全知の退屈
もしあらゆることを知れるとしたら、あなたは知りたいだろうか。ほとんどの人は、反射的に「知りたい」と答える。知識は善いものだと、私たちはずっと教わってきた。知は力であり、光であり、自由だと。けれど、それは「まだ何も知らない」側にいる者の感想にすぎない。すべてを知った先に何があるのかを、誰も見たことがない。
おそらく、見ないほうがいい。
知るなと言われていた
人類がもっとも古くから語り継いできた物語のひとつは、知ることへの警告だった。
旧約聖書の創世記には、エデンの園に「善悪の知識の木」が立っていたとある。食べてはならない、と神は言った。しかしアダムとイヴはそれを食べた。手に入れたのは知識だった。失ったのは楽園だった。
ギリシア神話のプロメテウスは、神々から火を盗み、人間に与えた。火は技術であり、文明であり、知の象徴として読まれてきた。その代償として彼は岩山に鎖で繋がれ、鷲に肝臓を啄まれ続けた。ゲーテの『ファウスト』では、あらゆる学問を修め尽くした博士が、それでも満たされず、悪魔メフィストフェレスと契約を結ぶ。
文化も時代も違うのに、この構図は繰り返される。知への渇望が破滅を招く物語を、人類はなぜこれほど好んで語り続けてきたのか。
おそらく、本当に恐れられていたのは知識そのものではない。知ってしまったあとに、もう知らなかった頃には戻れない、ということだ。もっとも、「何も確かではない」のだとしたら、知ったつもりになっているだけかもしれないが。
好奇心の墓標
すべてを知ったら、もう何も学ぶことがない。
文字にすると当たり前のことだけれど、これは想像以上に厄介な問題だ。朝起きてニュースを開く。気になった本を手に取る。誰かの話に耳を傾ける。知らない道を歩いてみる。こうした日常の小さな行為はすべて、「まだ知らない何か」へ向かう運動だ。知らないことがあるからこそ、次の一日に意味が生まれる。
もしすべてを知ってしまったら、この運動が止まる。学ぶ喜びも、発見の興奮も、何かを理解した瞬間の静かな充足も、すべて過去のものになる。
ソクラテスは、自分が無知であることを知っていると語った。プラトンの『ソクラテスの弁明』に描かれたこの洞察は、謙虚さの美徳として語られることが多い。しかし、少し意地悪く読むなら、こうも言える。知らないということだけが、人間を前に進ませている。
全知とは、好奇心の墓石のようなものかもしれない。その下に眠っているのは、かつて世界を面白がっていた自分自身だ。
不死もまた、時間の側から同じ場所にたどり着く。永遠に生きるとは、あらゆることへの関心がいつか枯渇するということだ。「どうせ死ぬ」という制約だけが、世界を面白がる期限を設けている。
選べない全知
「すべてを知る」という言葉には、見落とされがちな含意がある。
「すべて」には、知りたいことだけではなく、知りたくないことも含まれる。
自分がいつ、どのように死ぬか。大切な人が心の奥で何を考えているか。信じていたものの裏側。この世界がどう終わるか。
全知とは、選べないということだ。知識のビュッフェではなく、メニューのないフルコースだ。食べたくない皿もすべて目の前に並ぶ。
私たちが「知りたい」と言うとき、本当は「知りたいことだけを知りたい」と言っている。都合のいい全知。そんなものは存在しない。
全知を望むということは、知りたくないものまで引き受ける覚悟があるか、ということだ。しかも、引き受けたところで手に入らないものもある。赤についてのあらゆる物理的事実を知っていても、赤を一度も見たことがなければ、あなたはまだ何かを知らない。「あなたは赤を知らない」のだ。全知の「すべて」は、最初から何かを取りこぼしている。
選択の消滅
全知が未来の知識をも含むなら、問題はさらに根深くなる。
明日何が起きるかを完全に知っている者は、果たして「選んでいる」と言えるだろうか。
「明日、自分はAではなくBを選ぶ」とあらかじめ知っている場合、Bを選ぶことは「選択」なのか。それとも、決定済みの台本をなぞっているだけなのか。
ここで古典的な思考実験を思い出す。ラプラスの悪魔だ。数学者ピエール=シモン・ラプラスは1814年の著作『確率の哲学的試論』の中で、もしある知性が自然を動かすすべての力と、自然を構成するすべての存在の状態を知っていれば、その知性にとって不確かなものは何もなくなり、未来も過去もその目の前に現れるだろう、と述べた。全知者とは、いわばこの知性と同じ存在だ。
しかし、その全知者が自分自身の未来も知っているとしたら。すべてがあらかじめ見えている人生は、結末を知っている映画に似ている。それでも座席に座り続けるしかない。巻き戻しも早送りもできない。
自由意志の有無をここで議論したいわけではない。ただ素朴に聞きたいのは、こういうことだ。先の見えている人生を、生きたいか。もし未来の自分にひとつだけ質問できたとしても、答えを聞いた瞬間にその未来は壊れる。「未来の自分は答えない」のは、たぶん、答えるわけにはいかないからだ。
溺死の途中
この話を、遠い空想として聞いていられるだろうか。
現代は、人類史上もっとも多くの情報にアクセスできる時代だ。手のひらの端末ひとつで、かつての百科事典では到底収まりきらない規模の情報に触れることができる。知ろうと思えば、たいていのことは数秒で知れる。
そして、それで幸福になったか。
情報過多という言葉は、もはや新鮮でもなんでもない。SNSのタイムラインは、頼んでもいない情報を絶え間なく流し込んでくる。世界の裏側の災害。誰かの成功。今日の炎上。明日の不安。そして耐えきれなくなったとき、画面を閉じるのではなく、また別の画面を開く。「暇が怖いだけ」なのだとしたら、私たちは情報に溺れているのではない。空白から逃げ続けているだけだ。
全知とは、この状態の究極形だ。フィルターもミュートも存在しない世界で、あらゆるタイムラインが同時に流れ込んでくる。
「すべてを知りたい」と望む人は、今この瞬間、すでに情報の海で息が苦しくなっていることに気づいているだろうか。
答えのない問いだけが残る
この記事に結論はない。
「知りたい」も「知りたくない」も、どちらもひとつの立場にすぎない。そしてどちらの立場も、「まだ知らない」という前提の上にしか成り立たない。
全知を想像することは、結局のところ、自分が何を知りたくて何を知りたくないかを棚卸しする作業に似ている。そしてその棚卸しを始めた時点で、私たちは自分の知識に都合のいいフィルターをかけていることに気づく。完璧な幸福を約束する機械を差し出されても、ほとんどの人はつながることを拒む。「幸福という自殺」を避けておきながら、日常では同じフィルターを黙って受け入れている。都合のいい全知と都合のいい無知は、たぶん同じものの裏表だ。
知るとは何か。知りたいとは何か。知らないでいることは、無知だろうか。それとも、それだけが自由だろうか。
もし忘れることさえ許されなくなったら、それでも生きていたいか。