イヤホンを外さない世代の公共空間の歩き方
街を歩く人の耳を見てほしい。電車の中、大学のキャンパス、カフェ。かなりの確率で、小さな白い塊がそこにある。イヤホンは音楽を聴くための道具から、公共空間における「見えない壁」へと変わった。
境界線としてのイヤホン
イヤホンをしている人に話しかけるのは、どこか気が引ける。物理的には何の障壁もないのに、「今は話しかけないでほしい」というメッセージが、あの小さなデバイスから発されている。
これは音楽の問題ではない。実際、何も再生していなくてもイヤホンを装着している人は少なくない。音を聴くためではなく、外界との接触を制御するために使っている。パーソナルスペースを物理的に確保できない公共空間で、聴覚という回路だけを自分の管理下に置く。それが現代のイヤホンの役割になった。
ウォークマンが開いた扉
公共空間で個人的な音を聴くという行為は、1979年にソニーが初代ウォークマン(TPS-L2)を発売したときに始まった。当時も「電車の中でヘッドホンをするのは失礼だ」、「周囲の音が聞こえなくて危険だ」という批判はあった。しかし約半世紀を経て、その行為はもはや議論の対象ですらなくなった。イヤホンは服と同じように「身につけるもの」として定着し、外していることのほうが意識される場面すら出てきている。
透過モードという妥協点
完全ワイヤレスイヤホンの多くには、ノイズキャンセリングと透過モードの切り替え機能がある。ノイズキャンセリングは外界の音を消し、透過モードは外界の音をマイクで拾って再生する。
透過モードが興味深いのは、物理的には「聞こえている」状態を作りながら、心理的には「遮断している」という姿勢を保てることだ。レジで会計するとき、駅のアナウンスを聞くとき、透過モードに切り替える。必要な情報だけを受信し、不要な接触は避ける。公共空間との関わり方を、自分の指先で制御できるようになった。
聞こえているのに聞いていない
ここには、「なんとなく嫌」の分解で扱ったような微細な不快感の構造と似た問題がある。イヤホンをしている人は、相手の声が物理的に聞こえていても、「聞く態勢にない」ことを表明している。聞こえていることと聞いていることは別だ。
同時に、常にイヤホンをしている状態は、一種の習慣の固定化でもある。最初は意識的な選択だったものが、いつの間にか「外すと落ち着かない」ほどの依存に変わることがある。沈黙が怖いのではなく、外界からの入力を制御できない状態が怖い。
安全と公共性のあいだ
見過ごせない問題もある。イヤホン装着中の歩行者や自転車利用者が、周囲の音に気づかず事故に遭うケースは後を絶たない。多くの自治体が自転車運転中のイヤホン使用を条例で制限しているのは、この安全上のリスクが現実のものだからだ。
また、聴覚に障害のある人にとって、「イヤホンをしている=話しかけないでほしい」というルールが浸透することは、コミュニケーションの障壁になりうる。声をかける側が萎縮すれば、助けを必要としている人への声かけも減る。個人の快適さの追求が、公共空間のアクセシビリティを損なう可能性がある。
公共空間は誰のものか
イヤホンの問題は結局、「公共空間で他者とどう共存するか」という問いに行き着く。かつて公共空間とは、不特定多数の他者と感覚を共有する場所だった。同じ車内アナウンスを聞き、同じ雑踏の音に包まれる。その共有が前提だった。
しかし今、テクノロジーは個人ごとに聴覚環境をカスタマイズすることを可能にした。同じ電車に乗っていても、一人はポッドキャストを聴き、一人はノイズキャンセリングで無音の世界にいて、一人は透過モードで周囲の音をフィルタリングしている。物理的には同じ空間を共有しながら、聴覚的にはまったく異なる世界に存在している。
これを「公共性の喪失」と嘆くこともできるし、「個人の自律性の拡張」と評価することもできる。ただ、イヤホンを外すことがある種の決断を必要とする時代が来たこと自体が、公共空間の意味が変わりつつあることの証拠ではある。
まとめ
イヤホンは音楽再生の道具から、公共空間における個人の境界線を引く装置へと変わった。ウォークマンの登場から約半世紀、テクノロジーの進化は他者との距離を聴覚的にコントロールする手段を私たちに与えた。そのことは快適さをもたらすと同時に、安全や公共性という古くからある問いを、新しい形で突きつけている。