断の果実を食べた後、最初に起きたことは「裸であることを知った」ことだった。痛みでも凍えでもなく、羞恥。自分の身体が見られているという事実に耐えられなくなった。そして、葉を纏った。 この物語を宗教的な寓話として読むか、人類学的な原型として読むかは、どちらでもいい。重要なのは、この物語が提起する問いだ。裸であることは、なぜ恥ずかしいのか。私たちは何を隠しているのか。そして、隠すことは本当に可能なのか。 裸を知った日 創世記2章25節はこう記す。「人とその妻は二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。そして禁断の果実を食べた後、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った」(3章7節)。 この「知った」という動詞が鍵だ。裸は最初からそこにあった。変わったのは身体ではなく、身体に対する意識だ。つまり、羞恥は身体の属性ではなく、意識の属性だ。裸そのものが恥ずかしいのではない。「裸であることを知っている」ことが恥ずかしいのだ。 ここには、深い構造がある。羞恥は自己意識を前提とする。自分を

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倫理と思考実験

偶然はどこにもない

あなたがこの文章を読んでいるのは偶然だ。あなたが生まれたのも偶然だ。あなたの両親が出会ったのも偶然で、その両親の両親もそうで、どこまで遡っても偶然しか見つからない。 それなのに人は、偶然の連鎖を後から振り返って「運命だった」と語り直す。でも、人生に筋書きはない。 もっと厄介な問いがある。偶然が「ある」とは、一体どういうことなのか。 必然の影で 哲学の歴史において、偶然はつねに必然の残り物として扱われてきた。 アリストテレスは「偶然(テュケー)」と「自発性(アウトマトン)」を区別したが、どちらも副次的なものだった。本来の原因があり、それが逸れたとき、結果として偶然が生じる。偶然それ自体には存在論的な地位がない。何かが起きた「理由」が見つからないとき、そこに貼られるラベルにすぎない。 スピノザはもっと端的だった。自然のうちには偶然的なものは何もなく、すべては神の本性の必然性から一定の仕方で存在し作用するように決定されている(『エチカ』第一部定理二九)。偶然とは、人間の知性の限界が生み出す幻影にすぎない。知れば知るほど必然が見え、偶然は消える。 ライプニッツの「充足理由律」も

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倫理と思考実験

時計が止まっても何も変わらない

時間が存在するかどうかを問うのは、空気の中で空気について考えるようなものだ。問いを立てた瞬間に、もう答えの中にいる。そしてその答えは、たぶん、あなたが期待しているようなものではない。 時間は存在するのか。哲学はこの問いに二千年以上取り組んできた。そして二千年経っても、まだ誰も決着をつけていない。決着がつかないのは、哲学者が怠けているからではない。問いそのものが、答えを拒んでいるからかもしれない。 壊れた時計塔 1908年、イギリスの哲学者J.M.E.マクタガートは「時間の非実在性」という論文を発表した。タイトルからしてすでに挑発的だが、中身はもっと厄介だ。 マクタガートはまず、時間には二つの秩序があると指摘する。ひとつは「過去・現在・未来」という分類で、彼はこれをA系列と呼んだ。もうひとつは「より前・より後」という関係で、こちらはB系列と呼ばれる。 B系列だけでは時間にならない、とマクタガートは言う。「ソクラテスの死はカエサルの暗殺より前」という文は永遠に真だ。変わらない。変わらないものの中に、変化はない。変化のない「時間」は、時間と呼べるだろうか。 ではA系列はどうか。

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倫理と思考実験

帰る場所はなかった

「昔はよかった」と誰もが言う。言わない人間を見たことがない。しかし「昔」とは一体どこにあるのか。あなたの記憶の中にしかない。そしてその記憶は、嘘をつく。 病名としてのノスタルジア ノスタルジアには、甘い響きがある。黄昏の色をした感傷。しかし、この言葉が生まれたとき、それは感傷ではなかった。病名だった。 1688年、スイスの医学生ヨハネス・ホーファーが学位論文で「nostalgia」という語を造った。ギリシャ語のnostos(帰郷)とalgos(痛み)を組み合わせた造語だ。当時、スイスの傭兵たちが故郷を離れると原因不明の衰弱に陥る現象が知られていた。食欲不振、不眠、発熱、幻覚。ホーファーはこれを「想像力の病」として記述した。 17世紀から19世紀にかけて、ノスタルジアは精神医学の正式な診断名として扱われた。軍医たちはこの病を深刻に受け止め、治療法を模索した。蛭による瀉血、胃の洗浄、アルプスへの帰還命令。なかには「恐怖と痛みによる治療」を提案した医師もいた。故郷を思い出す暇がないほど恐ろしい体験を与えれば治る、という発想だ。 20世紀に入ると、ノスタルジアは診断名としての地位を

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倫理と思考実験

まだ覚めていない

今朝、あなたは目を覚ました。 そう信じている。けれど、その「信じている」という状態そのものが、夢の中で毎晩起きていることとどう違うのか。夢の中でも、あなたは自分が起きていると思っている。夢の中でも、目の前のものは確かに存在すると感じている。そして覚めた瞬間に、それがすべて嘘だったと知る。 では、今この瞬間が「覚めた側」であるという保証は、どこにあるのか。 この問いは、哲学史の中で何度も繰り返されてきた。しかし奇妙なことに、夢は懐疑の道具として使われるばかりで、夢そのものについて問われることは少なかった。夢とは何か。夢の中の「私」は誰か。覚醒と夢の境界は、本当に引けるのか。この記事は、その問いの中に沈んでいく。 蝶の見た夢 荘子がある日、蝶になった夢を見た。目を覚ますと、自分が蝶の夢を見た人間なのか、人間の夢を見ている蝶なのか、わからなくなった。 この逸話は二千年以上前のものだが、いまだに哲学的に解決されていない。荘子が突きつけたのは、単なる認識論的な懐疑ではない。夢と覚醒の区別そのものが、どちらの側からも正当化できないという構造的な問題だ。覚醒の側から「あれは夢だった」と

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倫理と思考実験

自由意志を手放せない

あなたの意志で読み始めたと思っているこの文章は、138億年前にすでに決まっていたのかもしれない。 問いの形をした罠 「自由意志は存在するのか」。 この問いには不思議な性質がある。考えれば考えるほど、自由意志の存在を否定する方向に議論が傾いていく。物理法則は決定論的に振る舞い、脳は化学反応の連鎖であり、「選択」と呼んでいるものはニューロンの発火パターンにすぎない。論理的に突き詰めれば、自由意志が入り込む余地はどこにもないように見える。 それなのに、大多数の人間はいまだに自由意志を信じている。哲学者ですらそうだ。PhilPapersの大規模調査(2020年)によれば、哲学者の約59%が両立論(コンパティビリズム)を支持している。つまり、決定論が真であっても自由意志は成立しうると考えている。 なぜか。 「証拠があるから」ではない。「論証が強いから」でもない。おそらく、信じたいからだ。 そしてここに、この問いの本当の罠がある。「自由意志は存在するか」という問いは、いつの間にか「なぜ私たちは自由意志を信じたいのか」という、まったく別の問いにすり替わっている。 決定論の冷たい論

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倫理と思考実験

あなたの贈り物は届かない

誰かに何かを贈ったことがあるだろう。そしてそのたびに、あなたは失敗している。 贈り物という嘘 私たちは贈り物をする。誕生日に、クリスマスに、あるいは何でもない日に。「気持ちだから」と言い添えて差し出す。見返りなんて求めていない、と本気で思っている。 しかし、贈った瞬間に何が起きているかを正直に見つめてみると、事態はそう美しくない。 相手が喜べば、こちらも嬉しい。感謝されれば、満たされる。「いい人だ」と思われることの心地よさ。贈る行為には、差し出す側にとっての報酬がすでに織り込まれている。純粋な善意のつもりでも、その善意そのものが一種の見返りになっている。 そして受け取る側はどうか。「もらったからにはお返ししなければ」という圧力が、意識するしないにかかわらず、静かに発生する。お中元にはお歳暮を。結婚祝いには内祝いを。香典には香典返しを。日本社会はこの構造をきわめて精緻に制度化してきた。 贈り物は、贈られた瞬間に「負債」になる。 モースが見たもの フランスの社会学者マルセル・モースは、1925年に発表した『贈与論(Essai sur le don)』で、贈与の構造を正面

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日常の構造

あなたを撮った

街を歩いている。ふと、知らない人がこちらにレンズを向けている。シャッター音が聞こえたかもしれないし、聞こえなかったかもしれない。あなたの顔は、いまこの瞬間、誰かのSDカードに記録された。許可は求められていない。 あなたは怒るだろうか。それとも、気づかないまま歩き続けるだろうか。 ストリートスナップと呼ばれる行為がある。公共の場で、見知らぬ人を、断りなく撮る。撮る側はそれを「表現」と呼び、撮られる側はそれを「侵害」と呼ぶことがある。どちらも間違っていない。どちらも正しくない。この記事はその境界線について書くが、線は引けない。引けないということを、もう少しだけ丁寧に絶望してみたい。 シャッターという所有 スーザン・ソンタグは1977年の『写真論(On Photography)』で、写真を撮る行為を「所有」の一形態として記述した。 To photograph is to appropriate the thing photographed. 撮影することは、撮影された対象を占有することだ、と。カメラは記録装置であると同時に、

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生きること

なにかをしよう!(何のために?)

人間は考える葦である、とパスカルは書いた。宇宙に比べれば無に等しい存在だが、考えることにおいて宇宙を超える、と。美しい話だ。ただ、葦が自分を葦だと知ったところで、風に折られる運命は変わらない。 献血にいこう 献血に行くと、ジュースがもらえる。お菓子も出る。献血カードにスタンプが押されて、回数が増えていくのを眺めると、なんだか立派な人間になった気がする。実際にやったことといえば、腕に針を刺されて、しばらくぼんやり座っていただけなのに。 この「いいことをした感触」は、どこから来るのか。 カントは『道徳形而上学の基礎づけ』(1785年)のなかで、行為の道徳的価値は義務(Pflicht)から行為することにあると論じた。気持ちがいいからやる、感謝されるからやる、そういう傾向性(Neigung)に基づく行為は、たとえ結果として善いものであっても、道徳的価値を持たない。誤解されやすいが、カントは傾向性から行為すること自体を否定しているわけではない。ただ、道徳的に「偉い」のは義務から行為した場合だけだ、と言っているにすぎない。 だとすれば、献血の気持ちよさは善行の証拠ではない。善行と気持ち

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