誰もまだ死んでいない
あなたは自分が死ぬところを想像できるだろうか。試してみるといい。目を閉じて、呼吸が止まり、意識が途切れ、世界から自分という存在が消え去る、その瞬間を。
できない。想像しようとするたびに、「想像している自分」がそこに居座っている。自分の不在を描くには、不在を見届ける自分が必要になる。これは論理の欠陥ではなく、意識の構造そのものだ。
誰もまだ、本当の意味では死を知らない。死んだ人間は語らないし、生きている人間は死を知らない。つまりこの文章も、死について何かを語っているようでいて、たぶん何も語っていない。
届かない手紙
紀元前3世紀、ギリシアの哲学者エピクロスは友人メノイケウスへの手紙のなかで、こう述べた。死はわれわれにとって何ものでもない。善悪はすべて感覚のうちにあるが、死とは感覚の剥奪そのものだからだ、と。われわれが存在するとき死はここになく、死がここにあるときわれわれはもう存在しない。だから死は、生者にも死者にも関わりがない。
明快な論理だ。反論の余地がないほどに。
しかし、この完璧な議論を読み終えたあなたは、たぶん少しも安心していないだろう。エピクロスの論理は死の恐怖を解消しているのではなく、むしろその恐怖がいかに論理の手の届かない場所にあるかを浮き彫りにしているように見える。論理的に恐れる理由はない。それでも恐れは消えない。
恐れているのは死そのものではないのかもしれない。自分がいなくなった世界が、何ごともなかったかのように続いていくこと。朝が来て、電車が走り、誰かが笑い、自分だけがそこにいない。その風景を想像するとき、感じるのは恐怖というより、ある種の侮辱に近い感覚だ。招いた覚えのない宴から追い出される。いや、そもそもこちらこそ願い下げですと言える相手がどこにもいない。
エピクロスの手紙は二千年以上読み継がれている。届けられた相手のメノイケウスは、とっくの昔にこの世にいない。手紙だけが残り、読む者が変わり、死の意味を問い続ける人間だけが入れ替わっていく。エピクロス自身が「何ものでもない」と呼んだものについて、人間はいまだに書き、いまだに読んでいる。何ものでもないものに、ずいぶん長く付き合わされている。
パターンは残るか
少し時代を飛ばそう。
ロボット工学者ハンス・モラベックは、1988年の著書 Mind Children のなかで、人間の本質は肉体ではなく、脳内で走っている「パターンとプロセス」であると論じた。もしこのパターンをデジタル基盤へ忠実に移植できるなら、その人は別の基盤の上で「存続している」と言えるのではないか。人間を人間たらしめているものが物質ではなくパターンであるなら、物質が変わってもパターンが保存されれば同一性は維持される、という考えだ。
発明家で未来学者のレイ・カーツワイルは、この発想をさらに推し進めた。2005年の著書 The Singularity Is Near で、やがて脳とコンピュータが直接結びつき、人間の知性がデジタル領域と融合する未来を予測した。ナノスケールの装置が毛細血管を経由して脳に到達し、意識そのものがクラウドへ拡張される。人間と機械の区別が消滅する転換点を、カーツワイルは「シンギュラリティ」と呼んだ。
壮大な話だが、ここでひとつ素朴な問題が生じる。意識を「アップロード」するとは、実際のところ、パターンを「コピー」することではないのか。もしオリジナルの自分とコピーされた自分が同時に存在したら、どちらが「自分」だろう。オリジナルが死に、コピーだけが残ったとき、コピーのほうは自分が死んだことを悲しむだろうか。それとも、何ごともなかったかのように次の朝を迎えるだろうか。パターンが保存される限り、あなたは死ねないのだとしたら、それは救いなのか、もうひとつの呪いなのか。
パターンが同じなら同一の自己である、という命題は、テセウスの船を思い出させる。すべての板を取り替えた船は、もとの船と同じ船なのか。答えは出ない。出ないまま、船はどこかへ向かって走り続ける。
死者のタイムライン
もう少し地上に降りてこよう。
Facebookには「追悼アカウント」と呼ばれる仕組みがある。ユーザーが亡くなったあと、家族や友人からの申請によって、そのアカウントは削除されるのではなく「追悼」状態へと移行する。タイムラインはそのまま保存され、友人たちは故人のページにメッセージを書き込み続けることができる。
これは「生きている」のだろうか。もちろん、生きてはいない。だが、完全に「いなくなった」とも言い切れない何かがそこにはある。返信のないメッセージが静かに積み上がり、毎年の誕生日に通知が届き、写真のなかの笑顔はいつまでも劣化しない。肉体はとうに失われたのに、デジタルな人格の断片だけがサーバーのどこかで、温度も重さも持たないまま浮かんでいる。どうせ全部消えるのだとしても、消えるまでのあいだ、それらは宙に浮き続ける。
意識のアップロードなどという大仰な技術がなくても、わたしたちはすでに自分の破片をネットワーク上にばらまいている。投稿、写真、検索履歴、購入記録。それらは自分の意識とは無関係に蓄積され、自分が消えたあとも、おそらくしばらくは残り続ける。
あなたが死んだら、アカウントは残しておきたいだろうか。それとも消してほしいだろうか。この問いに正解はない。ただ、その前で少し黙るとき、「自分」がどこまでを指しているのか、輪郭がぼやけていくのを感じるかもしれない。
この私の消しかた
日本の哲学者、永井均は「独在性」という概念を軸に、〈私〉の問題を一貫して問い続けてきた。世界には無数の人間がいて、それぞれが「私」と自称する。文法的にはどの「私」も同じ語だ。しかし、〈この私〉が他でもない〈この私〉であるという事実、この一回性は、一般的な概念や言語では決して捉えきれないと永井は論じる。名前でも、身体でも、記憶の束でも説明しきれない、ある種の存在論的な裂け目がそこにある。
この議論を、さきほどの意識アップロードの文脈に重ねてみよう。仮に、ある人の記憶、性格、思考のパターンをすべて完璧に複製したデジタル存在があるとする。受け答えも、癖も、笑いかたも区別がつかない。モラベックの基準に従えば、パターンは保存されている。では、それは〈この私〉だろうか。
パターンはすべて同一。振る舞いもすべて同一。けれど、〈この私〉という一点だけが、どこにも転写されていないかもしれない。それとも、そんなものは最初からどこにもなくて、パターンの外側には何もなかったのかもしれない。あなたは最初からいなかったのかもしれない。
独在性の問いは答えを与えない。ただ、「自分」という言葉を口にするたびに、その言葉が何を指しているのかが実はまったく自明ではないことを、静かに突きつけてくる。意識という灯りと不在のあいだで、〈この私〉はどこにも定位できないまま漂っている。
残すことと残ること
子どもを持つことは「自分を残す」ことだろうか。遺伝子の半分は確かに受け継がれる。顔立ちや体つき、声の調子、なにげない仕草が似ることもある。しかし子どもは、親の延長であると同時に、まったく別の人間でもある。似ている瞬間と、完全に他人である瞬間の振幅のなかに、「残す」という言葉の意味が揺れている。
本を書けば、本は残る。曲を作れば、曲は残る。SNSに投稿すれば、データは残る。しかし、残ったそれらは「自分」だろうか。読者は著者とは別の文脈でその言葉を読み、別の意味を見出す。残されたものは、残した者の手を離れた瞬間から、もう別の何かになっている。忘れられるとしても痕跡だけは残ると信じたいが、その痕跡を拾う手がなければ、残っていることと消えたことの区別はつかない。
意識をアップロードできるとしたら、あなたはそれを選ぶだろうか。自分が死んだあと、いちばん長く残るのは何だと思うだろうか。
こうした問いは、答えを知っている人間が一人もいないという点で、どこまでも対等だ。哲学の書物のなかよりも、夜更けのカフェのテーブルや、眠れない夜のスレッドのほうが似合うかもしれない。
墓碑銘のない墓
結局のところ、死について語ることは、死について何も語っていないことに限りなく近い。
エピクロスは死を恐れるなと言った。モラベックはパターンを残せばよいと考えた。カーツワイルはテクノロジーで超克する未来を描いた。永井は〈この私〉の消失がそもそも何を意味するのかを問い続けた。どの試みも、それぞれのしかたで誠実だ。そして、どれも最終的な答えにはたどり着いていない。
ただひとつ確かなことがあるとすれば、死について考えているこの瞬間、あなたはまだここにいるということだ。
それが何を意味するのかは、誰にもわからない。わからないまま、あなたはこの画面を閉じて、たぶん別のことを考え始める。明日の予定とか、夕飯のこととか。死はまた遠くへ引っ込んで、日常がその上を静かに覆い隠す。
それでいい。
また気が向いたら考えればいい。どうせ答えは出ない。