一体なにがのこるんだっていうんだ

あなたが死んだあと、世界に何かひとつだけ残せるとしたら、何を残すだろう。

こういう問いが、ときどきSNSのタイムラインに流れてくる。深夜のRedditで、匿名の誰かがふと投げかける。返信欄にはそれぞれの真剣さと軽薄さが混ざり合っていて、どれも少しだけ本気で、少しだけ怯えている。

厄介なのは、答えようとした瞬間に、自分が何を大事にしているかが露呈してしまうことだ。本を残すと言えば知性への執着がばれる。人の記憶と答えれば関係への依存が透ける。何も残さないと言えば、それがポーズなのか諦念なのかを見抜かれる。

問いそのものが、罠なのだ。

青銅より永く

ローマの詩人ホラティウスは、自分の詩集をこう結んだ。「青銅よりも永い記念碑を、私は建てた」(Exegi monumentum aere perennius)。『歌集』第三巻の最後を飾る、堂々たる宣言。

二千年以上が経って、その言葉は実際に残っている。ホラティウスの自負は正しかった。青銅の像が溶かされても、言葉は写本され、印刷され、いまやデジタルデータとして複製されている。ただし、それを今読んでいる人間がどれだけいるかは、また別の話だ。

残るということと、届くということは、まったく違う。図書館の奥に埃をかぶった本がある。データセンターのどこかに、二度とアクセスされないファイルがある。残ってはいる。確かに残っている。でも、忘れられるとしても残り続けるものを、「残した」と言えるだろうか。

ホラティウスは記念碑を建てた。だがその記念碑の前に立つ人が誰もいなくなったとき、それでも記念碑と呼べるのだろうか。

始まりの暴力

ハンナ・アーレントは『人間の条件』のなかで、人間の活動を三つに分けた。生命を維持するための「労働」。世界に耐久性のあるものをつくる「仕事」。そして他者のあいだで何か新しいことを始める「活動」。

アーレントにとって、「活動」こそが人間を人間たらしめるものだった。人は生まれてきたという事実、つまり「誕生性(natality)」そのものによって、世界に何か新しいことを始める能力を持っている。それは本質的に予測不可能で、取り消しがきかない。活動は始めた本人の手を離れ、他者の反応と応答のなかで思いもよらない方向へ転がっていく。

何かを世界に残すとは、この意味での「始まり」を世界に投げ込むことなのかもしれない。誰にも頼まれていないのに世界に投げ込まれた存在が、今度は自分から何かを投げ返そうとしている。

でもそれは同時に、投げたものがどこに着地するかを一切制御できないということだ。善意で書いた言葉が百年後に悪用されるかもしれない。革命のために描いた絵がリビングのインテリアになるかもしれない。

残すとは、手放すことだ。手放す覚悟のないものは、残せない。

仕事のない動物

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』のなかで、少し変わった問いを立てた。大工に大工の仕事があり、靴職人に靴職人の仕事があるように、人間にも「人間としての固有の仕事(エルゴン)」があるのではないか、と。

もしあるとすれば、人間がよく生きるとは、その固有の仕事をよく遂行することになる。ではその仕事とは何か。理性に基づく魂の活動だ、とアリストテレスは答えた。

だが、その答えを聞いて腑に落ちる人がどれだけいるだろう。

「あなたの固有の仕事は何ですか」と問われて即答できる人間が、いったいどれだけいるのか。仮にそんなものがあるとして、それを残すべき「ひとつ」に選べるほど、私たちは自分のことを理解しているだろうか。

「残すべきもの」がわかるためには、まず自分が何者かがわからなければならない。でも自分が何者かなんて、生きている間はずっとわからないままだ。死んでからようやくわかるのだとしたら、それはもう手遅れだ。

選べという残酷

「ひとつだけ」という制約が、この問いを残酷にしている。

ひとつに絞るとき、残りのすべてを捨てることを強いられる。家族の記憶か、自分の作品か。技術的な功績か、誰かとの約束か。何を残すかではなく、何を諦めるかが問われている。

そしてたいていの場合、本当に大事なものはひとつに絞れない。絞れないということ自体が人生の豊かさの証拠なのかもしれないし、単なる優柔不断の言い訳なのかもしれない。

どちらにしても、ひとつを選ぶという行為は、それ以外のすべてに「あなたはそこまで大事ではなかった」と告げることだ。どう選んでも間違う。残すものを選ぶとは、残さないものを切り捨てることでもある。

デジタルの墓場

現代では、死んだ後にも残るものが勝手に増えていく。

SNSの投稿。クラウド上の写真。サブスクリプションの契約。ストリーミングサービスの再生履歴。誰かに送ったメッセージ。削除し忘れたブックマーク。

デジタルデータは残そうとしなくても残る。むしろ消すほうが難しい。誰もまだ死んでいないのに、私たちはもう、望むと望まざるとにかかわらず、膨大な痕跡を世界に撒き散らしながら生きている。

そのなかから「ひとつだけ選べ」と言われても困るのだ。すでに残りすぎている。

しかもそれらの痕跡は文脈を失っている。五年前のSNSの投稿は、そのときの気分も状況も剥ぎ取られて、文字列だけが浮遊している。百年後に誰かがそれを掘り起こしたとして、その人はあなたを理解するだろうか。それとも、誤解するだろうか。

誤解される可能性のあるものを残すのと、何も残さないのと、どちらが誠実だろう。

何も残さない

「何も残さない」を積極的に選ぶことはできるだろうか。

仏教的な文脈では、執着を手放すことが苦からの解放とされる。遺すことへの欲求そのものが苦しみの源であるなら、何も残さないことこそ最も自由な選択だという考え方もありうる。

一方で、「何も残さない」と宣言すること自体がひとつのポーズでもある。何も残さないという選択は、「残さないことを選んだ」という事実を残してしまう。完全な無痕跡は、意図して達成できるものではない。

生きた以上、何かが残る。残ることを避けることはできない。どうせ全部消えるとしても、消えるまでのあいだ、痕跡は世界に居座り続ける。

問題はたぶん、何を残すかではない。何が残ってしまうか、だ。そして残ってしまったものを誰がどう扱うかは、もう自分には関係のないことだ。

自意識の底

この問いに答えはない。あるのは、問いの前に立たされたときの、それぞれの狼狽だけだ。

本を残すと言った人は、本当に本を残したいのか。それとも「本を残したいと言う自分」を残したいのか。何も残さないと言った人は、本当にそう思っているのか。それとも「何も残さないと言えるほど達観した自分」を演じたいだけなのか。

どこまで掘っても、出てくるのは自意識だ。

たぶん、本当に残るのは、残そうとしなかったもののほうだ。不意にこぼれた言葉。意図しなかった影響。覚えてすらいない小さな親切。制御できないものだけが、世界に染み込んでいく。

そうだとしたら、「何を残すか」という問いそのものが、最初から的を外していたのかもしれない。

残すべきものなど、はじめからなかったのだ。

それでも、この問いが気になって仕方がないのは、なぜだろう。たぶんそれは、意味という病のいちばん厄介な症状だ。


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