暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。

忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。

ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。

守られない時間

約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。

この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。

財布から一万円を抜き取られたら怒るのに、スマートフォンが一時間を抜き取っても何も感じない。金は数字として可視化されている。銀行の残高が減れば気づく。しかし時間には残高表示がない。減っていることに気づくのは、たいてい取り返しがつかなくなってからだ。

セネカに言わせれば、人生は短いのではない。多くを浪費しているのだ。短いと感じるのは量の問題ではなく、使い方の問題だ、と。

しかし、ここで問いは反転する。では「浪費していない時間」とは何か。何に使えば浪費でなくなるのか。生産的であること? 有意義であること? その基準は、誰が決めたのか。

六十日分の墓標

少し具体的な数字の話をする。

スマートフォンの平均的なスクリーンタイムが一日四時間だとしよう。控えめな見積もりだ。これを年に換算すると、365日かける4時間で1,460時間。日数にして約61日。まるまる二か月、あなたは画面を見つめている。

十年で610日。二十年で1,220日。三年以上の歳月を、手のひらサイズの長方形の前で過ごす計算になる。10年に値段をつけることはできなくても、三年分はすでに画面に差し出している。

この数字を見て何を感じるかは人による。衝撃を受ける人もいれば、肩をすくめる人もいるだろう。どちらの反応も、実はこの問いの核心に触れている。

衝撃を受けるのは、その時間を「もっと良いこと」に使えたはずだと感じるからだ。しかし、その「もっと良いこと」が何かと問われると、途端に言葉が詰まる。肩をすくめるのは、別にそれで困っていないという感覚があるからだ。しかし、困っていないことと、それでいいことは違う。

問題は、この六十日をどう使うべきだったかではない。六十日が消えたことに気づかなかったこと、そのものだ。

静かな部屋に座れるか

十七世紀フランスの思想家パスカルは、その断章集『パンセ』にこう記した。人間の不幸はすべて、ただ一つのことに由来する。部屋の中で静かに座っていられないことだ、と。

これは比喩ではない。ほとんど文字通りの意味だ。

何もせず、何も見ず、何も聞かず、ただ座っている。それだけのことが、驚くほど難しい。試しに、スマートフォンを別の部屋に置いて、本もなく音楽もなく、三十分間椅子に座ってみるといい。五分も経たないうちに、何かを手に取りたくなる。

パスカルの時代にスマートフォンはなかった。動画配信もSNSもなかった。それでも人は座っていられなかった。つまり、テクノロジーが退屈を発明したのではない。退屈は最初からそこにあった。テクノロジーは、退屈から逃げる手段を増やしただけだ。

では、退屈の正体は何か。

静かな部屋に座ると、外からの刺激が消える。すると内側から何かが浮かび上がってくる。自分が本当は何をしたいのかわからないという不安。誰にも頼まれていないのに、なぜここに座っているのかわからないという居心地の悪さ。自分は何者なのかという、答えの出ない問い。

退屈は空白ではない。空白のふりをした鏡だ。何も映っていないのが怖いのではなく、何が映るかわからないのが怖い。

生産性という信仰

1932年、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは『怠惰への讃歌』というエッセイを書いた。タイトルからして挑発的だが、中身はもっと挑発的だ。

ラッセルの主張はこうだ。「労働は美徳である」という信念こそが現代社会の多くの害悪の根源であり、労働が公平に分配されれば一人あたりの労働時間は大幅に短縮できる。余った時間で人々は芸術や科学を楽しみ、もっと幸福になれるはずだ、と。

この主張は、発表から約一世紀が経った今も実現していない。実現していないどころか、生産性への信仰はむしろ強まっている。効率化のためのアプリを入れ、タスク管理の方法論を学び、朝五時に起きるルーティンを組む。生産的でなければならないという強迫が、また新たな忙しさを生んでいる。

政治思想家のハンナ・アーレントは、著書『人間の条件』で人間の営みを三つに区別した。身体の維持のために繰り返される「労働」。持続する何かを作り出す「仕事」。そして他者とともに新しい意味を生み出す「活動」。

この区別で一日の中身を仕分けてみると、景色が変わる。食事の支度、移動、掃除、返信。これらは「労働」だ。必要だが、終わった瞬間に消費される。何も起きなかった日として、記憶にも残らない。では、その残りの時間で何をしているか。持続する何かを作っているか。それとも、また次の「労働」を待っているだけか。

忙しいのではなく、ただ回っているだけだ。転がり落ちる岩をまた押し上げているだけだ。そしてそのことに気づかないのは、回転している最中には遠心力で外が見えないからだ。

何もしないという罪

ここで思考実験をしてみる。

明日から毎日、一時間だけ「何もしてはいけない時間」が強制される。スマートフォンに触れてはいけない。本を読んでもいけない。音楽を聴いてもいけない。ただ座っているか、歩くか、窓の外を見るか。

一週間、耐えられるだろうか。

おそらく最初の数日は苦痛だ。何もしないことへの罪悪感。何か生産的なことをしていなければ自分には価値がないという、根拠のない、しかし根深い信念。ラッセルが百年前に批判した「労働は美徳」の信仰が、身体の奥に染みついていることに気づく。

しかし、仮に一週間を乗り越えたとする。何が起こるか。

おそらく、最初に気づくのは、自分がいかに「反応」だけで日々を過ごしていたかということだ。通知が来たら開く。メッセージが来たら返す。タスクが降ってきたら処理する。自分から始めたものなど、ほとんどない。外部の刺激に応答し続けていただけだ。もっとも、誰も何も選んでいないのだとしたら、「自分から始める」という概念自体が手の込んだ幻想なのかもしれないが。

次に気づくのは、退屈の底には何かがあるということだ。退屈を通り抜けると、忙しさの下に埋もれていた微かな声が聞こえてくるかもしれない。聞こえてこないかもしれない。聞こえなかったとしたら、それはそれで一つの発見だ。

空白を埋める動物

人はなぜ、空白を恐れるのか。

手帳の空白。予定のない週末。会話の沈黙。部屋の静けさ。ただそこに何もないだけのことだ。しかし人はそれに耐えられず、何かで埋めようとする。予定を入れる。音を流す。画面を見る。埋まっていさえすれば安心する。

もし仮に、すべての人間に正確に同じ寿命が与えられていたらどうだろう。ちょうど80年。一秒の誤差もなく。そうなったとき、「時間を無駄にする」という言い方は成り立つだろうか。

「無駄」という概念は、もっと良い使い方があったはずだという前提に依存している。しかし「もっと良い使い方」が存在するためには、時間が足りないという焦りが必要だ。残り時間が確定していたら、焦りの構造そのものが変わる。あるいは、変わらないのかもしれない。どうせ死ぬ。80年とわかっていても、人はやはり空白を埋め続けるのかもしれない。

だとしたら、忙しさの原因は時間の不足ではない。空白への恐怖だ。何もない場所に、自分がむき出しで立たされることへの恐怖だ。空白を覗き込むたびに意味を求める病が疼く。

セネカは時間を守れと言った。パスカルは座っていろと言った。ラッセルは怠けろと言った。二千年分の知恵が声を揃えて同じことを言っている。それでも人は忙しくし続ける。

さて。

今この文章を読み終えたあなたは、きっとこの後すぐ何か別のものを開く。別のタブ、別のアプリ、別の通知。この数分の読書体験は、年末に集計される六十日のうちのほんの一部になる。

そしてそのことに、明日にはもう気づかない。


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