緑がずっと緑である保証はない

エメラルドは緑だ。これまでずっと緑だった。だから明日も緑だろう。

その「だから」の根拠を、あなたは説明できない。もしできると思ったなら、ネルソン・グッドマンの名前を覚えておいたほうがいい。1955年に彼が書いた数十ページが、帰納法という人類最大の知的習慣の足元に、修復不能な亀裂を入れた。

エメラルドの裏切り

話はシンプルだ。

あなたは1000個のエメラルドを観察した。すべて緑だった。そこから「すべてのエメラルドは緑である」と帰納する。合理的に見える。

グッドマンは「grue(グルー)」という述語を発明した。定義はこうだ。ある時点tより前に観察されたものは緑で、tより後に観察されたものは青。この述語のもとでは、あなたがこれまで見た1000個のエメラルドは、すべてグルーでもある。tより前に観察され、すべて緑だったのだから。

問題が生じる。同じ証拠が、「すべてのエメラルドは緑である」と「すべてのエメラルドはグルーである」を等しく支持している。前者が正しければ明日のエメラルドも緑だが、後者が正しければ明日のエメラルドは青い。帰納法は両方を同じ力で推している。しかし両方が正しいことはありえない。

帰納法は、いったい何を根拠にしているのか。

帰納の二度目の死

帰納法の限界を最初に突いたのはデイヴィッド・ヒュームだった。18世紀。太陽がこれまで毎日昇ったからといって、明日も昇る保証はない。過去から未来への推論には論理的な必然性がない。これがヒュームの「帰納の問題」だ。

グッドマンの問題は、そのヒュームよりも一段深い場所にある。

ヒュームの問いは「帰納法はなぜ正当化されるか」だった。グッドマンの問いは「帰納法が正当化されるとして、それはどの仮説を支持しているのか」だ。たとえ帰納法を全面的に信頼したとしても、同じ証拠から導かれる仮説は無数にある。「緑」も「グルー」も、観察データとは完全に整合する。帰納法は仮説を一つに絞ってくれない。

何も確かではないのだとしたら、その不確かさは知識の正当化だけでなく、知識の内容そのものにまで及んでいる。何を知っているかだけでなく、知っていると思っているものが実は何なのかも、確定しない。

「自然な言葉」という幻想

ここで直感的な反論が浮かぶ。「グルー」は不自然だ。人工的だ。時間的条件を含んだ奇妙な述語だ。「緑」のほうが自然で、シンプルで、正当な述語だ、と。

グッドマンはこの直感を正面から破壊した。

「グルー」と「ブリーン(bleen)」を基本述語として受け入れる話者を想像する。ブリーンとは、tより前に観察されたものは青で、tより後に観察されたものは緑。この話者にとっては「グルー」と「ブリーン」が基本的で自然な述語だ。

その話者の目から見ると、「緑」こそが奇妙な述語になる。なぜなら「緑」は「tより前に観察されたものはグルーで、tより後に観察されたものはブリーン」と定義されるからだ。時間的条件を含んだ二つの述語の継ぎ接ぎ。不自然で人工的なのは「緑」のほうだ。

どちらの立場が正しいかを、述語の構造だけから決めることはできない。「自然さ」の判定は、常にある言語体系の内部からのものでしかない。外側から眺める中立的な視点は存在しない。

あなたには何も見えていない。知覚がすでに世界を切り分けている。「緑」という知覚カテゴリが自然に見えるのは、あなたの感覚器官と言語がそう区切っているからであって、世界がそう区切られているからではない。

慣習に逃げる

グッドマン自身は一つの解決策を提示した。「定着(entrenchment)」の概念だ。

ある述語が過去に繰り返し使われてきたなら、その述語は「定着している」。定着した述語だけが帰納的に投射可能(projectible)だとグッドマンは論じた。「緑」は長い歴史の中で使われ続けてきた。「グルー」は昨日発明された。だから「緑」のほうが投射可能だ、と。

しかし、これは「みんなが使ってきたから正しい」と言っているにすぎない。慣習への依拠だ。なぜ慣習が信頼に値するのかという問いには答えていない。もし人類がたまたま別の述語体系を使い始めていたら、その別の体系が「定着」し、投射可能になっていたはずだ。

全員が正しい世界では、正しさの基準もまた慣習の産物でしかないのかもしれない。どの述語が「自然」で、どの仮説が「合理的」かは、結局のところ、たまたまそう語り継がれてきたという事実以上の根拠を持たない。

パラダイムの色が変わるとき

トーマス・クーンは1962年の『科学革命の構造』で、科学のパラダイムシフトを記述した。天動説から地動説へ。ニュートン力学から相対性理論へ。それぞれの転換は、世界の見え方そのものの変容だった。

グルーのパラドックスの視点から見れば、パラダイムシフトとは述語の切り替えにほかならない。昨日まで「緑」だったものが、明日から「グルー」になる。昨日まで有効だったカテゴリが、明日には不適切になる。

フロギストン(燃素)という述語で世界を記述していた化学者たちは、酸素という新しい述語が現れたとき、すべてのデータを読み直す必要があった。同じ実験、同じ観察、同じ炎。しかし述語が変わった瞬間、そこに見えるものが変わった。

科学は帰納法に依存している。そしてグッドマンが示したのは、帰納法がどの仮説を支持しているのかが、原理的に確定しないということだ。今日の科学が正しいと信じている法則は、明日の述語体系のもとでは、まったく別の仮説と同じ証拠を共有しているかもしれない。

終わらない議論の果てに立つということ。グッドマンのパラドックスは1955年に提出されて以来、70年が経っても決着していない。哲学の問いがそうであるように、この問いもまた、解かれるためではなく、私たちの足元を掘り崩すために存在しているのかもしれない。

七面鳥の最後の朝

バートランド・ラッセルが語り、ナシーム・ニコラス・タレブが広めた寓話がある。

毎朝、農場主が餌をくれる。七面鳥は1日目に餌をもらい、2日目にも餌をもらい、100日目にも餌をもらう。帰納法に忠実な七面鳥は、「明日も餌がもらえる」と推論する。しかし101日目は感謝祭の前日で、七面鳥は殺される。

七面鳥の帰納法は間違っていたのか。厳密に言えば、間違っていなかった。「毎日餌がもらえる」という仮説と、「100日間は餌がもらえるが、101日目には殺される」という仮説を、100日間の観察は等しく支持していた。七面鳥はたまたま前者を選んだだけだ。後者を選ばなかった理由は、論理にはない。

人生に筋書きはない。過去のパターンが未来を保証するという信念は、七面鳥と人間に共通する幻想だ。金融市場で「過去20年間上がり続けた株」を見て安心する投資家は、グルー的仮説の存在を忘れている。「2025年までは上がり、それ以降は下がる」という仮説も、同じデータと矛盾しない。

私たちは毎朝、世界が昨日と同じルールで動くと信じて目を開ける。その信頼には根拠がない。ただ、これまで裏切られなかったという事実があるだけだ。そしてその事実は、明日の保証にはならない。

言葉が世界を仕分ける

グッドマンのパラドックスが最終的に突きつけるのは、言語と世界の関係についての問いだ。

私たちは言葉で世界を分節する。「緑」と「青」は、光の連続的なスペクトラムに人間が引いた境界線だ。線はどこにもなかったのだとすれば、「緑」という述語そのものが恣意的な切断だ。そしてグッドマンは、その恣意性が色の境界だけでなく、述語の時間的構造にまで及ぶことを示した。

W.V.O.クワインは1969年の論文「Natural Kinds」で、グッドマンの問題を「類似性」の問題として再定式化した。何と何が「似ている」かは、自然に決まっているのか。それとも、言語と慣習が決めているのか。もし後者なら、科学の基盤にある「自然の斉一性」という前提そのものが、人間の投影にすぎないことになる。

世界はそこで終わっている。言語の限界が世界の限界であるなら、述語の選択は世界の見え方の選択だ。グルー話者の世界とグリーン話者の世界は、物理的には同一でも、認識的にはまったく別の場所だ。そしてどちらがより正確に「現実」を写しているかを、外部から判定する方法は存在しない。

色は変わる

グッドマンのパラドックスに決定的な解決はない。

投射可能な述語を「自然な種類」に限定しようとする試みがある。しかし何が「自然な種類」かを決めるためには、すでに帰納法が必要だ。循環する。ベイズ主義的なアプローチで事前確率を導入しようとする試みがある。しかし事前確率の設定自体が、どの述語を「自然」と見なすかに依存する。やはり循環する。

あなたは明日も「緑」が緑であると信じるだろう。信じずに生きることはできない。毎朝コーヒーを淹れるとき、水の沸点が昨日と同じであることを確認したりはしない。確認しなくても生きていける。今のところは。

しかし、その信頼に根拠がないことを知ってしまった以上、知らなかった頃には戻れない。あなたの「明日も同じだろう」という期待は、論理に支えられているのではなく、習慣に支えられている。習慣が続く保証は、どこにもない。

エメラルドは明日も緑かもしれない。あるいは、あなたが「緑」と呼んでいるものが、最初から別の何かだったのかもしれない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

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