Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

鎖を愛した動物

自由について真剣に考えたことのある人間は、おそらく全員が不幸になった。 なぜなら、自由とは何かを突き詰めていった先に残るのは、自分が自由ではないという確信だけだからだ。「自由に生きたい」と誰もが口にする。けれど、その「自由」が具体的に何を指すのか説明できた人間を、少なくとも私は知らない。 私たちは自由を信仰している。定義もできないまま、それが善いものだと信じて疑わない。これは宗教と何が違うのだろう。 定義できない信仰 ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』(1859年)で「危害原則」を示した。他者に危害を加えない限り、個人の自由は制限されるべきではない、という考え方だ。 明快に聞こえる。しかし、ほんの少しだけ立ち止まってほしい。 「危害」とは一体何なのか。殴ることは危害だろう。では、深く傷つく言葉はどうだろう。不快な表現を公の場にさらすことは。ある人間の存在そのものが、別の誰かにとっての脅威であるとき、ミルの原則は何も言わない。 「危害」の意味について、人類は一度も合意に至っていない。原則だけが宙に浮いて、その下で人々はそれぞれの「自由」を好き勝手に振りかざしている。私

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

どうせ死ぬ

あなたは死ぬ。べつに脅しているわけではない。ただ、あらゆる自己紹介のなかで最も正確なものを述べただけだ。名前よりも職業よりも、「いずれ死ぬ」という属性のほうがよほど確実で、よほど普遍的で、そしてよほど無視されている。 で、それがどうした、と思っただろうか。それならそれでいい。この話はべつに、あなたの人生を変えようとして書いているのではない。変わらないことのほうが、たぶん誠実だ。 解決済みの恐怖 エピクロスという哲学者がいた。紀元前3世紀のギリシャで快楽主義の学派を率いた人物だ。彼は『メノイケウス宛の手紙』のなかで、死についてこう述べた。 死はわれわれにとって何ものでもない。なぜなら、われわれが存在するとき死はここになく、死がここにあるときわれわれはもはや存在しないからだ。 理屈は明快だ。私と死は決して同じ場に居合わせない。まだ来ていない嵐を窓の外に探すようなものだ、と。 ローマの詩人ルクレティウスは、これをさらに押し広げた。紀元前1世紀の長編詩『事物の本性について』第三巻で彼が提示したのは、今日「対称性論法」と呼ばれる議論だ。生まれる前、あなたは無限の時間のあいだ存在しな

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倫理と思考実験

あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚本の上で踊っているだけだった

あなたの幸福は、最初から汚れている。 これは道徳の話ではない。宗教の話でもない。ただの観察だ。今この瞬間、どこかで誰かが苦しんでいる。それを知っていて、それでも「自分は幸せだ」と言える構造のことを、ここでは幸福と呼ぶ。 幸福は常に誰かの犠牲の上に成り立っている、と主張したいわけではない。もっと手前の話だ。幸福という状態そのものが、他者の存在なしには定義すらできない。そして、その事実がどこまで行っても振り払えない。 この話には結論がない。結論を出せるような問いではないから。 地下室の子ども アーシュラ・K・ル=グウィンが1973年に発表した短編「オメラスから歩み去る人々」は、ある思考実験の形をとっている。 オメラスという街がある。美しく、豊かで、住民は皆幸福に暮らしている。ただしひとつだけ条件がある。街のどこかの地下室に、一人の子どもが閉じ込められている。その子どもが苦しみ続ける限りにおいて、街全体の繁栄は維持される。住民はその事実を知っている。知った上で、日々を送っている。 この設定は功利主義への問いとして読まれることが多い。ジェレミー・ベンサムが18世紀末に体系化した

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倫理と思考実験

届かない一言

もし過去の自分に一言だけ伝えられるとしたら、何を言うか。 深夜のSNSで、あるいは終電を逃した夜のファミレスで、誰かがこの問いを口にする。哲学書の一節のような顔をして現れるが、正体はレシートの裏に書き殴られるたぐいの問いだ。誰でも答えられそうな気がする。でも、答えようとした瞬間に指の間からすり抜ける。 この問いに正面から向き合った時点で、あなたはもう袋小路の中にいる。 届いた瞬間に消える手紙 仮に、何らかの方法で過去の自分にメッセージを送れたとしよう。 もしその一言が効いて、過去の自分が行動を変えたとする。そうすると、今の自分はもう今の自分ではなくなる。今の自分が変われば、その一言を送ろうとした理由も、送ったという事実そのものも、まるごと消えてしまうかもしれない。 時間旅行の思考実験に「祖父のパラドックス」と呼ばれる有名な構造がある。過去に遡って自分の祖父の存在を阻止すれば、自分は生まれない。生まれなければ過去に遡ることもできない。原因が結果を打ち消し、結果が原因を打ち消す自己矛盾のループだ。 この問いにも、同じ構造がそっと忍び込んでいる。伝えたい。でも、伝わったら、伝

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倫理と思考実験

心を、人の心奥を、覗いてみたい?

もし明日、世界中の人間の思考が丸見えになったとする。あらゆる内面が、フィルターも遅延もなく、あなたの意識に流れ込んでくる。 さて、あなたはそれを望むだろうか。 たぶん、多くの人は「読みたい」と答える。好きな人が自分をどう思っているか。上司の本音。友人の裏の顔。好奇心は人間の根深い衝動だし、知ることは力だと、私たちはずっとそう教わってきた。 でも、少しだけ立ち止まってみてほしい。この問いの本当の重さは「読めること」にはない。「読んだあと」にある。 そもそも心なんてあるのか 哲学には「他者の心の問題(Problem of Other Minds)」と呼ばれる古典的な問いがある。あなた以外の人間に、本当に「心」があるのか。痛みを感じているのか。喜んでいるのか。それを直接確かめる手段は、原理的に、存在しない。 あなたが見ているのは、常に「ふるまい」だ。泣いている人が悲しいとは限らない。笑っている人が楽しいとは限らない。私たちに与えられているのは類推と推測だけで、それは証明とはまるで別のものだ。 だから「

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倫理と思考実験

世界はそこで終わっている

あなたが今この瞬間に感じていることを、正確に言葉にしてみてほしい。 無理だ。 「悲しい」に似ているかもしれないが「悲しい」ではない。「不安」でもない。もっと輪郭がぼやけていて、もっと捉えどころがない。言葉にしようとした瞬間に、別の何かにすり替わる。いつも少しだけ足りない。いつも少しだけ嘘になる。 そしてここに、素通りするには不穏すぎる問いがある。言葉にできないその感覚は、「存在している」と言えるのか。もし言えないなら、あなたの内側には、あなた自身にさえ見えていない領域が、いったいどれほど広がっているのか。 名前のないものは存在しない ポルトガル語に "saudade" という言葉がある。失ったもの、あるいは最初から手にしなかったものへの、甘く痛みを帯びた切望。日本語にも英語にも、ぴったり重なる一語はない。 日本語には「木漏れ日」がある。葉の隙間からこぼれ落ちる光。英語話者がこの現象を目にしないわけではない。ただ、それを一語で切り取る道具を持たない。ドイツ語には "Schadenfreude" がある。他人の不幸への密かな喜び。日本語話者もその感覚を知っているだろうが、それ

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倫理と思考実験

誰も何も選んでいない

おめでとう。あなたはこの文章を「自分の意志で」開いた。少なくとも、そう感じている。 ここには答えがない。慰めも、希望も、用意していない。あるのは問いだけだ。その問いのすべてが、あなたの足元を掘り崩す方向を向いている。 読まなければよかったと思うかもしれない。でも安心してほしい。「読む」と決めたのも、あなたではなかったかもしれないのだから。 好みという化石 あなたが好きなものを一つ思い浮かべてほしい。音楽でも食べ物でもいい。 なぜそれが好きなのか。答えようとすると、驚くほど薄い理由しか出てこない。「なんとなく」「昔から」「聴いたら良かった」。どれも説明になっていない。 社会学者ピエール・ブルデューは「ハビトゥス」という概念を提唱した。人の好みや感性は、育った社会的環境のなかで無意識に形成される。クラシック音楽を高尚と感じるか退屈と感じるかは、個人の感性であると同時に、どの文化圏で育ったかの問題でもある。 友人に勧められた音楽をいつの間にか好きになる。繰り返し広告で見たブランドに親しみを覚える。アルゴリズムが選んだ動画を、まるで自分で見つけたかのように楽しむ。 では、環境

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岩はまた転がり落ちる

朝、目覚ましが鳴る。昨日も鳴った。明日も鳴る。あなたはそれを止めて、起き上がる。なぜか、と問われたら、たぶん答えに詰まる。「仕事があるから」、「学校があるから」。でもそれは理由ではなく、状況の説明にすぎない。 ギリシア神話に、シーシュポスという王がいた。そして1942年、アルベール・カミュという哲学者が、この古い物語を使って、とても厄介な問いを投げかけた。 神々は退屈だったのかもしれない シーシュポスはコリントスの建国王にして、神話屈指のトリックスターだった。ゼウスが河神アーソーポスの娘アイギーナを連れ去ったとき、シーシュポスはそれをアーソーポスに密告した。死神タナトスが迎えに来れば鎖で縛り上げ、冥界に送られれば冥府の神すら言いくるめて地上に舞い戻った。 神々はついに、彼にふさわしい罰を考案する。巨大な岩を山の頂上まで押し上げること。ただし岩は、頂上に届く寸前で転がり落ちる。シーシュポスはまた麓に降り、また押し始める。それが永遠に繰り返される。 この罰の本当の残酷さは、肉体的な苦痛にあるのではない。無意味の反復にある。どれほど力を込めても、結果は振り出しに戻る。努力の痕跡は

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透明人間の倫理

善人はたぶんいない ひとつ、思考実験をしよう。 もし今この瞬間、あなたが完全に透明になれるとしたら。誰にも見えない。カメラにも映らない。記録も残らない。法も届かない。そうなったとき、あなたは今と同じように振る舞うだろうか。 約2400年前、プラトンの『国家』第2巻で、グラウコンがソクラテスに向かってひとつの寓話を語った。 リュディア王に仕えるギュゲスという羊飼いが、ある日、地震によって大地に開いた裂け目へ降りていく。そこには青銅でできた馬があり、扉を開けると、中には人間の骸骨が横たわっていた。その指に、金の指輪がはまっている。ギュゲスはそれを抜き取った。 後日、指輪の石を内側に回すと自分の姿が見えなくなることに気づく。透明人間になったギュゲスは王宮へ上り、王妃を誘惑し、王を殺害し、自ら王座に就いた。 グラウコンはソクラテスにこう問いかけた。もし正しい人間と不正な人間それぞれにこの指輪を与えたなら、二人の行動に違いは出るだろうか。彼自身の答えは明快だった。違いはない。どちらも同じことをする。人が正しくあるのは、見られているからにすぎない。正義とは、弱さゆえの社会的な妥協であっ

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倫理と思考実験

灯りと不在

朝、目が覚める。自分がいる。少なくとも、そう感じる。 これほど当たり前のことを疑う人は少ない。目の前のコーヒーカップが存在すること、隣で眠っている猫が生きていること、電車で向かいに座っている人に心があること。全部まとめて「そりゃそうでしょ」で片づけられる。 ただ、哲学はこの「そりゃそうでしょ」をまったく信用しない。 隣の人には中身がない 通勤電車に乗っている人を見る。表情がある。動作がある。スマートフォンを操作し、あくびをし、ときどき窓の外を眺める。この人には意識がある、と思う。 しかし、それをどうやって証明するのか。 デイヴィッド・チャーマーズが1996年に提示した「哲学的ゾンビ」という思考実験がある。外見も行動も脳の物理的状態も、意識のある人間とまったく同じだが、主観的な経験が一切ない存在。痛みを感じているように振る舞うが、何も感じていない。笑うが、おかしくはない。泣くが、悲しくはない。 論理的に、この存在は矛盾しない。外側から意識の有無を確かめる方法は、原理的に存在しない。物理学も神経科学も、ニューロンの発火やシナプスの接続は説明できる。しかし「なぜそこに主観的な

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倫理と思考実験

誰も聞いていない

森で木が倒れた。誰もいなかった。音はしたか。 あなたにとっては、どうでもいい話かもしれない。木が倒れれば空気は揺れる。物理としてはそれで片がつく。ところがこの問いは、少なくとも140年以上、哲学者にも物理学者にも片づけられずにいる。もしかすると、問い自体が壊れているのかもしれない。 問いは最初から壊れている 1883年、アメリカの雑誌『ザ・ショトーカン(The Chautauquan)』にこんな問いが載った。「木が島で倒れて、人間がひとりもいなかったら、音はあるのか?」。回答はこうだった。「ない。音とは空気の振動によって耳に引き起こされる感覚のことだから」。 翌年には『サイエンティフィック・アメリカン』が似た質問を取り上げ、より技術的な回答を添えている。音とは振動が耳という機構を通じて伝わり、神経中枢で認識されるものである。耳がなければ音はない、と。 問いの現在のかたち、つまり「森で木が倒れて、誰も周りにいなかったら、音はしたのか」は、1910年に出版されたチャールズ・リボーグ・マンとジョージ・ランサム・トゥイスの物理学の教科書『Physics』に登場したのが最初とされてい

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倫理と思考実験

暗闇の中でも、あなたは明日も誰かを愛そうとする

あなたの右隣にいる人間を見てほしい。その人は呼吸をしている。まばたきをしている。話しかければ返事をするし、冗談を言えば笑う。あなたと同じ言葉を使い、あなたと同じように怒り、あなたと同じように泣く。 だが、その人に意識があるという証拠は、どこにもない。 これは比喩ではない。誇張でもない。哲学が数百年にわたって格闘し、いまだに解決できていない問題だ。あなたが毎日すれ違うすべての人間について、その内側に「誰か」がいるのかどうか、あなたには原理的に確かめる方法がない。 この記事は、その絶望的な事実についてである。 確かなのは自分だけ デカルトは、あらゆるものを疑った。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、自分の身体すら、悪い霊に騙されている可能性がある。だが、「疑っている自分自身」の存在だけは疑えない。疑うという行為そのものが、疑う主体の存在を証明するから。有名な「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」だ。 ここで立ち止まってほしい。デカルトが確実だと言ったのは、自分の意識だけだ。あなたの意識の存在は、あなたにとっては疑いようがない。だが、その確実さは、あなたの隣にいる人間に

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