名前だけが残る

あなたの名前は、あなたではない。

けれども、あなたの名前がなければ、この世界にあなたの居場所はない。生まれ落ちた瞬間、誰かがあなたに音の列を割り当てた。あなたの同意もなく、あなたの趣味も聞かず、あなたがまだ何者でもないうちに。それが名前だ。あなたはそのラベルの下で一生を過ごし、そのラベルの下で埋葬される。もっとも、ラベルの下には最初から何もなかったのかもしれないが。

固定された影

1970年、ソール・クリプキはプリンストンの講義室で、名前について奇妙なことを言った。名前は「固定指示子(rigid designator)」である、と。

あなたの名前は、あらゆる可能世界を横断して、同じ対象を指し続ける。あなたが医者になった世界でも、犯罪者になった世界でも、生まれなかった世界でも(その場合は何も指さないが)、「あなた」の名前は「あなた」を追いかける。記述によって人を特定する従来の考え方を、クリプキはひっくり返した。「アメリカ合衆国の第37代大統領」という記述は、別の可能世界では別の人を指すかもしれない。しかし「ニクソン」という名前は、どの可能世界でもニクソンを指す。名前は記述の束ではない。名前は因果の鎖でつながっている。誰かが最初に指を差して「これをXと呼ぶ」と言い、その呼び名が人から人へ、世代から世代へ、因果的に伝播していく。

それだけだ。

ジョン・スチュアート・ミルは名前に意味(connotation)はないと言った。フレーゲは名前には「意義(Sinn)」があると言った。「明けの明星」と「宵の明星」は同じ金星を指すが、その認知的価値は異なる。クリプキはそのどちらとも違う角度から切り込んだ。名前に意味なんかない。名前は、ただ因果の鎖の末端にぶら下がったラベルにすぎない。

でも、不思議なことに、そのラベルがなければ、あなたは誰にも指し示されない。あなたがどこからどこまで自分なのかわからなくても、名前だけはあなたを一個の対象として世界に繋ぎ止めている。繋ぎ止められることが祝福なのかどうかは、また別の話だ。

鎖を選ぶ自由

名前が因果の鎖にすぎないなら、鎖は断てるのか。

人は名前を変える。改名する。ペンネームを使う。匿名になる。その動機はさまざまだが、共通しているのは、与えられた名前と自分との間にある埋めがたい隔たりだ。名前が自分を表していないと感じること。あるいは逆に、名前が自分を表しすぎていて息苦しいこと。

改名という行為は、一見すると自由の行使に見える。自分で自分を名指す、自己決定の究極形。しかしクリプキ的に言えば、新しい名前もまた固定指示子にすぎない。古い鎖を断ち切って、新しい鎖をつなぐ。あなたが変わったのではない。ラベルが変わっただけだ。もっとも、ラベルが変わるだけで人生が変わる人もいる。それは名前が意味を持たないはずなのに、意味を持ってしまうという、言語の厄介な性質のせいなのかもしれない。

ペンネームは別の問題を突きつける。マーク・トウェインはサミュエル・クレメンズだった。ジョージ・オーウェルはエリック・ブレアだった。フェルナンド・ペソアに至っては、七十以上の異名を使い分けた。二つの名前の間に立つ人間は、いったい何者なのか。ペンネームとは、自分自身から距離を取る技術だ。名前という鎖の長さを自分で調節する行為だ。本名で書けないことを、別の名前なら書ける。それは透明人間になることの倫理に似ている。匿名性は自由であると同時に、責任からの逃走でもある。

匿名になるとき、人は固定指示子を手放す。インターネット上で名無しになった人間は、可能世界を横断しない。その発言は発言だけとしてそこに漂い、因果の鎖のどこにもつながらない。それは解放なのか、それとも消滅なのか。名前を捨てた人間は存在し続けるのか。存在はしている。しかし誰にも呼ばれない存在というのは、もはや「誰か」ではなく、ただの背景だ。

名前に飼われる

名前は意味を持たない、とミルは言った。クリプキもそう言った。しかし現実は、そんなにきれいに割り切れない。

心理学には「名前の暗示的自我(implicit egotism)」という仮説がある。人は自分の名前に含まれる文字や音に無意識に惹かれる、と。デニスという名前の歯科医(dentist)は統計的に多いのか。こうした研究は方法論的に批判されてきたし、再現に失敗したものも多い。因果関係と相関関係の区別は、ここでも曖昧にされがちだ。

しかし、もう少し素朴に考えてみる。あなたの名前は、あなたが世界から最初に受け取った言葉だ。あなたが自分を認識するより前に、あなたはその音で呼ばれていた。名前が人格を作るのではない。しかし名前が人格の輪郭をうっすらと縁取ってしまうことは、ありえなくもない。名前は最初の外部評価だ。あなたが何者であるかを、あなた以外の誰かが最初に決めた痕跡だ。

名前が人格に影響するかどうかを問うことは、結局のところ、言語が思考を制限するのかという古い問いに合流する。サピア=ウォーフ仮説の名前版。名前が私を作るのか、私が名前に意味を与えるのか。おそらくどちらでもあり、どちらでもない。そしてその曖昧さこそが、名前という現象の核心なのかもしれない。あるいは核心なんか最初からないのかもしれない。

名前のない感情

ここで問いは反転する。名前がつけられたものの話から、名前がつけられていないものの話へ。

「名前のない感情」は存在するのか。

日本語には「侘び寂び」がある。ポルトガル語には「サウダーデsaudade」がある。ドイツ語には「Gemütlichkeit」がある。ある言語にだけ存在し、他の言語には対応する語がない感情の名前。ジョン・ケーニグは『名前のない感情の辞典(The Dictionary of Obscure Sorrows)』で、言語がまだ捕まえていない感情に片端から名前を与えようとした。「ソンダー」は、すれ違う見知らぬ人にもあなたと同じくらい複雑な人生があると気づく瞬間。「ヴェモーダーレン」は、すべてが撮り尽くされた世界で自分だけの写真を撮ることの不可能性への苛立ち。日本語には「侘び寂び」がある。ポルトガル語には「saudade」がある。ドイツ語には「Gemütlichkeit」がある。ある言語にだけ存在し、他の言語には対応する語がない感情の名前。ジョン・ケーニグは『名前のない感情の辞典(The Dictionary of Obscure Sorrows)』で、言語がまだ捕まえていない感情に片端から名前を与えようとした。「sonder」は、すれ違う見知らぬ人にもあなたと同じくらい複雑な人生があると気づく瞬間。「vemodalen」は、すべてが撮り尽くされた世界で自分だけの写真を撮ることの不可能性への苛立ち。日本語には「侘び寂び」がある。ポルトガル語には「サウダーデ」がある。ドイツ語には「ゲミュートリヒカイト」がある。ある言語にだけ存在し、他の言語には対応する語がない感情の名前。ジョン・ケーニグは『名前のない感情の辞典(The Dictionary of Obscure Sorrows)』で、言語がまだ捕まえていない感情に片端から名前を与えようとした。「ソンダー」は、すれ違う見知らぬ人にもあなたと同じくらい複雑な人生があると気づく瞬間。「ヴェモーダーレン」は、すべてが撮り尽くされた世界で自分だけの写真を撮ることの不可能性への苛立ち。

しかしここで立ち止まる必要がある。名前のない感情は「存在するが名前がない」のか、それとも「名前がないから輪郭を持てずにいる」のか。

ウィトゲンシュタインなら、語りえないことについては沈黙しなければならない、と言うかもしれない。しかし沈黙は不在の証拠ではない。あなたが何かを感じている。それを言葉にできない。言葉にできないということは、それが存在しないということなのか。

答えは明らかにノーだ。あなたの身体は、言語より先に反応する。胸が締めつけられる。喉の奥が詰まる。理由はわからないが、何かがそこにある。名前のない感情は、名前がないだけで、存在している。

しかし、名前をつけた瞬間に、その感情は変質する。言葉にされた途端、あなたが見ていたものは別のものに変わる。名前は固定する。固定された感情は、もはやあの曖昧で捉えどころのない、あなただけのものではなくなる。名前をつけることは、感情を公共の空間に引きずり出す行為だ。そしてその過程で、何かが必ずこぼれ落ちる。

嘘の物語に涙を流すとき、あなたはその感情に名前をつけられるだろうか。「感動」「共感」「哀愁」。どれもまるで違う。しかしどれかを選んだ瞬間に、あなたの涙はその名前の枠に収まってしまう。

名前のない感情が存在するのかと問うことは、名前のない人間が存在するのかと問うことに等しいのかもしれない。存在はしている。しかし、誰にも呼ばれず、誰にも知られない存在は、この世界のどこに位置しているのか。名前がなくても世界は回る。しかし名前がなければ、あなたはその世界の中で迷子になる。

残骸

名前は因果の鎖だ。意味はない。しかし私たちは鎖なしには存在できない。

クリプキは名前を可能世界に固定した。しかしクリプキは、名前をつけられた側がどう感じるかについては何も言わなかった。哲学者は大抵そうだ。名前の論理的地位を完璧に分析しておきながら、名前で呼ばれたときの微かな違和感については一行も書かない。

あなたの名前は、あなたより長く残るだろう。墓石に刻まれ、書類に残り、誰かの記憶の片隅でしばらく生きながらえる。あなたがいなくなった後も、あなたの名前はあなたがかつて存在したことの痕跡として、しばらくの間この世界に居残る。

けれども名前だけが残ったとき、そこに「あなた」はもういない。固定指示子が指し示す先が空っぽになった名前。それはもう名前ですらなく、ただの音の並びだ。

名前は関係なかったのかもしれない。最初から。

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