幸福という自殺

あなたの幸福が、すべて嘘だったとする。安らぎも、達成感も、誰かに愛されているという確信も、一つ残らず精巧に設計された幻だったとする。

あなたはその幻を壊した者に感謝するだろうか。それとも「余計なことをするな」と言うだろうか。

この問いに即座に答えられる人を、少し疑ったほうがいい。50年以上、哲学者たちはこの問いの前で立ち往生している。答えが出ないのではない。問いのほうが、底なしに深くなっていく。

影の中は暖かい

プラトンは『国家』の第七巻で、ひとつの寓話を描いた。地下の洞窟に生まれ落ち、一度も外の光を知らない人々。彼らは壁に映る影を現実のすべてだと信じ、影の名前を覚え、影の動きを読む技術を競い合い、それなりに充実した日々を送っている。

ある日、一人が鎖を解かれて外に出る。太陽の光に目を灼かれ、やがて世界の本当の姿を知る。影は影にすぎなかった。

ここまではよく語られる。だが、あまり語られない部分がある。

洞窟に残った人々は、不幸だっただろうか。

彼らは何も失っていない。外の世界を知らないということは、欠落を感じようがないということだ。影を現実だと信じることに苦痛はない。鎖は、それが鎖だと知らなければ温かい。苦痛が生まれるのは、影が影だと気づいた瞬間だけだ。

では、外に出た者はどうか。プラトン自身が記しているように、洞窟に戻って真実を語れば、彼は狂人扱いされるか、殺される。真実は手に入った。居場所は消えた。

プラトンはそれでも真実の側に立った。太陽を見た者の人生のほうが善い、と。

だが、その「善さ」は、幸福とは別の何かだ。

完璧な嘘を売る機械

1974年、哲学者ロバート・ノージックは著書『アナーキー・国家・ユートピア』の中で、ひとつの思考実験を提示した。

あなたの脳に電極をつなぎ、望みうるあらゆる幸福な経験を完璧に再現する機械がある。恋愛、創作の達成感、知的な興奮、友人との語らい。感覚としては現実と区別がつかない。あなたは水槽の中に浮かんでいるだけだが、そのことには永遠に気づかない。

一生、つながるか。

この問いが狙うのは快楽主義だ。「幸福とは快い経験の総量であり、それこそが人生における唯一の内在的善である」とする立場。もしこの立場が正しいなら、経験マシンを拒否する合理的な理由はない。

ところが、Dan Weijersの2014年の調査研究では、被験者の約84%がマシンへの接続を拒否した。

完璧な幸福を差し出されて、逃げる。逃げておきながら、明日の朝にはまた幸福を欲しがる

拒む理由は3つあるらしい

ノージックは、人々がマシンを拒む理由を3つ挙げた。

何かを「する」ことへの欲求。 私たちは体験するだけでなく、実際に何かを行うことを望む。小説を書いた気分ではなく、実際に書きたい。ただし、ノージック自身がその直後に括弧でこう書き添えている。「しかし、なぜ私たちは、経験するだけでなく、実際に行為することを望むのか?」 答えは、書かれていない。

何者かで「ある」ことへの欲求。 水槽に浮かぶ人間は何者でもない。勇敢か、優しいか、知的か。判別が困難なのではなく、そもそもそうした性質を持ちえない。ノージックの言葉を借りれば、「マシンにつながることは一種の自殺である」。

人工的な現実の外への欲求。 マシンの中では、人間が構築した世界を超えた「より深い現実」との接触がない。深遠さの経験はシミュレートできても、それは実際の接触ではない。

一見、納得がいく。しかしこの3つは答えではない。別の、より厄介な問いを開いただけだ。

すでにつながっている

思考実験から離れて、足元を見る。

SNSで「いいね」をもらう。嬉しい。画面の向こうの人間が本気でそう思ったか確認のしようはないが、嬉しい。ゲームで何かを成し遂げる。充実感がある。その達成は「現実」ではないが、充実感は「本物」だ。その差を、正確に言語化できるだろうか。

1999年の映画『マトリックス』で、裏切り者サイファーは仲間を売ってでも仮想現実に戻ることを選ぶ。「このステーキが存在しないことは知っている。口に入れれば、マトリックスが脳においしいと教えてくれる。9年かかって気づいたよ。無知は至福だ」。

サイファーを軽蔑するのは簡単だ。あなたの日常が彼の選択とどれほど違うかは、そう簡単ではない。あなたの現実に根拠があると証明できる人間は、どこにもいない

恋人が嘘をついている。あなたはそれを知らない。毎日は穏やかで、あなたは幸せだ。友人がその事実を知ったとき、伝えるべきだろうか。政府が国民のために不都合な真実を伏せることは許されるか。アルゴリズムがあなたの見たいものだけを選別し、見たくないものを静かに消していることは。

「幸福か真実か」は、思考実験の中だけの問いではなかった。私たちの日常はその回答例で溢れている。そしてほとんどの場合、あなたはもう選んでいる。知らないふりをすること、深く追わないこと、見ないことにすること。それもひとつの選択だ。

反論という名の沼

ノージックの議論にも、当然、批判はある。

最も有力なのは「現状維持バイアス」の指摘だ。人がマシンを拒むのは、真実に価値を見出しているからではなく、ただ変化を恐れているだけかもしれない。

哲学者フェリペ・デ・ブリガードは2010年の実験でこれを検証した。シナリオを反転させ、「あなたはすでに経験マシンの中にいる。現実に戻るか、このまま留まるか」と被験者に問うた。結果、現実に戻ることを選んだ被験者はわずか13%だった。ノージックのオリジナルでは大多数がマシンを拒否したのと、ほとんど鏡像のような結果だ。

デ・ブリガードの結論はこうだ。人がマシンを拒否するのは、現実のほうが「良い」からではない。今いる場所がどこであれ、そこから動きたくないだけだ。

快楽主義の側からも反撃がある。そもそもマシンを拒否する動機こそ快楽主義的ではないか、と。「現実に留まりたい」という直感は、そのほうが長い目で見て心穏やかでいられるという判断にすぎないかもしれない。エピクロスが論じたように、最も深い快楽とは刹那的な満足ではなく、持続的な心の平穏、アタラクシアのことだ。マシンを拒むことは快楽主義への反証ではなく、むしろその最も洗練された発現かもしれない。

どの反論も決定的ではない。どの再反論も決定的ではない。沼に足を踏み入れるほど、底は遠くなる。

誰も知らない名前

「つながるかどうか」という問いは、いつの間にか後景に退いている。

そもそも、幸福とは何か。

主観的に幸福を感じていれば、それは幸福か。それとも何か客観的な条件が要るのか。主観で十分なら、マシンの中の幸福は完全に「本物」であり、拒む根拠は消える。客観的条件が必要なら、その条件とは何か。いまだ誰も合意に至っていない。

ノージック自身、1989年の著書『エグザミンド・ライフ』で、幸福は人生の物語のほんの一部にすぎないと認めている。ではその物語とは何か。彼はそこに深く踏み込まなかった。

ジョン・スチュアート・ミルは『功利主義論』にこう書いた。「満足した豚であるより不満足な人間であるほうがよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスであるほうがよい」。

美しい一節だ。ただ、その不満足なソクラテスは毒杯を飲まされて死んだ。考えなければよかったのに、もう遅い

洞窟の外の洞窟

仮にあなたが真実を選んだとしよう。目は開いている。不幸かもしれないが、少なくとも覚醒している。

その後どうなるか。

真実を知った先に、新しい幸福を築けるかもしれない。保証はない。そして、その新しい幸福もまた不完全な認識の上に建っているとしたら、あなたは再び同じ問いの前に立つことになる。

人間の認識には限界がある。何も確かではない。「真実」と呼んでいるものは、今の自分に見えている範囲でしかない。より大きな視座から見れば、それもまた一つの影にすぎないかもしれない。

「不幸だが真実を知っている人生」という選択肢は、最初から存在しないのかもしれない。あるのは「より多くを知っているつもりの人生」と「より少なく知っていて、そのことに気づかない人生」の間の、程度の差だけだ。

洞窟の外に出た者が見た太陽が、より大きな洞窟の壁に映った光だったとしたら。

電極はもう刺さっている

この問いに正解はない。おそらく永遠にない。

プラトンは真実を選んだ。快楽主義者は幸福を選んだ。ノージックは真実に傾いたが、論証は決定的ではなかった。何千年もの間、この問いに挑んだ人間の総力をもってしても、議論は収束する気配がない。

マシンの中で「出たい」と望んだとする。その望みは自由意志から生まれたのか、プログラムの一部か。全人類がつながったら、「現実」という語はどこに行くのか。

あなたが今読んでいるこのテキストは、光の点滅が網膜を通じて脳内の電気信号に変換されたものだ。読み終えたあと、何かを感じるかもしれないし、何も感じないかもしれない。どちらでも構わない。それが「本物の」経験かどうかを保証してくれる存在は、この宇宙のどこにもいない。

完璧な幸福を拒んだあなたに聞きたい。何を根拠に拒んだのか、言葉にできますか。

そしてその言葉が、本当にあなた自身のものだと、どうやって確かめますか。

Read more

暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu