偶然はどこにもない

あなたがこの文章を読んでいるのは偶然だ。あなたが生まれたのも偶然だ。あなたの両親が出会ったのも偶然で、その両親の両親もそうで、どこまで遡っても偶然しか見つからない。

それなのに人は、偶然の連鎖を後から振り返って「運命だった」と語り直す。でも、人生に筋書きはない

もっと厄介な問いがある。偶然が「ある」とは、一体どういうことなのか。

必然の影で

哲学の歴史において、偶然はつねに必然の残り物として扱われてきた。

アリストテレスは「偶然(テュケー)」と「自発性(アウトマトン)」を区別したが、どちらも副次的なものだった。本来の原因があり、それが逸れたとき、結果として偶然が生じる。偶然それ自体には存在論的な地位がない。何かが起きた「理由」が見つからないとき、そこに貼られるラベルにすぎない。

スピノザはもっと端的だった。自然のうちには偶然的なものは何もなく、すべては神の本性の必然性から一定の仕方で存在し作用するように決定されている(『エチカ』第一部定理二九)。偶然とは、人間の知性の限界が生み出す幻影にすぎない。知れば知るほど必然が見え、偶然は消える。

ライプニッツの「充足理由律」も同じ方向を指す。存在するものにはすべて十分な理由がある。理由のない出来事は存在しない。つまり、偶然とは「まだ理由が見つかっていない」ことの別名でしかない。

こうして西洋哲学の主流は、偶然を体系的に追放してきた。偶然は説明の失敗であり、無知の告白であり、やがて科学が埋めるはずの空白だった。

しかし、その空白は埋まらなかった。

原子がそれた

紀元前三世紀、エピクロスは奇妙なことを言った。原子はまっすぐ落下するが、「いつとも知れぬ時に、どことも知れぬ場所で」わずかにそれる、と。

このそれをラテン語でクリナメン(clinamen)と呼ぶ。ルクレティウスが『事物の本性について(De Rerum Natura)』のなかで伝えた概念で、エピクロス自身の著作にこの語は残っていない。

クリナメンは、原因を持たない。何かの力が作用してそれるのではない。原子がただ、そうする。理由なく。目的なく。

この「理由のないそれ」こそが、デモクリトスの厳格な決定論を壊すためにエピクロスが導入したものだった。もしすべての原子が永遠にまっすぐ落ちるなら、衝突は起きず、世界は生まれず、われわれは存在しない。そしてもっと重要なことに、自由意志もありえない。すべてが先行する原因の必然的な帰結だとすれば、誰も何も選んでいないことになる。

ルクレティウスはこう書いた。もしすべての運動がつねに連鎖し、新たな運動がつねに古い運動から厳密な順序で生じるなら、生きものが持つ「自由な意志(libera voluntas)」はどこから来るのか、と。

だからクリナメンは、自由の条件として導入された。偶然のそれが、必然の連鎖を断ち切る。

しかし、ここに奇妙な逆説がある。原因のないそれは、自由とも言いがたい。サイコロが勝手に転がることを、私たちは「自由」とは呼ばない。ランダムさと自由は、まったく別のものだ。

エピクロスは偶然を救おうとして、自由を宙に浮かせてしまったのかもしれない。

量子の亀裂

約二千三百年後、物理学がエピクロスの直感に奇妙な仕方で応答した。

1927年、ハイゼンベルクは不確定性原理を定式化した。粒子の位置と運動量を同時に正確に測定することは原理的に不可能である。これは測定器の精度の問題ではない。自然そのものが、そのように「ある」。

コペンハーゲン解釈に従えば、測定される前の粒子には確定した位置も運動量もない。波動関数が確率分布として広がっており、観測によって初めて一つの値に「収縮」する。放射性原子がいつ崩壊するかは、原理的に予測不可能だ。

ここで偶然は、もはや「無知のラベル」ではなくなる。何も確かではないというのは認識論の問題だが、量子力学が提示するのは存在論的な不確定性だ。世界の底に、原理的に知りえないランダムさがある。スピノザの「もっと知れば偶然は消える」は、ここでは通用しない。どれだけ知っても、偶然は消えない。

もちろん、異論はある。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と抵抗し、隠れた変数を探した。ボームの解釈は決定論的であり、エヴェレットの多世界解釈はすべての可能性が実現するという意味で偶然を消去する。量子力学をどう解釈するかによって、偶然の存在論的地位は揺れ動く。

しかし少なくとも標準的な解釈のもとでは、自然の最も深い層に偶然がある。原因なく、理由なく、ただ起きること。エピクロスのクリナメンが、二千三百年後に数式を手に入れたとまでは言い過ぎかもしれないが、構造的な類似は否定しがたい。

そして、クリナメンと同じ逆説がここにも顔を出す。量子レベルのランダムさは、自由意志の根拠にはならない。ニューロンの発火が量子的に不確定だったとしても、それは「あなたが選んだ」ことを意味しない。サイコロはやはりサイコロだ。

セレンディピティの嘘

「偶然の発見」を、人はセレンディピティと呼んで美化する。

ペニシリンはフレミングが培養皿を放置した「偶然」から発見された。ポストイットは接着剤の「失敗」から生まれた。こうした物語は、偶然に意味を与え、偶然を目的論的に回収する。つまり、偶然は「本当は偶然ではなかった」と語り直される。あの偶然があったから今がある、と。

でも、この語り直しには生存者バイアスがある。培養皿を放置して何も起きなかった無数の研究者は語られない。失敗した接着剤がただの失敗として廃棄された無数のケースは記録に残らない。偶然の発見とは、無数の偶然のなかから事後的に選別されたものにすぎない。

偶然の出会いも同じだ。あの人と出会ったのは偶然だった、と語るとき、出会わなかった無数の人との「偶然の不在」は忘れ去られている。偶然を偶然として受け止めることは、どうやら人間にはとても難しい。

なぜ難しいのか。おそらく、偶然をそのまま認めることは、自分の人生が交換可能であることを認めることに近いからだ。あなたが今ここにいることに理由がなく、別の誰かがここにいても何も変わらなかったかもしれないということ。私という凡庸は、偶然の上に成り立っている。

偶然の居場所

偶然は、結局どこにあるのか。

決定論が正しいなら、偶然は認識論的な幻影でしかない。すべてには原因があり、偶然に見えるのは原因を知らないだけだ。スピノザが正しかったことになる。

非決定論が正しいなら、偶然は存在論的に実在する。世界の底に、原因のない出来事がある。量子力学の標準的な解釈が示唆するように。

しかし、どちらの場合にも、偶然は人間の手からすり抜ける。決定論的な世界では偶然は存在せず、非決定論的な世界では偶然は制御できない。どちらにしても、私たちは偶然と「関わる」ことができない。

ハイデガーは人間の存在を「被投性(Geworfenheit)」と呼んだ。われわれは「投げ込まれた」のであって、自ら選んでここにいるわけではない。この被投性は、偶然のもっとも根源的な形かもしれない。あなたがあなたであること。この時代に、この場所に、この身体で存在していること。それは必然でも選択でもなく、ただそうだったとしか言いようがない。

偶然を正面から受け止めるとは、誰のせいでもないということを受け入れることであり、意味という病から一歩退くことでもある。偶然に意味を読み込まないこと。偶然を運命に翻訳しないこと。偶然を、ただ偶然として放っておくこと。

それが人間にできるかどうかは、わからない。


偶然は、説明されることを拒む。原因を持たず、理由を持たず、目的を持たない。それでいて、世界のすべてがその上に乗っている。

あなたが今日ここにいるのは偶然だ。明日もここにいるかどうかは、わからない。わからないということだけが、たぶん、確かだ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu