配られたカードを見ろ

あなたは自分の人生を「自分で切り拓いた」と思っている。

けれど、少しだけ巻き戻してみてほしい。あなたが最初に下した「決断」は何だったか。母語を選んだか。生まれる国を選んだか。親の年収を、達伝子の配列を、生まれた世紀を、選んだか。

何ひとつ選んでいない。そして、その「何ひとつ選んでいない」が、その後のすべてを規定している。あなたの努力も、成功も、価値観も、この記事を読んでいるという事実も、すべてその初期条件の上に立っている。

この記事は「生まれ」という、誰もが経験し、誰もが選ばなかった出来事について書く。答えは出ない。ただ、引き当てたくじの中身を、もう少し丁寧に見ておきたい。

くじを引く手はなかった

ハイデガーが「被投性(Geworfenheit)」と呼んだ構造については、別の記事で書いた。私たちは自分の存在の出発点を選んでいない。それは人間の存在そのものの構造である、と。

ここでは、その被投性の具体的な中身に踏み込みたい。「投げ込まれた」という構造を哲学的に記述することと、投げ込まれた先の中身が人生をどれほど規定するかを見つめることは、似ているようでまったく違う。

被投性は「選ばなかった」という構造の記述だ。この記事は、その「選ばなかった中身」が社会の中で何を意味するかを問う。もっと泥臭い、もっと具体的な、数字と統計が口を開く領域へ。

達伝子のくじ引き

行動遺伝学者キャサリン・ペイジ・ハーデンは2021年の著書『遺伝子くじ(The Genetic Lottery)』で、不快な事実を淡々と述べた。DNAは社会的成果に影響する。学歴、収入、健康。そのどれにも遺伝的変異は統計的に有意な影響を与えている。

誤解を避けるために言っておくと、これは「すべては遺伝子で決まる」という話ではない。ハーデン自身が繰り返し強調しているように、遺伝的影響は確率的なものであって決定的なものではない。また、遺伝子の影響が発現するかどうかは、環境に大きく依存する。同じ遺伝的素因であっても、置かれた環境によって結果は大きく異なる。

それでも、不快さは残る。

なぜなら、遺伝子の配列は自分で選べないからだ。生まれつきの知的能力の差異、身体的特性の差異、特定の疾患への罅患リスク。それらはすべて、あなたが存在する前に引かれたくじの結果だ。くじを引いた手はどこにもない。引かれた側は、その結果を抱えて数十年を生きる。

「努力で補える」という反論が当然出る。たしかに、努力は多くのことを補える。しかし、努力できるという性質そのものが、どこまで遺伝と環境の産物なのか。自制心、持続力、動機づけ。それらの能力もまた、完全に自発的に発生したものではない。誰も何も選んでいないのだとすれば、努力という概念の土台が揺らぐ。

ハーデンの議論が真に重要なのは、彼女が遺伝的差異を「自然なもの」として放置するのではなく、それを社会的正義の問題として捉え直そうとしている点だ。遺伝的差異があること自体は、不正義ではない。それを「功績」として扱い、報酬と罰の根拠にする社会の仕組みが、不正義なのだ。

地図の上の運命

遺伝子だけではない。地理が、運命を書く。

2014年、世界銀行の『世界開発報告』は、生まれた国が生涯所得の約三分の二を説明するという推計を引用した。ブランコ・ミラノヴィッチが先行研究で示したこの知見は、各国の所得分布を並べることで見えてくる。ノルウェーの下位10%の所得は、多くの国の上位層よりも高い。生まれた場所が違うだけで、人生の経済的な天井と床がまるごと入れ替わる。

これは「国境のくじ引き(citizenship premium)」と呼ばれることがある。市民権は、現代におけるもっとも強力な身分制度かもしれない。中世の身分制度は、少なくともその不正義を自覚していた。現代の「国籍」という制度は、その恩恵を受ける側にとっては透明だ。透明であるがゆえに、問われない。

もちろん、地理的不平等は国境の外側だけではない。同じ国の中でも、都市と地方、富裕な地区と貧困地区で、教育資源も就業機会も医療アクセスも大きく異なる。郵便番号が一つ違うだけで、平均寿命が数年変わることもある。

あなたの「努力」が達成したというもの。そのうちどれだけが、生まれた場所がたまたまそこだったから可能だったのか。人生に筋書きはないとしても、舞台装置は最初から決まっていた。

努力の神話

ここで、実力主義(メリトクラシー)という巨大な物語に触れなければならない。

マイケル・サンデルは2020年の『実力も運のうち(The Tyranny of Merit)』で、実力主義が抱える構造的な問題を解剖した。サンデルの批判の核心は、実力主義が「勝者」に傲慢を、「敗者」に屈辱をもたらすという点にある。

実力主義の論理はこうだ。機会は平等に与えられるべきであり、その機会を活かすかどうかは個人の責任である。努力した者は報われるべきであり、怒た者はその結果を引き受けるべきだ。一見、公正に見える。

しかしサンデルは、この公正さが幻想であることを示す。まず、「機会の平等」が実現していない。親の所得、居住地域、人種、性別。それらが「機会」の入口を狭めたり広げたりしている。しかし、仮に機会が完全に平等になったとしても、問題は消えない。才能の差異が残るからだ。そして才能の大部分は、遺伝と生育環境という、本人が選んでいない要因に依存している。

サンデルはこう書いている。「完璧な実力主義は、贈り物や恩寥の感覚を追放する」。つまり、自分の成功が偶然と幸運に負っているという認識を、実力主義は構造的に弱体化させる。「自分で勝ち取った」と信じる人間は、「勝てなかった」人間に対する共感を失う。共通の運命を分かち合うという感覚が、実力主義の論理の中で静かに解体されていく。

ここで引っかかるのは、ロールズの無知のヴェールが突きつけた問いだ。自分がどんな人間として生まれるかわからない状態で社会を設計せよ、という思考実験。しかし、ロールズの思考実験は思考実験のまま終わった。私たちはすでにヴェールの向こう側にいて、自分が何者であるかを知ってしまっている。知ってしまった人間に、知らなかったふりをさせることの空虚さ。

道徳的運の深巻き

この問題には、哲学の側からも青白い光が当たっている。

トマス・ネーゲルとバーナード・ウィリアムズが1976年にそれぞれ発表した論文で提起した「道徳的運(moral luck)」の問題は、生まれの不平等を道徳の地盤から揘さぶる。

ネーゲルは道徳的運を四つの種類に分類した。結果の運(行為の結果が偶然に左右される)、因果の運(行為が先行する原因によって決定される)、状況の運(どんな選択に直面するかが偶然に左右される)、そして構成的運(constitutive luck)。

構成的運が、この記事の主題に直接触れる。構成的運とは、あなたがどんな人間であるかということ自体に関わる運だ。性格、気質、知的能力、感受性。これらはあなたの道徳的判断の土台であり、同時に、あなたが選んだものではない。

カントは、道徳的価値は運に左右されるべきではないと考えた。善い意志は、それが何を成し遂げたかにかかわらず善い。しかしネーゲルが突きつけたのは、その「善い意志」そのものが構成的運の産物ではないか、という問いだ。あなたが正義感の強い人間であるのは、あなたの功績なのか。それとも、たまたまそういう性質を持って生まれ、そういう環境で育った結果なのか。

道徳的運が示すのは、私たちの道徳的評価の体系が、その土台からして運に依存しているという事実だ。そして、その事実を認めた上でなお道徳を維持する方法を、誰も見つけていない。誰のせいでもないとするなら、賞罰の体系そのものが揺らぐ。

「できること」という尺度

この袋小路からの出口を探した人たちがいる。

アマルティア・センは、平等を「何の」平等かという問いから始めた。1980年のタナー講演「何の平等か(Equality of What?)」で、彼は所得や財の平等ではなく、「潜在能力(capability)」の平等を問題にすべきだと論じた。重要なのは、人が実際に何を「できる」か、何に「なれる」かだ。

たとえば、二人の人間が同じ量の食料を持っているとする。一人は健康な成人。もう一人は慢性的な疾患を持つ人。同じ「資源」が与えられていても、それを「健康に生きる」という機能に変換する能力は等しくない。資源の平等は、能力の平等を保証しない。

マーサ・ヌスバウムはセンのアプローチを発展させ、人間の尊厳に不可欠な10の中心的潜在能力のリストを提示した。生命、健康、身体的完全性、感覚・想像・思考、感情、実践理性、連帯、自然との関係、遊び、環境のコントロール。ヌスバウムは、まともな政治秩序なら、すべての人にこれらの能力の閾値水準以上を保障すべきだと論じた。

センとヌスバウムの潜在能力アプローチが重要なのは、生まれの不平等を「自然なもの」として放置するのではなく、社会の側の責任として捉え直している点だ。あなたがどんな運伝的素因を持って生まれようと、どんな場所に生まれようと、「できること」の幅を保障するのは社会の仕事だ、と。

ただし、これもまた、極めて難しい要請だ。「できること」の幅をどこまで保障するか。保障するための負担を誰が引き受けるか。そして、保障された「できること」の幅が、それでもなお不平等であることは避けられない。

幸運の負債

ここで、もっと身近な感覚に降りてくる。

あなたがもし比較的恵まれた境遌に生まれたのだとしたら、その幸運はあなたに何かを要求するだろうか。

加工されていない事実だけを並べる。世界の人口の約半数は、1日約6.85ドル(約1,000円)未満で生活している。あなたが今日、コーヒーを買った金額が、誰かの一日の生活費に相当する。その差の最大の説明変数は、生まれた場所だ。

幸福というものが最初から誰かの書いた脚本の上で踍っているだけだとすれば、幸運に生まれたという事実もまた、その脚本の一行にすぎない。幸運に感謝すべきだ、という人がいる。だが、感謝の対象はどこにいるのか。くじには出題者がいない。引いた本人もいない。感謝は、宛先不明の毎のまま宙に浮いている。

もうひとつ、もっと居心地の悪いことを言う。幸運に生まれたことへの罪悪感は、何も解決しない。苦しみは何も教えないのと同様に、罪悪感も何も教えない。罪悪感は行動にならなければ自己満足に毎。行動になったとしても、構造的不平等の前では砂粒ほどの影響しかない。個人の善意では、生まれのくじの偏りは矣正されない。

そこに座っているだけだ

この記事を書きながら、ある矛盾から目をそらせない。

生まれの不平等を語ること自体が、それを語る余裕のある側からの行為だということ。この文章を書いている自分も、それを読んでいるあなたも、生まれのくじの「当たり」の側にいる可能性が高い。少なくとも、この言語で、この媒体で、この種のテキストにアクセスできる時点で、そうだ。

この事実は、ここに書かれたすべての議論を無効にするだろうか。たぶん、しない。しかし、その議論がどこまで誠実でありうるかには、限界がある。幸運の側から不幸の構造を分析することは、描写としては可能でも、理解としては永遠に不完全だ。

ハイデガーは被投性を哲学的構造として記述した。ネーゲルとウィリアムズは道徳的運の問題を突きつけた。ロールズは無知のヴェールを提案し、センとヌスバウムは潜在能力で応じた。サンデルは実力主義の幻想を剥いだ。ハーデンは遺伝子のくじに向き合った。どれも、問題の輪郭を描くことには成功した。解決には、誰も成功していない。

あなたは、たまたまここに座っている。配られたカードを見て、「悪くない手だ」と思うかもしれない。あるいは「もっと良かったはずだ」と思うかもしれない。どちらにせよ、そのカードを配った人はいない。配り直しを求める窓口もない。

ただ、そのカードを持って、このテーブルに座り続けるだけだ。テーブルの向かい側には、まったく違うカードを持った人が座っている。その人の顔は見えない。見ないようにしているのか、見えないようにできているのか。その区別すら、もうつかない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

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