何も起きなかった日
先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。
おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。
人生の大半は、こういう日でできている。
溶けていく曜日
子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。
神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。
つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じものを食べていると、脳はそれらの日々を一つの塊として圧縮してしまう。日曜の夜に「今週何したっけ」と考えて、何も思い出せないことがある。忘れたのではない。最初から記録されなかったのだ。
旅行中に時間がゆっくり流れるように感じるのは、このメカニズムの裏返しだ。見知らぬ街、読めない看板、予測できない出来事。脳は忙しく記録を取り続け、結果として、たった三日の旅行が一週間分の厚みを持つ。
だとすれば、新しい経験のない日常とは、人生の中で最も長い時間を占めていながら、振り返ったときには最も短い時間になる、ということになる。
そういう日々を「生きた」と呼んでいいものか。
岩を押す人は振り返らない
1942年、カミュは『シーシュポスの神話』を書いた。
ギリシア神話のシーシュポスは、神々の怒りを買い、巨大な岩を山頂まで押し上げる罰を受ける。岩は山頂に達するたびに転がり落ち、シーシュポスは再び麓から押し上げなければならない。永遠に。
カミュが注目したのは、岩が転がり落ちたあと、シーシュポスが麓へ歩いて降りていく瞬間だ。そのとき彼は自分の運命を意識している。終わりのない反復を知っていて、それでも降りていく。カミュはこの瞬間にこそ、不条理に対する反抗を見た。
「頂上に向かう闘争そのものが、人間の心を満たすに足りる。シーシュポスは幸福であると想像しなければならない」
この一文は、繰り返しの中にも意味がある、という前向きなメッセージとしてしばしば引用される。しかしカミュの議論はもう少し屈折している。彼は意味があると言っているのではない。意味がないことを明晰に知った上で、それでも続けることが反抗であり、その反抗こそが人間の誇りだ、と言っている。
シーシュポスが幸福なのは、繰り返しに意味を見出したからではない。意味がないと知りながら、なお岩を押すことを選んだからだ。
ここには慰めがない。ただ、慰めがないという事実を直視する姿勢がある。
前に向かって取り返す
カミュより約100年前、キルケゴールは「反復」という概念を別の角度から掘り下げていた。
1843年に出版された『反復』で、キルケゴールはコンスタンティン・コンスタンティウスという仮名のもと、反復と想起の関係を探っている。
「反復と想起は同じ運動である。ただし方向が逆だ。想起されるものはかつてあったものであり、後ろ向きに反復される。これに対して本来の反復は、前に向かって想起される」
想起は過去に手を伸ばす。あの頃は良かった、あの経験をもう一度。しかしキルケゴールの考えでは、過去をそのまま取り戻すことはできない。想起は必ず失敗する。なぜなら、想起している自分はすでに変わっているからだ。
一方、「本来の反復」は前に向かう運動だ。同じ行為をもう一度行うとき、それは過去のコピーではなく、新しい決断として立ち上がる。デンマーク語で反復を意味する Gentagelsen は、文字通り「もう一度取ること」だ。取り戻すのではなく、取り直す。
毎朝同じ時間に起きるという行為は、昨日の朝の繰り返しに見える。しかしキルケゴールの視点に立てば、それは昨日の朝のコピーではない。今朝、あらためて起きることを選んだという、新しい行為だ。
もっとも、朝の通勤電車の中でそれを実感している人が何人いるかは、わからない。
もう一度、まったく同じように
ニーチェは、繰り返しの問いをもっと残酷なかたちで突きつけた。
1882年の『悦ばしき知識』第341番「最も重い重荷」。ある夜、悪魔があなたの最も深い孤独に忍び込んでこう囁く。
おまえが今生きている、そしてこれまで生きてきた、この人生を、おまえはもう一度、さらに無数の回数、生きなければならない。そこには何一つ新しいものはなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽とあらゆる溜息が、同じ順序と連鎖で、おまえのもとに再び来なければならない。
おまえはこの悪魔を呪うか。それとも「おまえは神だ、これほど神々しいことを聞いたことがない」と答えるか。
永劫回帰と呼ばれるこの思考実験を、ニーチェが宇宙論的な仮説として意図したのか、それとも倫理的な試金石として意図したのかは、いまも議論が続いている。しかし、問いの力は明らかだ。
覚えていない火曜日も、退屈な日曜の午後も、何も起きなかった昨日も、すべてがまったく同じ順序で永遠に繰り返されるとしたら。それを肯定できるか。あの退屈を、もう一度。あの虚しさを、もう一度。何も起きなかった日を、何も起きなかったまま、もう一度。
ニーチェはこれを「最も重い重荷」と呼んだ。重いのは、劇的な苦しみの反復ではない。何でもない日々の反復のほうが、ずっと重い。
退屈を削除しますか
思考実験をひとつ。
もし人生から退屈を完全に取り除けるボタンがあったら、押すだろうか。毎日が新鮮で、毎瞬間が刺激に満ちていて、「何も起きなかった日」が二度と来ない人生。
一見、理想に聞こえる。しかし、イーグルマンの話を思い出してほしい。新しい経験が記憶の密度を上げるのだとすれば、すべての瞬間が新しい人生は、すべての瞬間が等しく重い人生だ。何も軽くならない。何も流せない。何も忘れられない。
退屈があるから、特別な瞬間が際立つ。何も起きない日があるから、何かが起きた日を覚えている。もし毎日が旅行なら、旅行はもう旅行ではなくなる。
退屈は、意味を感じるために必要な余白なのかもしれない。
あるいは、それは退屈を正当化するために人間が事後的にこしらえた物語にすぎないのかもしれない。
どちらでもいい。どちらが正しくても、明日はまた来る。
何も起きない明日が来る
カミュは、意味がなくても押せと言った。キルケゴールは、同じに見える行為の中に新しさを見ろと言った。ニーチェは、すべてをもう一度望めるかと問うた。イーグルマンは、脳がどう時間を圧縮するかを測った。
哲学者たちの言葉を並べてみたところで、明日の朝が劇的に変わるわけではない。目覚ましが鳴り、同じ時間に起き、同じものを食べる。夜になって、今日何をしたか思い出そうとして、何も浮かばない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは明日も、何も起きなかった今日を忘れる。覚えていないことを悔やむことすらできない。悔やむためには、何かがあったという記憶が必要だからだ。何もなかったという記憶は、記憶としてすら残らない。
あなたの人生の大部分は、あなた自身にとって存在しなかったことになる。
それを不幸と呼ぶか、自由と呼ぶかは、好きにすればいい。どうせ明日には忘れている。