何でもいい

あなたが最後に「何でもいい」と言ったのは、いつだっただろう。

レストランで。カフェで。Netflixの画面の前で。誰かに「どっちがいい?」と聞かれて、少し考えて、考えることをやめて、「何でもいい」と言った。

あれは怠惰だっただろうか。無関心だっただろうか。

もしかすると、あれが一番正直な答えだったのかもしれない。

ロバは正しかった

600年以上語り継がれている思考実験がある。

完全に同じ量の、完全に同じ質の干し草の山が、完全に等しい距離に二つ置かれている。その真ん中に一頭のロバが立っている。ロバは空腹だ。どちらの干し草を食べてもいい。だが、どちらを選ぶ理由もない。条件がまったく同じだからだ。

ロバは選べない。そして、餓死する。

「ビュリダンのロバ」と呼ばれるこの寓話は、14世紀フランスの哲学者ジャン・ビュリダンの名を冠しているが、ビュリダン本人がロバについて書いたわけではない。似た着想はアリストテレスの『天体論』にまで遡ることができる。哲学の世界では、考えを生んだ人と名前を残した人は、しばしば別人だ。

それはさておき、このロバはばかげているように見える。どちらでもいいから片方を食べればいいじゃないか、と思う。

だがロバの立場に立ってみると、話はそう単純ではない。「どちらでもいいから片方を選ぶ」ためには、どちらでもよくないと思える何かが必要だ。右の干し草に口を伸ばすには、右を選ぶ何らかの理由が要る。左ではなく右である根拠が、ほんのわずかでも。

もしその根拠がどこにもなかったら?

ロバは動けない。それは愚かだからではなく、あまりにも誠実だからだ。

理由という名の虚構

ゴットフリート・ライプニッツは近世を代表する哲学者の一人だが、一つのとても強い原理を立てた。充足理由律。いかなる事実も、それがそうであってそうでないのではない十分な理由なしには成り立たない、という原理だ。

すべてに理由がある。理由のないことは起こらない。

この原理を愚直に適用すれば、ビュリダンのロバは必然的に餓死する。二つの干し草が完全に等しいなら、一方を選ぶ「十分な理由」は存在しない。理由がなければ行為は生じない。行為が生じなければ、ロバは干し草にたどりつけない。

ここまでは論理の話だ。だが、これを自分自身に向けると、途端に居心地が悪くなる。

今朝、右の靴から履いた。なぜ右からだったのか。コンビニで棚の手前にあった水を取った。奥のほうが冷えていたかもしれないのに。スマートフォンを開いて、何となくあのアプリを先にタップした。

それらの行為に、十分な理由はあっただろうか。

おそらく、ない。

だとすれば、私たちは毎日、理由なしに選んでいる。ロバにはできなかったことを、息をするようにやっている。

それはロバよりましだということなのか。それとも、理由がなくても動けてしまうことのほうが、もっと不思議で、もっと不気味なことなのか。もっとも、誰も何も選んでいないのだとしたら、動けることの不気味さすら問題にならなくなるのだけれど。

世界は最初から傾いている

反論はすぐに思いつく。現実には、完全に等しい二つの選択肢など存在しない、と。

そのとおりだ。干し草の一方がほんの少し大きかったかもしれない。風がどちらかの匂いを運んだかもしれない。ロバの首がわずかに左に傾いていたかもしれない。

物理学では、完全な対称がごく微小な揺らぎによって崩れることを「対称性の自発的破れ」と呼ぶ。宇宙の大規模構造そのものが、こうした微小な非対称性から生まれたとされている。

私たちの選択も似たようなものかもしれない。「自分で選んだ」と思っているものの多くは、自分では知覚できないほど小さな偏りに、ただ反応しているだけなのかもしれない。部屋の温度。直前に見た広告。血糖値。そのとき腸が何を消化していたか。

だとすると、「選んだ」と「流された」の境界線は、どこにあるのだろう。

あるいは、そもそもそんな境界線は、はじめから引かれていなかったのではないか。人生に筋書きがないのだとすれば、「選んだ」も「流された」も、後から貼られたラベルにすぎない。

自由すぎるという苦痛

2004年、心理学者バリー・シュワルツは著書『選択のパラドックス』のなかで、選択肢が増えるほど人間の満足度は下がり、意思決定そのものが苦痛になることを論じた。

直感に反する話だ。選択肢が多ければ、自分にぴったりのものが見つかるはずだ。自由であればあるほど幸福に近づくはずだ。そう考えるのが自然だろう。

だが現実はそうならない。選択肢が増えると比較が増え、比較が増えると後悔が増える。「あちらにしておけば」という想像が、すでに手にしたものの価値を少しずつ削っていく。

ビュリダンのロバの前にあった干し草は二つだった。現代人の前には数えきれないほどの干し草が並んでいる。そして私たちは、ロバと同じように立ち尽くしている。干し草が二つでも二百でも、どう選んでも間違うのだとすれば、数はたいした問題ではない。

ただし、ロバは潔かった。選べないから動かなかった。

私たちは選んでおきながら、選ばなかった方を気にしている。自由であることそのものが鎖のない牢獄であるなら、どちらが苦しいだろう。

コインの誠実さ

選べないなら、コインを投げればいい。実際にそうする人は少なくない。

だがそれは「選んだ」と言えるのだろうか。ランダムに委ねることは自由意志の行使なのか、それとも明け渡しなのか。

面白いことがある。コインを投げて表が出た瞬間に、がっかりすることがある。自分は裏を望んでいたのだと、そこではじめて気づく。コインは選択を代行してなどいない。自分でも気づかなかった偏りを、表面に引きずり出しているだけだ。

では、がっかりしなかったら?

本当にどちらでもよくて、コインが決めた結果をそのまま受け入れたとしたら。そのとき、コインが選んだことと自分が選んだことの間に、どんな違いがあるだろう。

機械のなかの意志

AIに完全に等しい二つの選択肢を与えたら、どうなるか。

技術的には単純な話だ。実装の内側では、乱数のシードと呼ばれる初期値がどこかの時点で与えられていて、その値に基づいて出力が決まる。「選択」はされる。だが、そこに判断と呼べるものはない。

それは選択ではない、と言いたくなる。機械はただ計算しているだけだ、と。

だがここで立ち止まる。先ほどの話を思い出す。私たちの選択だって、環境の微小な非対称性への無意識的な反応かもしれないのだ。ニューロンの発火パターン。ホルモンの濃度。直前の記憶の残響。

機械が乱数に従うことと、人間が無意識の偏りに従うことの間に、本質的な差はあるのだろうか。

あるとすれば、それは何だろう。

ないとすれば、「意志」という言葉は、いったい何を指していたのだろう。意志がどこにもないのなら、何が起きても誰のせいでもない

何でもいいよ

レストランで「何でもいいよ」と言う人のことを、私たちは優柔不断だと笑う。

だが600年前のロバと、さっき「何でもいいよ」と言ったあなたの間にある違いは、思っているほど大きくない。ロバは理由がないから動けなかった。あなたは理由がないのに動けた。ただそれだけの違いだ。

どちらがましかは、正直なところ、わからない。

理由があると信じて選ぶのと、理由がないと知りながら選ぶのと、理由がないから選ばないのと。この三つのうち、一番誠実なのはどれだろう。

答えはない。もちろん。

あったら、ロバは600年前にとっくに歩き出している。


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