すべてを買えるようになった人々が引き換えにしたものの目録

資産が10億ドルを超えた人間の生活は、もはや「裕福」という言葉では捉えられない。金額の大きさそのものよりも、その金額が日常の判断構造をどこまで変形させるかに本質がある。億万長者が常軌を逸しているとすれば、それは贅沢をしているからではない。意思決定の前提そのものが、大多数の人間とまったく異なる座標系に移動しているからである。

時間と金の等価性が壊れる

年収400万円の人にとって、1時間の労働には約2,000円の対価がある。だから自分で料理をつくり、自分で掃除をし、自分で移動手段を手配する。それが合理的だからである。

しかし資産が1,000億円を超えると、この計算が反転する。1時間あたりの機会費用が数百万円に達するとき、「自分でやる」という選択はほぼすべて非合理になる。移動はプライベートジェット、食事は専属シェフ、日程管理は複数のアシスタント。これは贅沢ではなく、彼らの座標系においては単なる最適化である。

問題は、この最適化が人間の経験を削り取ることにある。スーパーで食材を選ぶ時間、電車の中でぼんやりする時間、道に迷って偶然の店に入る時間。そうした非効率の中にこそ、生活と呼ばれるものの手触りがある。効率を極限まで追求した結果、生活そのものが蒸発する。これが最初の逸脱である。

リスクの意味が変わる

億万長者の伝記やインタビューを読むと、ほぼ全員が「すべてを賭けた瞬間」を語る。全財産を投じた起業、キャリアを捨てた方向転換、常識的には無謀としか言えない判断。そしてそれが成功したから、いま彼らはインタビューに答えている。

ここで見落とされがちなのは、リスク許容度の非対称性である。年収400万円の人が全財産500万円を失えば、生活が破綻する。しかし資産100億円の人が50億円を失っても、生活水準はほとんど変わらない。同じ「全財産の半分を賭ける」という行為でも、実質的な痛みがまるで違う。

さらに、一度大きな資産を築いた人間には信用というバッファがある。失敗しても出資者が再び集まり、銀行が融資し、メディアが「再起」の物語を書いてくれる。つまり億万長者の「大胆な決断」は、見た目ほどには大胆でない場合が多い。リスクの絶対量が同じでも、それを支える構造がまったく異なるのである。

対等な関係が消滅する

資産が一定の規模を超えると、周囲の人間関係が構造的に変質する。友人、恋人、ビジネスパートナー、あらゆる関係に利害が介入する。相手が自分を好いているのか、自分の資産を好いているのか、その判別が原理的に不可能になる。

これは人が比較でしか幸福を測れない理由とも通じる問題である。幸福を他者との関係の中で測定する生き物にとって、「対等な他者」がいなくなることは、比較の基準軸そのものを失うことを意味する。

結果として、億万長者の多くは極端に狭い交友圏を持つ。同じ資産規模の人間としか本音で話せないという証言は珍しくない。社会的孤立は、貧困だけでなく極端な富によっても生じる。ただし後者の孤立は、同情されることすらない。

消費が天井に達したあとの欲望

年収が上がるにつれて消費の選択肢が広がるという経験は、多くの人が実感として理解できる。しかしその延長線上に、「買えないものがなくなる」という状態がある。

高級車も、島も、美術品も、すべて買える。物理的に購入可能なものが尽きたとき、欲望はどこに向かうのか。歴史的に見ると、答えは「影響力」である。メディアの買収、政治への関与、宇宙開発、都市設計。消費が飽和した先で、億万長者は世界そのものを自分の好みに合わせて改変しようとする。

これは単なる権力欲とは少し違う。消費によって満足を得るという回路が機能しなくなったとき、人間は「世界に痕跡を残す」という方向に動く。永遠の素振りで書いた「手段が目的化する」構造と同じで、富の蓄積そのものが自己目的化し、何のための資産なのかという問いが消失する。

生存者バイアスという巨大な盲点

「億万長者は常軌を逸した行動をとる」という命題には、致命的な観測の偏りが含まれている。

常軌を逸した行動をとって成功した人間は、億万長者として可視化される。しかし同じように常軌を逸した行動をとって破産した人間は、統計にも記事にもならない。われわれが目にしているのは、生存者だけで構成されたサンプルである。

したがって「常軌を逸していたから成功した」は因果関係ではなく、相関に過ぎない可能性が高い。正確に言えば、「常軌を逸した行動は、成功の必要条件かもしれないが十分条件ではない」のであり、同じ行動が破滅をもたらす確率のほうがはるかに高い。

にもかかわらず、成功者の自伝はつねに因果の物語として書かれる。「あのとき全財産を賭けたから今がある」と。それは事後的に構成された筋書きであり、配られたカードを見ろで書いたように、生まれ持った条件や偶然の連鎖がどれほど結果を左右しているかは、成功の物語からは体系的に排除される。

「逸脱」と「病理」のあいだ

億万長者に共通する特性を列挙すると、ワーカホリック、共感性の低さ、異常な執着心、睡眠時間の極端な短さ、人間関係の道具化といったものが並ぶ。これらは臨床心理学の文脈では、パーソナリティの偏りとして扱われることがある。

しかし社会は結果で人間を分類する。同じ特性を持っていても、成功すれば「ビジョナリー」と呼ばれ、失敗すれば「偏った人」と呼ばれる。特性そのものは変わらない。変わるのは、その特性が置かれた環境と、そこから生じた結果だけである。

これは決断できない状態の構造の裏返しでもある。決断できないことが構造的に生じるように、過剰に決断できることもまた構造的に生じる。どちらが「正常」かは、結果が出るまで誰にも分からない。

自分たちは彼らのようになりたいのか

億万長者の行動を分析していくと、ある種の合理性が浮かび上がる。彼らの選択は、彼らの座標系の中では一貫している。時間を金で買い、リスクを構造的に管理し、人間関係を効率化し、影響力を最大化する。非合理に見えるのは、われわれがわれわれの座標系から眺めているからに過ぎない。

しかし「合理的だが人間的ではない」という形容が、おそらく最も正確である。生活の手触り、偶然の出会い、対等な関係、失敗の痛み。これらを引き換えにして得られるものの価値を、われわれは本当に望んでいるのか。

努力できない仕組みの分析で書いたように、努力の可否は個人の意志ではなく構造に依存する。同様に、億万長者の「常軌を逸した」行動もまた、意志の産物というよりは、特定の条件が重なったときに出現する構造的な帰結である。彼らを崇拝する必要も、軽蔑する必要もない。ただ、彼らが引き換えにしているものの目録を、正確に読んでおく価値はある。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

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綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

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