暗闇の中でも、あなたは明日も誰かを愛そうとする

あなたの右隣にいる人間を見てほしい。その人は呼吸をしている。まばたきをしている。話しかければ返事をするし、冗談を言えば笑う。あなたと同じ言葉を使い、あなたと同じように怒り、あなたと同じように泣く。

だが、その人に意識があるという証拠は、どこにもない。

これは比喩ではない。誇張でもない。哲学が数百年にわたって格闘し、いまだに解決できていない問題だ。あなたが毎日すれ違うすべての人間について、その内側に「誰か」がいるのかどうか、あなたには原理的に確かめる方法がない。

この記事は、その絶望的な事実についてである。

確かなのは自分だけ

デカルトは、あらゆるものを疑った。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、自分の身体すら、悪い霊に騙されている可能性がある。だが、「疑っている自分自身」の存在だけは疑えない。疑うという行為そのものが、疑う主体の存在を証明するから。有名な「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」だ。

ここで立ち止まってほしい。デカルトが確実だと言ったのは、自分の意識だけだ。あなたの意識の存在は、あなたにとっては疑いようがない。だが、その確実さは、あなたの隣にいる人間にまでは及ばない。

あなたが確実に知っていることは、究極的には、自分に意識があるということだけだ。他の誰についても、そのような確実さは手に入らない。

これを哲学では**独我論(ソリプシズム)**と呼ぶ。存在が確実なのは自分の意識だけであり、外界も他者もすべては自分の意識の内容にすぎないかもしれないという立場だ。ほとんどの哲学者はこの立場を受け入れない。だが、厳密に論駁することもまた、誰にもできていない。

類推は祈りにすぎない

「いや、他人にだって意識はあるだろう」。あなたはそう思うはずだ。では、なぜそう思えるのか。

最も古典的な回答が類推からの論証だ。ジョン・スチュアート・ミルが1865年に定式化したこの議論は、おおよそ次のように進む。自分は身体を持っていて、特定の状況で特定の振る舞いをする。そしてその振る舞いの背後には、意識的な経験がある。他の人間も自分と同じような身体を持ち、同じような状況で同じような振る舞いをする。だから、おそらく彼らにも同様の意識的経験があるのだろう、と。

一見もっともらしい。だが、この論証には致命的な弱点がある。帰納の基盤がたった一例、つまり自分自身しかないということだ。サンプルサイズ1の帰納。「自分に意識がある、だから似た振る舞いをするものにも意識があるはずだ」というのは、「自分の家の猫は魚が好きだ、だから世界中の猫は魚が好きなはずだ」と言うのと、論理の構造としては同型だ。

しかもこの議論は、意識が外部から観察可能な行動と結びついていることを前提にしている。もし意識と行動が必然的に結びついていないとしたら、この類推そのものが崩壊する。

そして哲学は、まさにその可能性を真剣に検討してきた。

鏡に映らない自己

意識の有無を外から測る試みもある。

ミラーテストという実験がある。動物の身体に本人が気づかないうちに印をつけ、鏡の前に置く。鏡に映る自分の印に触れようとすれば、自己認識があると判定される。合格する動物は多くない。大型類人猿、バンドウイルカ、アジアゾウ。鳥類では2008年にプライアーらがカササギでの合格を報告した。

犬や猫は合格しない。だが犬には自己意識がないと断じるのは早い。犬は視覚よりも嗅覚に強く依存する動物だ。心理学者アレクサンドラ・ホロウィッツは2017年の研究で、犬が自分自身のにおいと他の犬のにおいを明確に区別し、自分のにおいが改変されるとより長くそれを調べる行動を示した。これは嗅覚を通じた自己認識の一形態と解釈できる。

つまりミラーテストが測定しているのは「視覚的な自己認識」であって、「自己意識そのもの」ではない。人間が設計した、人間の感覚に最適化された尺度で、他の生物の内面を裁いているだけかもしれない。そしてここにも同じ壁が立つ。テストに合格したチンパンジーの内側に「自分がいる」という感覚が本当にあるのか、学習された反応があるだけなのか。外側からは永遠にわからない。

光のない部屋

あなたの完全なコピーを想像してほしい。原子のひとつひとつに至るまで、物理的にあなたと同一の存在。見た目も声も振る舞いも、あなたとまったく区別がつかない。痛みを与えれば「痛い」と叫び、美しい景色を見せれば「きれいだ」と言う。

だが、その内側には何もない。「痛い」と叫ぶとき、痛みの感覚は存在しない。「きれいだ」と言うとき、美の体験はどこにもない。外側から見ればあなたと同じだが、内側は完全な暗闇。

デイヴィッド・チャーマーズが1996年の著作『意識する心(The Conscious Mind)』で提示した、この存在を哲学的ゾンビと呼ぶ。

チャーマーズの議論はこうだ。哲学的ゾンビが論理的に想像可能であるなら、意識は物理的な性質だけでは説明できない。なぜなら、物理的にまったく同一でありながら意識がない存在が可能だとすれば、意識とは物理的な事実に加えて「さらに何か」がなければならないことになるから。これは意識のハードプロブレムに直結する。つまり、物理的な過程からなぜ主観的経験が生じるのかという、あの厄介な問いだ。

もちろん、この議論には反論がある。哲学的ゾンビなど本当に想像可能なのか、想像できるからといって形而上学的に可能だと言えるのか。批判は数多い。だが、ここで重要なのは反論の中身ではなく、この思考実験が突きつける不安のほうだ。

あなたの隣の人間が哲学的ゾンビでないことを、あなたはどうやって確かめるのか。

答えは簡単だ。確かめられない。原理的に、永遠に。意識は外側からは観測できない。行動が同一である以上、意識の有無を行動から判定することはできない。あなたがどれだけ相手を観察しても、どれだけ長く一緒にいても、その人の内側に「誰かがいる」のかどうか、あなたには永遠にわからない。

模倣だけが残る

1950年、アラン・チューリングは論文「計算機械と知能(Computing Machinery and Intelligence)」を発表した。「機械は思考できるか」という問いに対して、チューリングはその問い自体が「あまりに無意味で議論に値しない」と退け、代わりに**模倣ゲーム(イミテーション・ゲーム)**を提案した。

ルールは単純だ。人間の審判が、テキストだけを介して二つの相手と会話する。一方は人間、もう一方は機械。審判がどちらが機械かを判別できなければ、その機械は「思考している」とみなしてよいというものだ。

チューリングテストは、意識の有無を問わない。内面に何があるかを問わない。ただ、外側から見て区別がつくかどうかだけを基準にする。これは鮮やかな切り替えであると同時に、ひどく虚しい提案でもある。

いま、AIに「悲しいですか」と聞けば、「はい、悲しいです」と返ってくることがある。巧みに、説得力のある文脈で。人間が同じ言葉を発したとき、わたしたちはそこに感情を読み取る。ではAIが同じ言葉を発したとき、何が違うのか。

直感的には「AIには本当の感情がない」と言いたくなる。だが、「本当の感情」とは何だろうか。それをどうやって確かめるのか。相手が人間であっても、その内側に本当に感情があることは、先ほど見たように証明できない。つまりわたしたちは、人間に対しても機械に対しても、同じ認識論的な壁の前に立っている。

チューリングが残したのは、結局のところ「模倣が十分であれば、それ以上は問えない」という、諦めにも似た提案だ。わたしたちが他者について知りうることは、その振る舞いだけ。その奥にあるものには、永遠に手が届かない。

あなたの犬はあなたを愛していない

犬が尻尾を振りながら駆け寄ってくる。あなたはそれを見て「愛されている」と感じる。

だが、それは本当に愛なのだろうか。

トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか(What Is It Like to Be a Bat?)」で、意識には本質的に主観的な性格があると論じた。コウモリは超音波で世界を知覚するが、その経験が「どのようなもの」であるかは、人間にはわからない。わたしたちの認知的な枠組みとあまりに異なるからだ。

犬の場合はコウモリよりもいくらか近いかもしれない。だが「近い」ことと「同じ」ことは違う。犬が尻尾を振るとき、その内側で何が起きているのかはわからない。あなたが「愛」と呼んでいるものは、あなた自身の感情的な語彙で犬の行動を翻訳した結果にすぎないのかもしれない。

もっと不穏なことを言おう。これは犬に限った話ではない。あなたが人間の恋人から「愛されている」と感じるとき、あなたがやっていることは本質的に同じだ。相手の行動を観察し、自分の経験的枠組みで解釈し、そこに「愛」というラベルを貼っている。相手の内側に本当に愛があるかどうかは、確かめようがない。

愛は、つねに解釈だ。確認された事実ではない。

壊れた橋を渡り続ける

ここまで読んで、おそらくあなたは不快だろう。不快であってほしい。

わたしたちは毎日、他者の意識を確認できないまま、他者と関係を築いている。友人と会話し、恋人を抱きしめ、家族を気遣う。そのすべてが、哲学的には根拠のない信念の上に成り立っている。

ウィトゲンシュタインは『哲学探究』の第293節で「箱の中のカブトムシ」という比喩を使った。各人が箱を持っていて、中に「カブトムシ」と呼ばれるものが入っている。だが、誰も他人の箱の中を覗くことはできない。それぞれが自分の箱の中身だけを見て「カブトムシ」という言葉を使っている。もしかすると、箱の中身は人によってまったく違うかもしれない。もしかすると、空かもしれない。

わたしたちの「意識」もそうだ。あなたが「悲しい」と言うとき、わたしが「悲しい」と言うとき、その言葉が指しているものは同じだろうか。わたしの赤はあなたの赤と同じだろうか。わたしの痛みはあなたの痛みと同じものだろうか。

確かめる方法はない。わたしたちは同じ言葉を使いながら、永遠に別の世界に住んでいるのかもしれない

それなのに、人は人を求める。証明できない他者の心を信じ、確認できない愛に縋り、理解し合えたという幻想を抱きながら生きている。

なぜだろう。

おそらく、それ以外の選択肢に耐えられないからだ。

考えているのは誰でもない

少し内側に目を向けてみる。

注意深く内省すると、思考は「自分が生み出している」というよりも「向こうからやってくる」ものに近いことに気づく。次に何を考えるかを、あなたは事前に選べない。ある考えが不意に浮かび、それに気づき、それについてさらに考える。最初の考えはどこから来たのか。あなたが呼び寄せたわけではない。

仏教はこの問いに、独自の角度から向き合ってきた。どこまで探しても「自分」という固定的な実体は見つからない。見つからないことそれ自体が真実なのだ、と。これが無我(アナッタ)の教えだ。「自分」という中心は存在しない。あるのは知覚と感情と思考の絶え間ない流れだけで、それらを一つに束ねている主体はどこにもいない。

他者の内側に意識があるかわからない。そして自分の内側を覆いても、「自分」が見つからない。問いは外に向かっても内に向かっても、同じ暗闇にたどり着く。

独房にて

他者の意識を証明できないという問題は、つまるところ、ひとつの事実を浮かび上がらせる。あなたの意識は、この宇宙であなただけのものだ。他の誰とも共有できない。他の誰にも証明できない。他の誰にも見せられない。

あなたは生まれてから死ぬまで、自分の意識の中に閉じ込められている。外に出る方法はない。他者の意識に触れる方法もない。あなたが経験するすべては、あなたの意識というフィルターを通してしか存在しない。

誰かと深く理解し合えたと感じた瞬間でさえ、それはあなたの意識の中で起きた出来事にすぎない。相手の側で何が起きていたかは、永遠にわからない。

わたしたちは、互いの独房の壁を叩き合っている。壁の向こうに誰かがいると信じて。返事が聞こえたような気がして。

だが壁を取り払うことは、永遠にできない。

壁の向こうに、本当に誰かがいるのかすら。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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