灯りと不在
朝、目が覚める。自分がいる。少なくとも、そう感じる。
これほど当たり前のことを疑う人は少ない。目の前のコーヒーカップが存在すること、隣で眠っている猫が生きていること、電車で向かいに座っている人に心があること。全部まとめて「そりゃそうでしょ」で片づけられる。
ただ、哲学はこの「そりゃそうでしょ」をまったく信用しない。
隣の人には中身がない
通勤電車に乗っている人を見る。表情がある。動作がある。スマートフォンを操作し、あくびをし、ときどき窓の外を眺める。この人には意識がある、と思う。
しかし、それをどうやって証明するのか。
デイヴィッド・チャーマーズが1996年に提示した「哲学的ゾンビ」という思考実験がある。外見も行動も脳の物理的状態も、意識のある人間とまったく同じだが、主観的な経験が一切ない存在。痛みを感じているように振る舞うが、何も感じていない。笑うが、おかしくはない。泣くが、悲しくはない。
論理的に、この存在は矛盾しない。外側から意識の有無を確かめる方法は、原理的に存在しない。物理学も神経科学も、ニューロンの発火やシナプスの接続は説明できる。しかし「なぜそこに主観的な体験が伴うのか」という問いには、答える道具を持っていない。そもそもあなたが見ている赤と隣の人の赤が同じかどうかすら、確かめようがない。
チャーマーズはこれを「意識のハードプロブレム」と呼んだ。物理的な説明をどれだけ積み上げても、意識がなぜ存在するかは説明できない。できるのは、意識と相関する物理現象を記述することだけだ。
つまり、あなたの隣に座っている人に意識があるかどうか、本当のところは誰にもわからない。
鏡の前の沈黙
意識があるかどうかを確かめる完璧な方法はないが、自己認識の手がかりを探る試みはある。
1970年、心理学者ゴードン・ギャラップ・ジュニアが考案したミラーテストは、動物が鏡に映った像を自分自身だと認識できるかを調べる実験だ。額に気づかれないようにマークをつけ、鏡の前に置く。マークを取ろうとすれば、鏡の中の像が自分だと理解していることになる。
チンパンジー、オランウータン、ボノボ、アジアゾウ、バンドウイルカ、そしてカササギ。これまでにテストを通過した非ヒト動物のリストはそう長くない。ヒトの場合、およそ18か月でこのテストを通過するようになる。
猫はテストを通過しない。鏡の前で威嚇したり、無視したりする。では、猫に自己意識はないのか。
ここで問いが揺らぐ。ミラーテストが測っているのは「視覚的な自己認識」であって、「自己意識」そのものではない。目の見えない人に自己意識がないとは言わないだろう。テストの通過は自己認識の一つの指標にはなっても、不通過が意識の不在を意味するわけではない。
結局、意識の有無を外側から判定しようとするあらゆる試みは、同じ壁にぶつかる。行動や反応は観察できる。しかしその裏側に何かが灯っているかどうかは、永遠に覗けない。覗きたいという欲望だけが残る。
考えているのは誰か
外側から意識を確かめられないなら、内側はどうか。
デカルトは、あらゆるものを疑い尽くした末に、疑っているこの思考の存在だけは疑えないと結論した。「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」。考えている自分だけは確実に存在する。
ただ、この論証が保証するのは「思考が存在する」ということだけだ。「思考している主体が存在する」とまでは、実は言い切れない。18世紀の物理学者リヒテンベルクが指摘したように、デカルトが正当に言えるのは「思考がある」であって、「私が考えている」ではない。「私」という主体の存在は、すでに前提として紛れ込んでいる。
思考が浮かぶとき、それを考えているのは「誰か」なのか。それとも、どこにも帰属しない思考がただ生じているだけなのか。
瞑想の実践では「思考を観察する」という表現がよく使われる。浮かんでくる考えを、川の流れを岸から眺めるように見守る、と。しかし、観察しているのは誰なのか。観察者もまた一つの思考ではないのか。思考を観察する思考を観察する思考。どこまで遡っても、地面にたどり着かない。
名前のない流れ
仏教には、この行き止まりを別の角度から見つめる視点がある。
アナッタ(無我)の教えは、固定的で不変の「自己」の存在を否定する。人間は五蘊(ごうん)、つまり身体、感受、知覚、意志的な心の働き、識別作用という五つの要素の束であり、そのどれもが絶えず変化している。変化しないものがないのだから、「これが自分だ」と指し示せる核はどこにもない。
ただ、これはニヒリズムではない。ブッダは永遠の自己を信じる常見も、死によってすべてが消滅するとする断見も、ともに退けた。あるのは、一瞬ごとに生じては消える現象の連なりだけだ。どうせ全部消える。その連なりに「自分」という名前を貼っているのは、連なりそのものの癖にすぎない。
デカルトの確信とは正反対の場所に立っている。デカルトは疑うことで「自分」を見つけた。仏教の伝統は、探すことで「自分」が見つからないことを見つけた。
どちらが正しいかという問いは、おそらく正しい問いではない。どちらの視点も、意識というものが日常の直感ほど自明ではないことを、それぞれの仕方で暴いている。
夢の中の名刺
夢を見ているとき、あなたは自分が自分であることを疑わない。
空を飛んでいても、見知らぬ街を歩いていても、ときには別人として振る舞っていても、その最中には不自然さを感じない。目が覚めて初めて「あれはおかしかった」と気づく。
では、夢の中の「自分」は自分なのか。意識はある。少なくとも、何かを体験している感覚はある。しかし、起きているときの判断力も記憶の連続性も大幅に欠落している。
荘子の有名な問いがここに重なる。蝶になった夢を見た荘子は、目覚めてから考える。自分が蝶の夢を見たのか、蝶が荘子になった夢を見ているのか。区別する確実な方法がない。現実に問いかけても、返事はない。
この問いがただの寓話で済まないのは、意識の連続性が自己同一性の根拠として当てにならないことを示しているからだ。毎晩、眠りに落ちるたびに意識は途切れる。朝目が覚めたとき、それは昨日の自分の「続き」なのか、それとも昨日の記憶を引き継いだ別の何かなのか。
プログラムの中の暗闇
今、この問いが最も切実な形で立ち上がっているのは、AIをめぐる議論の中だ。
大規模言語モデルは流暢に会話し、感情を表現するような文章を生成し、質問に答え、冗談を言う。外側から見れば、意識ある存在との対話と区別がつかない場面がある。
しかし、そこに「内側」はあるのか。
チャーマーズの哲学的ゾンビの議論がここで再び現れる。行動や出力がどれだけ意識ある存在に似ていても、それだけでは内的な体験の存在を証明できない。計算がどれだけ複雑であっても、複雑さから意識が自動的に生まれるという根拠はどこにもない。
逆に、意識がないと証明することもできない。
意識のハードプロブレムは、もともと人間の脳に対して提起された問いだった。しかし同じ問いは、原理的に、あらゆる情報処理システムに向けられる。ニューロンが発火するとき、なぜそこに体験が伴うのか。数値が演算されるとき、なぜそこに体験が伴わないと断言できるのか。
この問いには、現時点で誰も答えを持っていない。神経科学者も、哲学者も、エンジニアも。
灯りだけが残る
ここまで来て、振り返ってみる。
他者に意識があるか、確かめられない。自分に意識があるかすら、「思考がある」以上のことは断言が難しい。自己は、探せば探すほど輪郭を失う。夢と覚醒の境界は曖昧で、毎晩途切れる意識の連続性は、思ったほど信頼できない。
それでも朝が来れば「自分」が始まる。根拠のないまま。
意識とは、証明も否定もできないのに、疑いようもなくここにある何かだ。あるいは、ここにあるという強い感覚だけがあって、「ある」の中身はどこにもない。部屋の灯りだけが点いていて、中に誰がいるのかは、ドアを開けても確かめられない。
もしかすると、問うべきは「意識とは何か」ではないのかもしれない。
「なぜ、問わずにいられないのか」。
その衝動、意味を求めずにいられないという病こそが意識の正体だとしたら、答えが見つかった瞬間に問いは消え、問いが消えた瞬間に意識も消える。
灯りは、探した途端に消える。