楽譜だけが時を巡り続ける

あなたが聴いているその曲には、作曲者がいない。

未来から来た誰かが、楽譜を過去の作曲家に手渡す。作曲家はそれを演奏し、曲は世界に広まり、やがて未来の誰かがその楽譜を手にして、過去へ持っていく。曲はいつ書かれたのか。誰が書いたのか。答えはどこにもない。ブートストラップ・パラドックスと呼ばれるこの問題は、「矛盾」ではない。もっとたちの悪いことに、筋は通っている。ただ、すべてのものに始まりがあるという私たちの根源的な信念を、静かに、丁寧に、踏みにじる。

靴紐を引っ張って空を飛ぶ

ブートストラップという名は、「自分の靴紐を引っ張って自分を持ち上げる」という英語の慣用句から来ている。物理的に不可能なことの比喩だ。しかしこのパラドックスは、不可能なことが論理的には矛盾しないという、より気味の悪い事態を指している。

構造はこうだ。事象Aが事象Bを引き起こし、BがCを引き起こし、CがAを引き起こす。因果の鎖が閉じたループになっている。どの事象もほかの事象によって引き起こされているから、それぞれの事象には「原因」がある。だが全体を見渡すと、このループそのものの原因はどこにも見当たらない。始まりがない。

ロバート・A・ハインラインのSF小説『時の門』(1941)は、この種の因果ループを文学として描いた古典として知られる。しかし哲学的に本腰を入れてこの問題が議論されるようになったのは、デイヴィッド・ルイスの論文 The Paradoxes of Time Travel(1976)以降のことだ。ルイスはタイムトラベルが論理的に可能であるとする立場から、ブートストラップ・パラドックスを「矛盾を含まないが直感に反する事態」として位置づけた。

矛盾を含まない。ここが厄介なところだ。論理は沈黙している。何もおかしくないと言っている。けれども私たちの直感は、何かが根本的に間違っていると叫び続ける。

祖父殺しとは別の話

タイムトラベルのパラドックスといえば、多くの人がまず思い浮かべるのは「祖父のパラドックス」だろう。過去に戻って自分の祖父を殺したら、自分は生まれないはずだから、過去に戻ることもできない。自己矛盾。結論は明快で、「それはできない」。

ブートストラップ・パラドックスはそれとは種類が違う。祖父のパラドックスが「自己矛盾」の問題なら、ブートストラップは「自己原因」の問題だ。前者は「できない」ことを示す。後者は「できるとしても、それは一体何なのか」を問う。

もし過去の自分に何かを伝えられるなら、その情報はどこから来たのか。未来の自分が過去の自分に伝えた知識が、やがて未来の自分の知識になるとしたら、その知識の「出生証明書」はどこにもない。祖父のパラドックスには「不可能だ」という逃げ道がある。ブートストラップには逃げ道がない。可能でありながら、起源がない。

情報は物体である

ここで物理学が厄介な口を挟む。

ランダウアーの原理(1961)によれば、情報の消去には必ずエネルギーが必要になる。つまり情報は抽象的な概念ではなく、物理的な実在だ。ビットを消すためには最低でも kT ln 2 のエネルギーが熱として放出される。情報は物質やエネルギーと同じように、物理法則に従う存在だということになる。

因果ループの中の情報は、この物理学的な直感と衝突する。ループの中を循環する楽譜は、いつ物理的に「生成」されたのか。エントロピー増大の法則は、閉じた系では秩序が減少していくことを要請する。しかし因果ループの中では、楽譜は永遠に劣化もせず消滅もしない状態で回り続けているように見える。

一般相対性理論は、閉じた時間的曲線(CTC)の存在を原理的に排除しない。1949年にクルト・ゲーデルが示した回転宇宙モデルでは、時間が閉じたループを描く経路が数学的に許容される。物理学は、因果ループを明確に禁止していない。ただし現実の宇宙がゲーデルの回転宇宙のように振る舞っている証拠もない。

物理学もまた、沈黙しているのかもしれない。

すべてのものには理由がある、はずだった

ゴットフリート・ライプニッツは充足理由律を掲げた。「存在するすべてのものには、それが存在する十分な理由がある」。なぜ世界は何もないのではなく、あるのか。この問いに対してライプニッツは、すべてのものにはその存在を説明する根拠が必ずあると主張した。

ブートストラップ・パラドックスは、この原理への静かな反乱だ。因果ループの中の楽譜には、それが存在する理由がない。あるいはより正確に言えば、理由は「自分自身」だ。自分が自分の存在理由であるとき、充足理由律は何を言えるのか。

なぜ何かがあるのかというライプニッツ以来の問いと、ブートストラップ・パラドックスは奇妙に共鳴する。存在に「外部」の理由がないなら、存在は自分自身を支えているのかもしれない。そしてそれは、「無から有が生じた」のとどう違うのか。

因果関係には「始まり」が必要だという私たちの直感は、じつはかなり特殊な前提に支えられている。時間が一方向に流れ、原因が結果に先行し、すべてのものには起源があるという前提だ。未来がまだ決まっていないという感覚すら、この前提の上に成り立っている。ブートストラップ・パラドックスはこの前提の足元を掘り、何が下にあるか覗き込む。下には何もないかもしれない。

自由意志は因果ループの中で生き延びるか

因果ループが成立する世界では、未来がすでに確定している必要があるかもしれない。スタンフォード哲学百科事典の「逆行因果」の項目が指摘するように、逆行因果が概念的に可能であるためには、未来が過去や現在と同じように「実在」していなければならない。いわゆる永久主義(エターナリズム)、あるいはブロック宇宙論と呼ばれる時間観だ。

未来がすでにそこにあるのだとすれば、私たちが何かを「選んでいる」という感覚は何なのか。ルイスの議論を受けて、永久主義者は反論する。未来が「確定的」(determinate)であることと、未来が「決定されている」(determined)ことは違う、と。あなたが明日何を選ぶかは、今日の時点ですでに真か偽かのどちらかだ。しかしそれは、あなたの選択が何かの原因によって強制されていることを意味しない。あなたの選択そのものが、今日の真偽を決めているのだと。

この区別は一見エレガントに見える。しかし因果ループの内部では、この区別すら揺らぐ。ループの中にいる者は、何かを「選んだ」のか、それとも「選ばされた」のか。原因と結果がぐるぐる回っている世界で、行為者の意思はどこに位置するのか。

Johnny B. Goode はいつ書かれたか

映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)には有名なシーンがある。マーティ・マクフライが1955年のダンスパーティーで "Johnny B. Goode" を演奏する。それを電話越しに聴いたチャック・ベリーの従兄弟が、ベリーにその曲を伝える。ベリーはそれを自分の曲として発表する。この曲の起源は、どこにもない。

映画『インターステラー』(2014)では、未来の人類が五次元空間を構築し、過去の主人公にメッセージを送る。そのメッセージのおかげで人類は生き延び、やがて五次元空間を構築する技術を手にする。人類の存続そのものが因果ループの中にある。

こうした物語が魅力的なのは、「鶏が先か卵が先か」という古い問いの時間旅行版だからだろう。しかしブートストラップ・パラドックスは、鶏と卵の問いよりも根源的だ。鶏と卵のどちらかには、進化という外部の説明がある。因果ループにはそれがない。

文化における影響関係もまた、しばしば循環する。ある芸術家が別の芸術家に影響を与え、その影響がまた別の経路を通じて最初の芸術家に戻ってくる。「誰がオリジナルか」という問いには、しばしば答えがない。アキレスが亀に追いつけないように、起源を追いかけても永遠にたどり着かない場合がある。

始まりのない因果に私たちは耐えられるか

ブートストラップ・パラドックスが突きつけているのは、因果の問題であると同時に、存在の問題でもある。私たちは、あらゆるものに「始まり」を求める。物語には起承転結を、人生には出生という起点を、宇宙にはビッグバンという開始を。自分が何者であるかを問うとき、私たちはまず記憶をたどり、「どこから来たのか」を探す。

しかし、もし因果そのものがループしているなら、「どこから来たのか」という問いは意味を失う。問いそのものが前提としている時間の構造が、崩れている。やり直しを夢見るとき、私たちは直線的な時間を暗黙のうちに前提にしている。もう一度「最初から」やれるという発想自体が、始まりの存在を信じている。ブートストラップ・パラドックスは、始まりなど最初からなかったのかもしれないと囁く。


楽譜は回り続ける。誰も書いていない曲が演奏され、拍手が起き、録音され、未来へ運ばれ、過去へ届けられる。円環は閉じている。起源を問う者は、問いそのものがループの内側にいることに気づかない。

始まりを探す行為自体が、始まりがないことの証拠なのかもしれない。あるいは、こう言い換えてもいい。あなたが今この文章を読んでいる理由にも、起源はないのかもしれない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu