意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。

太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。

それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。

これは病だと思う。

治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。

観客のいない劇場

一つ、思考実験をしてみる。

もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。

直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。

意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇宙に観客がいない以上、人間の営みは上演され続ける独り芝居にすぎない。

いや、自分たち自身が観客ではないか、という反論はありえる。人間が人間の営みに意味を見出している。それで十分ではないか。

しかし、それは十分なのだろうか。自分で自分に拍手を送る劇場は、本当に「劇場」と呼べるのだろうか。(観客のいない場所で何かが起きたとき、それは「起きた」と言えるのかという問いは「誰も聞いていない」でも考えた。)

探し物は最初からなかった

意味は「見つける」ものなのか、「作る」ものなのか。

この問いは古い。古すぎて、まだ誰も解決していない。

「見つける」派の論理はこうだ。宇宙にはあらかじめ秩序があり、人間はその秩序の一部として存在し、その中に組み込まれた役割がある。宗教的な世界観は多くの場合この立場を取る。目的があり、計画があり、あなたはその一部だ。

「作る」派の論理はこうだ。意味はどこかに転がっているわけではなく、人間が自ら生み出すものだ。サルトルは1946年の講演『実存主義はヒューマニズムである』の中で、「実存は本質に先立つ」と述べた。人間にはあらかじめ定められた本質などなく、まず存在し、そのあとで自らの選択によって自分が何者であるかを決めていく。意味も同様に、与えられるものではなく、選び取るものだ。

ここで立ち止まる。

見つけるにせよ、作るにせよ、どちらにも居心地の悪さがある。

見つけるものだとすれば、まだ見つけていない人はどうなる。一生見つからなかった人はどうなる。見つけたと思ったものが幻だったら。

作るものだとすれば、その作られた意味はどこまで本物なのだろう。自分で自分に「これには意味がある」と言い聞かせることと、本当に意味があることの違いは何だ。自分で作った意味を自分で信じるのは、目を閉じて「暗くない」と言い張るのと何が違うのか。

どちらの扉を開けても、その先にはまた問いがある。出口はない。

百年後の沈黙

少し具体的な話をする。

百年後、あなたのことを覚えている人はおそらくいない。

これは悲観ではなく、統計的にほぼ確実な予測だ。歴史に名を残す人間は、全人口のうちごくわずかだ。しかも、名を残した人の多くですら、名前だけが記号として残り、その人が何を感じ、何に迷い、何を恐れたかは消える。(すべてが静かに消えていくという事実そのものについては「どうせ全部消える」で書いた。)

カミュは1942年に出版した『シーシュポスの神話』の中で、不条理(l'absurde)を、意味を求める人間と、それに応えない世界との対峙から生まれるものとして描いた。世界そのものが無意味だと断じたのではない。人間が意味を切実に求めるのに対して、世界がそれに一切応えないという断絶。その隙間に生まれる感覚が、不条理だ。

百年後の沈黙は、まさにこの不条理の一つの形をしている。私たちは自分の人生が何かを残すことを望む。世界はそれに一切応えない。(誰にも見届けられない営みに意味があるかという問いは「誰も見ていない花壇」で別の角度から考えた。)

では、覚えられないのなら、今ここで生きていることに意味はないのか。

フランクルなら、違うと答えるかもしれない。

ヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所を生き延びた精神科医だ。1946年に出版された『夜と霧』の中で、極限の苦しみの中でさえ人間は意味を見出しうると述べた。ロゴセラピーと呼ばれるその治療理論は、人間の根源的な動機は快楽でも権力でもなく「意味への意志」であるとする。そして意味は、何かを創造すること、何かを経験すること、あるいは避けられない苦しみに対する態度を選ぶことの三つの道を通じて見出されるとした。

美しい話だ。強制収容所という極限で、それでも意味を語った人間がいたこと自体が、胸を打つ。

しかし、それでもなお、問いは消えない。百年後に忘れられるという事実は、「今ここ」の意味を本当に脅かさないのか。それとも私たちは、脅かされていることを認めたくないだけなのか。フランクルの言葉に感動している自分は、感動することで問いを回避しているだけではないのか。(苦しみと意味のあいだの危うい関係については「苦しみは何も教えない」でも書いた。)

分からない。

あなたの代わりはいくらでもいる

もう一つ、現代に特有の問いがある。

もし自分がやっていることを、AIがもっとうまくできるとしたら。もっと速く、もっと正確に、もっと多くの量を。そのとき、自分がそれをやる意味はあるのか。

これは2020年代において、冗談ではなく切実な問いになった。文章を書くことも、コードを書くことも、絵を描くことも、音楽を作ることも、機械が驚くべき速さでこなせるようになりつつある。

「あなたにしかできないこと」を見つけろ、という助言をよく聞く。しかし、その「あなたにしかできないこと」が本当に存在するのかどうかは、もはや自明ではない。そして仮にあったとしても、それがいつまで「あなたにしか」できないままでいるかは、誰にも保証できない。(そもそも「自分」でいることに根拠があるのかという問いは「自分でいる理由なんてない」で考えた。)

話は仕事に限らない。「意味のある仕事」とは何かという問い自体が、ここで底抜けになる。意味のある仕事があるなら、意味のない仕事もあるはずだ。では、意味のない仕事をしている人の時間は、意味がないのか。その人の人生は、仕事の意味の有無によって値踏みされるのか。

子どもを育てることは人生に意味を与えるか。そうだとすれば、子どもを持たない人の人生には意味が欠けるのか。

何かが意味を与える、と言った瞬間に、それを持たない側が意味を欠くことになる。意味の源泉を一つ指定するたびに、そこからこぼれ落ちる人たちが生まれる。これは論理の問題であって、感情の問題ではない。意味を語ること自体が、ある種の暴力を孕んでいる。(AIが人間の仕事を代替しうる時代に、書くことの価値がどこに残るかについては「AIの文章に価値はあるか」で考えた。)

絶望と自由の見分けがつかない

ニーチェは1882年に出版した『悦ばしき知識』の中で、「神は死んだ」と書いた。これは無神論の宣言ではない。西洋世界が長らく意味と道徳の源泉としてきた超越的な根拠が、もはや機能しなくなったという診断だ。ニーチェ自身はニヒリストではなかった。ニヒリズムを診断し、その向こう側に何がありうるのかを問い続けた人だ。

神が死んだ後の世界で、意味の源泉をどこに求めるか。ニーチェは超人や永劫回帰といった概念で応答しようとしたが、それが「答え」であったかどうかは、百年以上経った今も決着がついていない。

サルトルは、この状況を「人間は自由の刑に処されている」と表現した。神がいない以上、あらかじめ定められた目的も本質もなく、すべては自分の選択に委ねられる。これは解放であると同時に、底なしの重荷でもある。

ここに、奇妙な反転がある。

もし人生に客観的な意味がないとしたら、それは絶望だろうか。それとも自由だろうか。

意味がないからこそ何をしてもいい。何にでもなれる。何も強制されない。しかし同時に、何をしても「正解」はない。どこにも保証はない。自分の選択を裏づけてくれる外部の根拠はない。

絶望と自由は、驚くほどよく似た顔をしている。見分ける方法を、誰も教えてくれない。(自由の重さに耐えかねた人間がどこへ逃げるのかについては「鎖を愛した動物」で書いた。)

楽しければそれでいいのか

最後にもう一つだけ。

意味がなくても楽しければいいのか。

快楽主義の素朴な立場は、イエスと答える。楽しいことは良いことで、苦しいことは悪いことで、それ以上の理屈は要らない。単純で、明快で、分かりやすい。(もしその快楽が完璧にシミュレートされたものだったとしても「良い」と言えるのかについては「幸福という自殺」で考えた。)

しかし、楽しくても虚しいという経験を、多くの人は知っている。笑っているのに、どこか空洞を感じる瞬間。楽しさが終わった直後に襲ってくる、あの独特の静けさ。

では逆に、楽しくなくても意味があればいいのか。それはフランクル的な立場に近い。苦しみの中にさえ意味を見出せるなら、楽しさは必要条件ではない。

しかし、意味も楽しさもないときに、人はどうなるのか。

この問いに対して、哲学は驚くほど無力だ。論理で答えられる問いではないからだ。意味も楽しさもない午前三時のベッドの上で、人は何を支えにして次の朝を迎えるのか。

カミュならこう言うかもしれない。それでも岩を押し上げろ、と。シーシュポスは岩が山頂から転がり落ちることを知っている。それでも山を登る。カミュは「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない」と書いた。(シーシュポスの反復と幸福の関係については「岩はまた転がり落ちる」で詳しく考えた。)

だが、「想像しなければならない」という言い方に立ち止まる。想像しなければ幸福ではないということでもある。幸福は事実ではなく、意志の問題なのかもしれない。あるいは、意志ですらなく、ただの仮構なのかもしれない。

この問いに答えは返ってこない

ここまで読んで、何か答えを期待していたなら申し訳ない。答えはない。

最初からなかった可能性すらある。

意味の所在を問うこと自体が、もしかしたら意味のない行為なのかもしれない。問うことで何かが解決するわけでもなく、問わなかったからといって何かが悪化するわけでもない。宇宙は相変わらず沈黙しているし、百年後にこの文章を覚えている人もいない。

それでも人は問い続ける。問わずにはいられない。それが病だとすれば、人間は全員が患者だ。

治療法はない。寛解もない。ただ、同じ病を抱えた人間が、深夜のインターネットの片隅で、同じ問いを繰り返し投げかけている。

「人生に意味はあるか?」

返事は来ない。永遠に来ない。それを知っていてなお問い続けるのは、勇気なのか、それとも症状なのか。

たぶん、症状だ。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

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「許してあげなよ」と、誰かが軽々しく言う。まるで赦しが道徳的な義務であるかのように。まるでそれが簡単で、正しくて、誰にでもできることであるかのように。 でも、許せないものは許せない。それだけのことなのに、なぜかこの社会では、許せない側が責められる。許さない人間は心が狭い。許さない人間は前に進めていない。許さない人間は、どこか壊れている。 本当にそうだろうか。 そもそも、赦しとは何か。この問いに、哲学は驚くほど不穏な答えを用意している。いや、正確に言えば、答えなど用意していない。ただ、問いの底が抜けているということを、丁寧に証明してみせただけだ。 許すべきだという呪い 私たちは「許すこと」を美徳だと教えられて育つ。宗教は赦しを説き、道徳は寛容を称え、自己啓発本は「手放すこと」を勧める。許すことは成長であり、許さないことは停滞だと。 だが、この「許すべきだ」という圧力そのものが、ひとつの暴力ではないか。 傷ついた人間に向かって「許しなさい」と言うとき、それは傷の深さを無視している。許すかどうかは、傷ついた当人だけが決められることのはずだ。それなのに、

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