あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚本の上で踊っているだけだった

あなたの幸福は、最初から汚れている。

これは道徳の話ではない。宗教の話でもない。ただの観察だ。今この瞬間、どこかで誰かが苦しんでいる。それを知っていて、それでも「自分は幸せだ」と言える構造のことを、ここでは幸福と呼ぶ。

幸福は常に誰かの犠牲の上に成り立っている、と主張したいわけではない。もっと手前の話だ。幸福という状態そのものが、他者の存在なしには定義すらできない。そして、その事実がどこまで行っても振り払えない。

この話には結論がない。結論を出せるような問いではないから。

地下室の子ども

アーシュラ・K・ル=グウィンが1973年に発表した短編「オメラスから歩み去る人々」は、ある思考実験の形をとっている。

オメラスという街がある。美しく、豊かで、住民は皆幸福に暮らしている。ただしひとつだけ条件がある。街のどこかの地下室に、一人の子どもが閉じ込められている。その子どもが苦しみ続ける限りにおいて、街全体の繁栄は維持される。住民はその事実を知っている。知った上で、日々を送っている。

この設定は功利主義への問いとして読まれることが多い。ジェレミー・ベンサムが18世紀末に体系化した思想は、「最大多数の最大幸福」を行為の基準とする。全体の幸福の総量が最大化されるなら、一人の犠牲は許容されるのか。ル=グウィンはその問いに答えを与えない。代わりに、街を静かに去っていく人々の後ろ姿を描く。

気になるのは、去る人々よりも、残る人々のほうだ。

子どもの存在を知りながら暮らし続ける人々。彼らは不道徳なのだろうか。それとも、それが幸福の正常な姿なのだろうか。この問いを寓話の外に連れ出すと、急に居心地が悪くなる。今あなたが手にしている快適さは、見えない誰かの犠牲と無関係だと言い切れるだろうか。コーヒー一杯の裏側。シャツ一枚の製造工程。スマートフォン一台の鉱物資源。サプライチェーンのどこかに地下室がないと、なぜ確信できる。

オメラスは寓話ではない。構造の記述だ。(この構造を道徳的距離の視点から掘り下げたのが「あなたはもうボタンを押している」だ。)

そしてあなたは、その街の住民だ。

あなたの欲望は借り物

幸福が他者の犠牲と切り離せないとして、では、幸福の中身そのものはどうだろう。あなたが「欲しい」と感じているもの。それは本当に、あなた自身から湧いた欲望だろうか。

ルネ・ジラールは「模倣欲望(désir mimétique)」という概念を提示した。人間の欲望は自発的に発生するのではなく、他者の欲望を無意識に模倣することで生まれる。そこには三つの項がある。主体、モデル、そして対象。主体はモデルが欲しがるものを欲しがる。対象そのものに固有の価値があるからではなく、誰かがそれを欲しがっているから欲しくなる。

広告を思い浮かべればわかりやすい。商品のスペックだけでは人は動かない。誰かがそれを手にして満ち足りた顔をしている。その映像を見て、「自分もあれが欲しい」と感じる。自分の内側から自然に湧いた欲望だと思い込む。しかし起点はいつも、他者の欲望だ。

不気味なのは、この回路が自覚されにくいということだ。自分の欲望が模倣であることに気づかないまま、「これこそ本当に欲しかったものだ」と信じ込む。その欲望が満たされたときに感じる充足を、人は幸福と呼ぶ。

もし欲望の出発点が他者にあるなら、その充足は、いったい誰の幸福なのか。

あなたが幸せだと感じているとき、その幸福の脚本を書いたのは、あなたではないかもしれない。(欲望と労働の関係については「お金がなくなっても何も解決しない」も参照。)

終わらない比較

模倣欲望が可視化される場所がある。SNSのタイムラインだ。

友人の旅行写真。同僚の昇進報告。知人の結婚式。画面をスクロールするたびに、他者の幸福の断片が積み上がっていく。

人間が他者との比較を通じて自己を評価する傾向は、社会心理学で「社会的比較」と呼ばれている。レオン・フェスティンガーが1954年に提唱したこの理論によれば、能力や意見を評価する客観的基準がないとき、人は周囲の他者を基準にする。それ自体は自然な認知のはたらきだ。

問題は、SNSがこの比較を際限なく加速させたことにある。

2010年代以降、ソーシャルメディアの利用と精神的健康の関連を調べた研究は膨大な数にのぼる。複数のメタ分析が示すのは、SNSの受動的な利用、つまり自ら発信するのではなく他者の投稿を眺めるだけの利用が、抑うつや不安の症状と関連しているということだ。ただし、両者の因果関係は確定していない。不幸だからSNSを見るのか、SNSを見るから不幸になるのか。おそらくその両方が、ゆるやかに絡まり合っている。

確実に言えるのは、他者の幸福の断片を無限に映し出す装置が、今あなたのポケットの中にあるということ。そして、それが自分を削っていると薄々感じながら、なお画面を開いてしまうということ。

あなたが「幸せになりたい」と願うとき、その「幸せ」のイメージは、タイムラインの誰かから借りてきたものではないだろうか。(幸福の追求そのものが孕む矛盾については「追いついた瞬間に消えるものを、それでも走って追いかけるしかないあなたへ」で書いた。)

孤独は逃げ場にならない

ここまで読んで、ひとつの脱出口を思いつくかもしれない。他者との比較が幸福を汚染するなら、いっそ一人でいればいいのではないか。

残念ながら、孤独は救済にはならない。

社会的なつながりの欠如が心身の健康に悪影響を及ぼすことは、多くの研究が繰り返し確認してきた。孤独は静かな避難所ではなく、別の種類の袋小路だ。

しかし、もっと根本的な疑問がある。もし一人きりで完全に幸福でいられるなら、そもそもなぜ人は他者を求めるのか。求めなくていいはずなのに、求めてしまう。その衝動は、幸福を他者なしには構成できないことの傍証ではないか。

他者は幸福を歪め、比較を強い、欲望を汚染する。それでいて、他者なしには幸福が立ち上がらない

この矛盾は解消されない。解消されないまま、人間の条件として居座り続ける。逃げ場は、他者の中にも、孤独の中にもない。

他人の笑顔が許せない

もっとも言語化しにくい感覚に触れる。

嫌いな人が幸せそうにしていると、不快になる。自分に実害があるわけではない。利害関係がなくても、なぜか腹が立つ。

他者の不幸を喜ぶ感情をドイツ語でSchadenfreude(シャーデンフロイデ)と呼ぶ。では、その裏返しはどうだろう。他者の幸福に苦しみを感じること。こちらには定着した名前すらない。名前がないくせに、誰もが知っている感覚だ。

ここに潜んでいるのは、幸福がゼロサムゲームであるという根深い直感だ。誰かが幸せを手に入れると、自分の取り分が減るような気がする。論理的にはそうではない。しかし、感情は論理の管轄外で動いている。

友人の成功を心から祝えなかった夜を、あなたも一度は経験しているだろう。そのとき感じた薄暗い後ろめたさは、嫉妬の一語では収まらない。もっと根の深い、幸福の構造そのものに対する違和感だ。(他者の感情に蝕まれる構造は「優しい人から壊れる」で別の角度から書いた。)

自分が幸福であるために他者が必要で、他者の幸福が自分を蝕み、他者がいなければ幸福になれず、他者がいても幸福になれない。

この円環から降りることは、たぶん、できない。

壊れた計算式

ベンサムは幸福を計量しようとした。快楽と苦痛を量として測り、その総量が最大になる選択が正しいと。この発想は近代社会の制度設計に深く根を下ろしている。政策の費用対効果分析。GDP。「世界幸福度ランキング」。(ベンサムの量的計算をミルが質の概念で切り崩した顛末は「考えなければよかったのに、もう手遅れだと気づいたところで何も変わらない」で辿った。)

しかし、ここまで辿ってきた道を振り返ると、幸福は計算に乗るような代物ではないことが見えてくる。

他者の犠牲は勘定に入れるのか。模倣された欲望の充足を「幸福」と数えてよいのか。比較によって乱高下する相対値を、どの時点で切り取って測定するのか。そもそも、測る主体の「幸福」が他者によって規定されているなら、その測定にどんな意味がある。

幸福を定義しようとするたびに、定義は手のひらからこぼれ落ちる。他者を含めれば自分の輪郭が消え、自分だけに閉じれば幸福の輪郭が消える。

幸福について考えること自体が、幸福を遠ざけているのかもしれない。でも、考えずにいられるほど、この問いは軽くない。

あなたの幸福は存在するか

ここまで読んで、何かしらの答えを期待していたなら、残念だが、ない。

あなたの幸福は他者なしには成立しない。しかし他者がいる限り、純粋にあなただけのものにはならない。あなたの欲望は他者の模倣かもしれない。あなたの満足は、見知らぬ誰かの犠牲の上に浮かんでいるかもしれない。あなたの幸福のイメージは、タイムラインの中で際限なく書き換えられ続ける。

それでも明日、あなたはたぶん「幸せだ」と口にする。その言葉が本当は何を意味しているのか、正確にはわからないまま。

もしかすると、それが幸福にもっとも近い状態なのかもしれない。考えないこと。問わないこと。地下室の扉を開けないこと

でも、あなたはもう読んでしまった。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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