うらやましいなあ
もし誰か他の人間になれるとしたら、なりたいか。
「なる」の正体
「誰かになれる」という言葉は、考えれば考えるほど意味がわからなくなる。
ある人の体に自分の意識が入ること? その人の人生を最初からやり直すこと? その人の記憶と性格をまるごと引き受けること? どれを選ぶかで、問いの意味そのものが変わってしまう。
自分の意識が残るなら、それは「他人の体を借りた自分」であって、他人になったことにはならない。記憶も性格もすべて書き換えるなら、「自分」はもうどこにもいない。
トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」で、こう論じた。人間がコウモリの行動を想像することはできても、コウモリにとってコウモリであることがどのようなものかを知ることは、原理的に不可能だ、と。主観的な経験には、外から観察しただけでは絶対にたどり着けない何かがある。
これは人間同士でも変わらない。他人の人生を外側から眺めて「なりたい」と思うことはできる。でも、その人の内側から世界を見ることは、どこまでいっても想像の域を出ない。
「なる」という言葉が約束しているものは、たぶん誰にも届けられない。
羨望はダイジェスト版しか見ない
他人になりたいと思うとき、欲しがっているのはたいてい「結果」だ。あの人の才能。あの人の成功。SNSのプロフィール欄に並ぶような、きれいに切り取られた人生の断面。
でも、その才能のために費やされた退屈な反復練習や、成功の裏側にある午前3時の不安まで、まとめて欲しいかと問われると、急に口ごもる。
羨望というのは、つねに他人の人生のダイジェスト版を見ている。映画のトレーラーだけ観て、本編を観た気になっている。
ジョン・ロールズは1971年の著作『正義論』のなかで「無知のヴェール」という思考実験を提案した。自分が社会のどの位置に生まれるかわからない状態で、社会のルールを設計するとしたらどうするか。人種も、性別も、才能も、財産も、何ひとつ知らされていない状態で。
この思考実験が教えてくれるのは、わりと残酷なことだ。僕たちの「あの人になりたい」という欲望は、つねに都合のいい情報だけで組み立てられている。もし本当に「誰になるかわからない」と言われたら、途端に怖くなる。
あの人の才能が欲しいだけであって、あの人の人生をまるごと引き受けたいわけではない。
完全な他人という名の消滅
もうすこしだけ、この思考実験を押し進めてみる。
仮に、完全に他人になれるとしよう。記憶も、性格も、価値観も、すべてがその人のものに入れ替わる。「自分」だったものは何ひとつ残らない。
これは、自分が消えるということだ。
「他人になる」と「自分が消える」は、言葉の響きがまったく違う。でも、論理的にはほぼ同じ場所に着地する。完全に他人になった瞬間、「なりたい」と願った主体はもうどこにもいない。その願いが叶ったことを喜ぶ「自分」が存在しない。
欲望が完全に成就した瞬間に、欲望の持ち主が消えてしまう。幸福という自殺、と言ってもいい。
あるいは、もしかすると、とても単純な話なのかもしれない。
一日だけという逃げ道
「一日だけ他人になれるなら?」
こう条件をつけると、多くの人は急に乗り気になる。でも「永遠に」と言い換えた途端、さっきまでの軽さが嘘のように消える。
この差は何だろう。
一日だけなら、帰ってこられる。安全な場所から他人を「体験」できる。観光のように。ネーゲルが原理的に不可能だと言ったことの、お手軽バージョンだ。
でも、考えてみてほしい。もし一日だけ完全に他人になれたとして、その一日の記憶は「自分」に戻ったあと残るのか。残るなら、それはもう「他人の記憶を持った自分」であって、もとの自分とは微妙に違う何かだ。残らないなら、体験したことにすらならない。人生をもう一度、最初からやり直す場合にも、まったく同じ袋小路が待っている。
一日だけという逃げ道は、よく見ると、もう塞がっている。
消去法の人生
結局、「誰か他の人間になりたいか」という問いに、整合性のある「はい」を返すのはほとんど不可能だ。「なる」の意味をどう定義しても、どこかで矛盾に突き当たる。
でも、「いいえ」と即答できる人間もそう多くはないだろう。自分のことをそこまでの確信をもって肯定できるほど、僕たちは自分を知らない。
あなたが自分でいたい理由を3つ挙げられるか。
3つ。たった3つでいい。
それがすぐに出てこないのだとしたら、たぶん、自分でいる理由なんて最初からなかったんだ。ただ、他の選択肢がことごとく論理的に破綻しているから、消去法でここにいるだけのこと。誰にも頼まれていないのに。
それを「自分らしさ」と呼ぶのは、ちょっと格好つけすぎじゃないか。