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ことばと文学

自由意志が消えた世界で私たちが恐れていたもの

「自由意志は存在しない」。この言葉を聞いて平静でいられる人は少ない。「じゃあ犯罪者を罰する意味がないのか」「努力しても無駄なのか」「全部決まっているなら生きる意味がない」。こうした反応は自然だが、いずれも勘違いに基づいている。 勘違い1:「決まっている」と「強制されている」の混同 「自由意志がない」と聞いて最初に浮かぶイメージは、自分の行動が何かに強制されているというものだろう。しかし、因果決定論が主張しているのはそういうことではない。 因果決定論は、「宇宙のすべての出来事は先行する原因の結果である」という主張である。あなたが今この記事を読んでいるのも、朝コーヒーを飲んだのも、過去の原因の連鎖の結果であるという考え方だ。 しかし、「原因がある」ことと「強制されている」ことは別である。明日の天気は物理法則によって因果的に決定されているが、天気が「強制されている」とは言わない。同様に、あなたの選択が因果的に決定されているとしても、それは誰かに強制されているのとは異なる。 脅迫されて行動するのと、自分の欲求や信念に基づいて行動するのは、たとえ両方が因果的に決定されていたとしても、

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

星だけが増えていく沈黙の宇宙

1950年、ロスアラモスの食堂。物理学者エンリコ・フェルミが同僚たちの雑談に割って入った。 "Where is everybody?" みんなはどこにいるんだ。76年が経った。返事は来ていない。 宇宙には観測可能な範囲だけでおよそ2兆の銀河がある。天の川銀河だけで数千億の恒星がひしめき、そのうち相当数が居住可能領域に惑星を持つ。確率的に考えれば、どこかに知的生命がいてもおかしくない。いてもおかしくないどころか、いないほうが不自然に見える。 なのに、何も見つからない。信号も、痕跡も、残骸すらない。 科学者たちはこの矛盾をフェルミのパラドックスと名づけた。だが、矛盾しているのは宇宙のほうだろうか。それとも「いるはずだ」と期待してしまう、こちらの推論のほうだろうか。 食堂で生まれた問い フェルミの問いが厄介なのは、それが直感的に正しく聞こえるからだ。 宇宙は約138億年前に始まった。地球は約46億年前に形成され、生命は少なくとも38億年前には出現していたとされる。宇宙の年齢からすれば、地球の生命はかなり早い段階で生まれたことになる。ならば、地球より数十億年早くできた惑星で、

By Sakashita Yasunobu

大学生活

退屈な講義が思考の実験室に変わる瞬間

90分の講義がどうしても退屈なとき、選択肢は3つある。寝る、スマートフォンを触る、あるいは頭の中で「勝手な研究」を始める。 3つ目の選択肢は、退屈な授業を「思考の実験室」に変える技術だ。真面目な研究計画ではない。知的な遊びの作法である。 反例を探す 教員が「一般にAである」と言ったら、「Aでない場合は何か」を考える。 たとえば「民主主義は合意形成のための制度である」と聞いたら、合意が形成されなかった事例を探す。多数決で少数派が常に排除される場面、投票率が低すぎて「合意」と呼べない場面。「一般に」という枕詞が出てきたら、それは反例を探すための合図だと思っていい。 反例が見つかったとき、それは教員の主張が「間違っている」証拠ではない。その主張が成り立つ範囲を明らかにする手がかりだ。 前提を崩す どんな議論にも、暗黙の前提がある。前提崩しとは、「この議論が成り立つために、何が仮定されているか」を問うことだ。 「教育は人を成長させる」と言われたら、そこには「成長は望ましいものだ」「教育の目的は成長だ」という前提が隠れている。その前提を疑ってみる。成長しないことに価値がある場

By Sakashita Yasunobu

大学生活

ぼっちで過ごす大学生活が本当に詰むパターン・詰まないパターン

詰むパターン。 なし。 以上。 …と言い切りたいところだが、さすがに乱暴なので少し補足する。 「ぼっち=詰む」は思い込み 「大学でぼっちだと詰む」という言説はネット上に溢れている。友達がいないと過去問が手に入らない。グループワークで孤立する。就活の情報が入ってこない。飲み会に呼ばれない。 このうち、本当に大学生活を脅かすものがいくつあるか、冷静に数えてみてほしい。 飲み会に呼ばれないことは、大学生活が「詰む」こととは関係がない。過去問がなくても試験は受けられる。むしろ過去問に頼らずに自分で教科書とノートを読み込んだほうが、理解は確実に深まる。 「ぼっち=詰む」という図式は、大学の構造を理解していないことから生まれる誤解だ。大学は高校とは違う。クラスがなく、担任がおらず、同じメンバーと毎日顔を合わせる仕組みになっていない。一人でいることは、この環境ではまったく自然な状態だ。 詰まないパターン(ほとんど全部) 具体的に見ていこう。 講義。大学の講義は基本的に個人で受けるものだ。隣に友達がいようがいまいが、教員の話を聞き、ノートを取り、課題を提出するという流れは変わ

By Sakashita Yasunobu

生きること

幸せを追う手がすべてを遠ざける

幸せになりたいと思った瞬間、幸せは一歩遠ざかる。もう一歩近づこうとすると、もう一歩逃げる。これは比喩ではない。哲学が二百年かけてたどり着いた、ほとんど冗談のような構造的事実かもしれない。 快楽を目的にすると快楽が手に入らない。ヘンリー・シジウィックは『倫理学の方法』でこの構造を「快楽主義のパラドックス」と名づけた。そしてこのパラドックスは、いまだに解かれていない。解かれていないどころか、あなたの生活の中で、毎日、静かに作動している。 ミルが崩れた朝 ジョン・スチュアート・ミルは20歳で壊れた。 ベンサム流の功利主義を幼少期から叩き込まれ、「最大多数の最大幸福」を人生の座標にしていた青年が、ある朝ふと自問する。「すべての改革が実現したとして、それは自分にとって大きな喜びだろうか?」。答えは、Noだった。 ミルはこの経験を『自伝』第5章「わが精神の危機」に記している。目標がすべて達成されても幸福にならないのなら、その目標の追求とはいったい何だったのか。目的地にたどり着いたはずなのに、そこには何もなかった。彼が直面したのは、快楽主義のパラドックスの個人版だったのかもしれない。

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

すべてを買えるようになった人々が引き換えにしたものの目録

資産が10億ドルを超えた人間の生活は、もはや「裕福」という言葉では捉えられない。金額の大きさそのものよりも、その金額が日常の判断構造をどこまで変形させるかに本質がある。億万長者が常軌を逸しているとすれば、それは贅沢をしているからではない。意思決定の前提そのものが、大多数の人間とまったく異なる座標系に移動しているからである。 時間と金の等価性が壊れる 年収400万円の人にとって、1時間の労働には約2,000円の対価がある。だから自分で料理をつくり、自分で掃除をし、自分で移動手段を手配する。それが合理的だからである。 しかし資産が1,000億円を超えると、この計算が反転する。1時間あたりの機会費用が数百万円に達するとき、「自分でやる」という選択はほぼすべて非合理になる。移動はプライベートジェット、食事は専属シェフ、日程管理は複数のアシスタント。これは贅沢ではなく、彼らの座標系においては単なる最適化である。 問題は、この最適化が人間の経験を削り取ることにある。スーパーで食材を選ぶ時間、電車の中でぼんやりする時間、道に迷って偶然の店に入る時間。そうした非効率の中にこそ、生活と呼ばれる

By Sakashita Yasunobu

大学生活

「インスタ教えて」と言ったとき距離はもう決まっていた

おじさんたちは簡単だ。 目的が達成されればいい。 だから、会社では未だにメールが山ほど送受信され、先進的な企業ではTeamsやSlackが使われ続ける。彼らはインターネットが死んだら、FAXでも手紙でもかまわないのだろう。少し面倒だが、目的が達成できればそれでいい。 一方で若者はそうじゃない。 裏垢を駆使し、家族にはLINEで連絡し、友達とはInstagramで連絡を取る。連絡先を交換するとき、「LINE教えて」ではなく「インスタのアカウント教えて」と言う場面が増えている。同じ「メッセージを送る」という機能なのに、LINEのトークとInstagramのDMでは、心理的な距離感がまるで違う。 なぜそうなるのかを考えると、プラットフォームの設計そのものがコミュニケーションの作法を規定しているという、少し厄介な事実に行き当たる。 プロトコルが違う 現代音楽が理解不能に感じる理由で、「耳のプロトコル」について書いた。調性音楽に最適化された耳は、異なるプロトコルの音楽に出会ったとき「理解不能」と判定する。聴いている音が変なのではなく、耳のほうが特定の聴き方に訓練されているだけだ。

By Sakashita Yasunobu

大学生活

集中力が最も高い時間帯の錯覚

「朝5時に起きてから午前中に最も重要な仕事を片付ける」。自己啓発の世界では、これがほとんど教義のように語られている。 一方で、「自分は夜型だから深夜に集中する」と信じている人もいる。午前2時のキーボードの音だけが響く部屋で、日中にはない冴えを感じると。 どちらも、半分正しくて半分間違っている。 クロノタイプという個人差 人間の体内時計には、生まれつきの個人差がある。「クロノタイプ」と呼ばれるこの傾向は、体質的に朝に活動のピークが来る人と、夜にピークが来る人を区別するものだ。 これは怠惰や努力の問題ではない。遺伝的・生理的な基盤を持つ生物学的な特性だ。思春期には夜型傾向が強まり、加齢とともに朝型に移行する傾向があることも知られている。つまり、大学生の多くが夜型に傾くのは、生活習慣の問題であると同時に、年齢に伴う生物学的な傾向でもある。 東京医科大学の研究グループが約1万人を対象に行った調査では、クロノタイプそのものは直接的に生産性を低下させないことが示されている。しかし、自分のクロノタイプに合わない時間帯に活動を強いられると、睡眠の質が低下し、それを介して生産性が落ちる。朝

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

誰も等しくなれない世界で選び続けること

「公平な社会をつくるべきだ」という主張に反対する人はほとんどいない。しかし「公平とは何か」を定義しようとした瞬間、合意は崩壊する。結果を等しくすることなのか、機会を等しくすることなのか、貢献に応じて分配することなのか、必要に応じて分配することなのか。これらは互いに矛盾し、どれを選ぶかによって社会の設計はまったく異なるものになる。公平は理念としては美しいが、実装しようとすると必ず何かを犠牲にする。その犠牲の中身を見ずに「公平」を語ることはできない。 四つの公平、四つの矛盾 公平の定義は少なくとも四つある。 第一に、結果の平等。全員が同じ量の資源を受け取る。最も直感的だが、最も実現困難な定義である。人間の能力、意欲、環境が異なる以上、同じインプットを与えても同じアウトプットにはならない。結果を揃えようとすれば、アウトプットの段階で強制的な再分配が必要になる。 第二に、機会の平等。全員が同じスタートラインに立つ。しかしスタートラインを揃えること自体が幻想である。生まれた家庭の経済力、遺伝的な知能や体力、育った地域の教育環境。これらを完全に均すことは原理的に不可能であり、配られたカー

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大学生活

宿題にAIを使ったのはばれますか

はい、ばれる。 これで終わりにしてもいいのだが、もう少しだけ続ける。なぜばれるのか。どうばれるのか。そしてばれた先に何があるのか。 なぜばれるのか AIが生成した文章には、いくつかの特徴がある。読み慣れた人間には、それが透けて見える。 まず、文体の均一性だ。人間が書く文章には癖がある。語彙の偏り、接続詞の選び方、句読点の打ち方。同じ人間でも、文章の前半と後半で調子が微妙に変わる。考えがまとまっている部分は流暢になり、自信のない部分はぎこちなくなる。そのムラこそが「その人が書いた」証拠だ。 AIの文章にはこのムラがない。最初から最後まで同じトーンで、同じ精度で、同じリズムで書かれている。一見すると「上手い文章」に見えるが、実際には「誰の文章でもない文章」だ。読み手はそこに人間の思考の痕跡を見つけられず、違和感を覚える。 次に、具体性の欠如だ。AIは一般論を生成するのが得意だが、特定の文脈に根ざした具体的な観察を持っていない。「この講義で扱われた議論」、「先週の発表で指摘された論点」といった、その場にいた人間にしか書けない記述が、AI生成文にはない。抽象的に正しいことが並んで

By Sakashita Yasunobu

技術

翻訳が限りなく安くなる世界で言葉はどこへ向かうのか

翻訳は長い間、贅沢品だった。 日本語の文書を英語にする。プロの翻訳者に依頼すれば、日英翻訳で1文字あたりおよそ10円から20円が相場だ。1,000文字の文書で1万円前後。書籍1冊分(10万文字)なら100万円を超えることも珍しくない。この価格は、二つの言語の構造を理解し、文脈を読み、文化的なニュアンスを調整する知的労働への対価だ。安くはない。しかし不当でもない。 ところが、この構造が揺らぎ始めている。大規模言語モデル(LLM)の登場によって、翻訳コストに3桁の変動が起きた。 桁が違う コストを並べてみる。 プロの人間翻訳は、日英で1文字あたり10円から20円。専門分野(法務、医療、特許)ではさらに上がることもある。品質保証と校正を含めた価格だ。 ニューラル機械翻訳サービス(DeepLやGoogle翻訳の有料版など)は、月額制のサブスクリプションで大量のテキストを処理できる。1文字あたりのコストに換算すると、人間翻訳の数百分の一以下になる。 LLMのAPIはさらに話を複雑にする。料金は入力トークンと出力トークンの量で決まるが、日本語は英語に比べてトークン効率が低い。英語な

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

「人それぞれ」が静かに殺すもの

「人それぞれだよね」。この言葉が議論の中で出てきた瞬間、会話は終わる。相対主義がそういうものだと思われているなら、それは哲学にとって最大の風評被害である。 相対主義の「対象」を分けていない問題 相対主義を「何でもあり」と解釈する人の多くは、相対主義が何について相対的だと言っているのかを区別していない。哲学における相対主義には、少なくとも3つの異なる対象がある。 真理の相対主義。 「真理は文化や時代によって異なる」という主張である。たとえば「地球が宇宙の中心である」は、かつてある文化圏で真理とされていた。真理の基準が歴史的・文化的に変動することを指摘する立場である。 価値の相対主義。 「善悪の基準は普遍的ではない」という主張である。ある行為が道徳的に正しいかどうかは、文化や共同体の規範に依存するという立場。文化人類学における文化相対主義はこの系統に属する。 認識の相対主義。 「世界の見え方は認識の枠組みに依存する」という主張である。同じ対象でも、異なる概念体系を通して見れば異なって見えるという立場。 この3つは別々の主張であり、一つを認めたからといって残りも認めなければなら

By Sakashita Yasunobu