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大学生活

大学生になったら使うことを検討すべきアプリ

大学に入ると、管理すべきアカウントが一気に増える。大学のポータル、履修登録システム、学内メール、図書館、各種Webサービス。高校までとは比較にならない数のIDとパスワードを扱うことになる。 ここで紹介するのは「便利なアプリ一覧」ではない。大学生活で必要になる情報管理の習慣と、それを支える道具の話だ。 パスワードマネージャー 最初に導入すべきはパスワードマネージャーだ。理由は単純で、大学生活ではアカウントの数が爆発的に増えるからだ。 大学のポータル、学内メール、LMS(学習管理システム)、図書館のオンラインサービス、就活サイト、各種SNS。これらすべてに異なるパスワードを設定し、頭で覚えるのは現実的ではない。結果として、同じパスワードを使い回すか、覚えやすい短いパスワードに落ち着く。どちらも危険だ。 令和最新版のパスワード要件で整理した通り、NISTのガイドライン(SP 800-63B-4)はパスワードマネージャーの利用を積極的に支持している。サービス側にはパスワードの貼り付けやオートフィルを許可することが求められており、パスワードマネージャーの利用は現代のセキュリティ基準に

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

血のついた旗で手を拭く

暴力は悪い。それはおそらく、地球上のほぼすべての道徳体系が同意する数少ない命題のひとつだ。では、悪を止めるための暴力は。不正を前にして振り下ろされる拳は、それでもなお悪か。 もちろん悪だ。ただし「正しい」悪だ。 そうやって人類は何千年も、血のついた手を正義の旗で拭いてきた。 正義のために暴力を行使する瞬間、私たちは暴力を否定しながら暴力を肯定するという不可能な綱渡りをしている。そしてこの綱は、渡り始めた瞬間に消える。「暴力は悪だ」という原則を守るために暴力を使うとき、原則そのものが足元から崩れ落ちる。あとに残るのは「どの暴力が正しいか」を決める権力闘争だけだ。善も正義もないと言い切ることは簡単だが、それでも人は殴り返さずにいられない。 正しい戦争という自己欺瞞 「正しい暴力」の歴史は古い。アウグスティヌスは4世紀にすでに「正戦論」を整えていた。不正な侵略への抵抗、比例性の原則、最後の手段としてのみ許される武力行使、非戦闘員の保護。トマス・アクィナスがこれを精緻にし、20世紀にはマイケル・ウォルツァーが『正しい戦争と不正な戦争』で現代の国際法にまで接続した。 条件は立派だ。

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

あなたの臓器が五人を生かす朝

五人が死にかけている。それぞれに別の臓器が必要で、提供者はいない。しかし廊下に一人、健康な人間が歩いている。その人を殺して臓器を取り出せば、五人は助かる。 ほとんどの人はこれを拒む。だが「なぜ拒むのか」と問われると、答えに詰まる。 1975年、哲学者ジョン・ハリスはこの光景を制度にした。全国民に番号を割り振り、臓器が必要になるたびコンピュータが番号を選ぶ。呼ばれた人間は死ぬ。残りは生きる。彼はこれを「生存くじ(Survival Lottery)」と呼んだ。 功利主義の計算では、この制度は正しい。一人の死で二人以上が助かるなら、差し引きでプラスになる。しかしこの計算を「正しい」と言い切れる人間がほとんどいないという事実が、この思考実験の核にある。 レバーは引けるのに 1967年、フィリッパ・フットがトロッコ問題を提示した。暴走するトロッコが五人に向かっている。レバーを引けば別の線路に逸れるが、そちらには一人がいる。多くの人はレバーを引く。五人の命と一人の命。算数としては同じだ。 しかし臓器くじでは、同じ5対1の数式に人々は首を振る。トロッコ問題では許容された犠牲が、病院の廊

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

趣味を愛する者だけが辿り着く場所

技術の最前線を走っているのは、なぜプロではないのか。 カメラのレンズ光学テストで最も精密なデータを公開しているのは、メーカーでもプロ写真家でもなく、個人の愛好家が運営するWebサイトだ。天文学の新天体発見において、アマチュア観測者は今なお重要な役割を担っている。世界のインターネットインフラの根幹を支えるLinuxは、一人の大学生が趣味で書き始めたコードから生まれた。 「ハイアマチュア」という言葉がある。もともとはカメラ業界のマーケティング用語として定着した言葉で、プロ向けとエントリー向けの間に位置する製品カテゴリを指していた。しかしこの言葉が示す現象は、カメラ業界に限らない。報酬を受け取らないがゆえに、報酬の論理に縛られない人々が、技術や知識の最前線を開拓しているという構造は、あらゆる分野に見られる。 プロは最先端にいない 直感に反するが、多くの分野でプロフェッショナルは技術の最先端にいない。 理由は単純だ。プロは「仕事として成立する範囲」に最適化する。クライアントが求めているのは「十分な品質」であって「到達可能な最高の品質」ではない。納品物の品質を95点から98点に上げる

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

穴は開いたまま誰も埋めない

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。 この問いに答えた人間は、まだいない。たぶん、これからもいない。1714年、ライプニッツがこの問いを定式化してから3世紀が過ぎた。物理学者が宇宙の始まりを計算し、神学者が第一原因を語り、論理実証主義者が「無意味だ」と宣告した。それでも問いは閉じなかった。ハイデガーはこれを「形而上学の根本問題」と呼んだけれど、根本問題と名付けたところで根本が見えるわけではない。 あなたは今日も、理由なく存在している。 すべてには理由がある、はずだった ライプニッツの充足理由律(Principle of Sufficient Reason)は、こう主張する。 いかなる事実も、それがそうであり他でないための十分な理由なしには、成立しえない。 (『モナドロジー』第32節、1714年) 美しい原理だと思う。あらゆるものに理由がある。この椅子がここにあるのにも、この惑星が青いのにも。世界は説明可能な場所であってほしいという願いを、ライプニッツは原理にまで昇華した。 ところが、この原理を「存在そのもの」に適用した途端、足場が崩れる。 「存在全体」の理由は何か

By Sakashita Yasunobu

技術

星空を眺める

夜空を見上げて、明るい星をじっと見つめる。よく見えるはずだと思って目を凝らすのに、なぜかぼんやりして、はっきりしない。ところが、ほんの少し視線をずらした瞬間、さっきまで見えなかった淡い星がふっと浮かび上がる。 これは錯覚ではない。目の構造がそうさせている。 網膜の二つの顔 人間の網膜には、光を受け取る細胞が二種類ある。錐体細胞と桿体細胞だ。 錐体細胞は網膜の中心部、中心窩と呼ばれる領域に密集している。色を識別し、細かい形を捉える。日中の視覚を担う主役だ。一方、桿体細胞は網膜の周辺部に多く分布している。色はほとんど感じ取れないが、わずかな光にも反応する。暗い場所での視覚は、こちらが支えている。 つまり、目の真ん中は明るい場所に強く、目の端は暗い場所に強い。昼と夜で、網膜の中で主役が入れ替わっている。 星空を眺めるとき、暗い星を直視するということは、光に対して鈍感な中心窩で捉えようとしていることになる。見えないのは当然だ。 逸視という技術 天文観測の世界には「averted vision」という技法がある。日本語では「逸視」と訳されることが多い。やり方は単純で、見たい天

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大学生活

エンジニアを目指す大学生はポートフォリオを作れ

「プログラミングできます」。就職活動の面接でそう言ったとして、面接官はどう判断するだろう。「どのくらいできるんですか」、「何を作ったんですか」。返せる答えがなければ、その一言は空気に溶ける。 ポートフォリオとは、その答えを形にしたものだ。 ポートフォリオは作品集ではない 「ポートフォリオ」と聞くと、デザイナーが見せるような洗練された作品集を想像するかもしれない。エンジニアのポートフォリオは違う。美しさより、中身だ。 エンジニアのポートフォリオとは、自分が何を考え、どんな問題に取り組み、どう解決したかの記録だ。作品の出来栄えだけではなく、その裏にある思考の過程に価値がある。なぜその技術を選んだのか。どこで詰まり、どう乗り越えたのか。何がうまくいき、何がうまくいかなかったのか。 採用担当者がポートフォリオを見るとき、完成度だけを見ているわけではない。この人がどのように考え、どのように学ぶのかを見ている。完璧なアプリケーションひとつより、試行錯誤の痕跡が残った複数のプロジェクトのほうが、その人の技術力と成長の軌跡をよく伝える。 大学生の段階で完璧なポートフォリオを求める必要はな

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大学生活

大学で成績を分析しろ、それも徹底的に

成績通知が届く。あるいは学務システムにログインする。自分の点数が並んでいる。平均点も書いてある。受講者数も、分散も。 そしてほとんどの学生は、単位が取れたことを確認して画面を閉じる。 もったいない。その画面に並んでいる数字には、まだ語られていない情報が眠っている。得意科目の傾向、相性のいい授業の特徴、GPA改善のための具体的な戦略。すべて、すでに手元にあるデータから読み取れる。必要なのは、ほんの少しの計算だけだ。 手元にあるデータを知る 多くの大学では、成績と一緒に以下の情報が科目ごとに提供される。 * 自分の得点 * 受講者数 * 平均点 * 分散(あるいは標準偏差) これだけあれば、かなりのことがわかる。 分散が提供されている場合、標準偏差はその平方根を取るだけで求まる。標準偏差が直接示されていれば、そのまま使える。受講者数は、その科目の母集団の大きさを把握するために必要だ。受講者が10人しかいない科目と300人いる科目では、平均点や分散の信頼性がまるで違う。 ここまでは、ただの下準備だ。本番はここからだ。 偏差値を自分で計算する 偏差値は受験の世界

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

最後の人間が最後の木の前に立つ

地球最後の人間が、最後の一本の木の前に立っている。核戦争はとうに終わり、他の生き残りはいない。動物もいない。未来世代も来ない。この人間が斧を振り上げて、その木を切り倒したとする。誰も困らない。誰も泣かない。苦しむ存在はどこにもいない。それでもその行為は「悪い」のか。 もし直感が「悪い」と囁くなら、あなたはすでに厄介な場所に立っている。なぜなら、その直感を正当化できる倫理学を、西洋哲学はほとんど持っていなかったからだ。 ラウトリーの午後 1973年、オーストラリアの哲学者リチャード・ラウトリー(のちにリチャード・シルヴァンと改名)が、ブルガリアの世界哲学会議でこの思考実験を提示した。論文のタイトルは "Is There a Need for a New, an Environmental, Ethic?" だった。そのタイトル自体がすでに答えを含んでいるようにも見えるが、ラウトリーの論証は予想よりずっと慎重だった。 彼の狙いは、既存の倫理学の骨格を取り出すことにあった。功利主義は快苦の総量で行為を評価するが、苦しむ存在がゼロなら計算の入力がない。カント倫理学は理性的行為者の尊厳

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倫理と思考実験

清い手では誰も救えなかった

ジャン=ポール・サルトルが1948年に書いた戯曲『汚れた手』で、ウドレールという革命家がこう叫ぶ。「おれの手は肘まで汚れている。糞と血のなかに肘まで突っ込んだのだ。それがどうした。お前は、手袋をはめたまま何かを変えられると本気で思っているのか」 25年後、政治哲学者マイケル・ウォルツァーがこの問いを学術の俎上に載せた。1973年の論文 "Political Action: The Problem of Dirty Hands"。ウォルツァーが描いた風景は単純で、だからこそ逃げ場がない。テロリストが爆弾を仕掛けた。指導者は捕虜を拷問すれば場所を聞き出せる。拷問は道徳的に悪い。しかし拷問しなければ市民が死ぬ。どちらを選んでも手は汚れる。 「正しい選択肢」が消えた場所で、人はどう振る舞うのか。あるいは、振る舞えるのか。 この問いには答えがない。ないまま、ここに書く。 ウドレールの肘まで ウォルツァーの思考実験を、もう少しだけ丁寧に追ってみる。 ある都市で時限爆弾が仕掛けられた。爆発すれば多くの市民が死ぬ。当局は容疑者を拘束している。この容疑者を拷問すれば、爆弾の位置を突き止めら

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日常の構造

成功した予防は記憶から消える

何も起きなかった。橋は落ちなかった。飛行機は墜ちなかった。サーバーは止まらなかった。あなたは今日も病気にならなかった。 おめでとう。そのことに、誰も気づかない。 予防が成功すると、予防は不要だったように見える。これは公衆衛生の文脈では「予防のパラドックス」として知られている。疫学者ジェフリー・ローズがこの語を最初に用いたとき、彼が指していたのは「集団全体への予防策は個々人にとっての恩恵が小さい」という構造だった(Rose, 1981)。しかし予防が抱える問題はそれだけではない。もっと厄介な構造が、その奥に潜んでいる。成功した予防は、自分が必要だった証拠ごと消してしまうのだ。 崩落しなかった橋 橋が落ちなかったのは、定期点検のおかげかもしれない。しかし橋が落ちなかったという事実は、「点検がなくても落ちなかった」という解釈を同時に許してしまう。 これは因果推論の根本問題だ。私たちは「予防しなかった世界」を観察できない。予防した世界しか存在しない以上、比較対象はどこにもない。哲学ではこの問題を反事実条件文の検証不可能性と呼ぶ。「もしXしなかったらYが起きていた」という命題は、原理

By Sakashita Yasunobu

大学生活

サークルに入らない学生はどこに居場所を作るのか

4月。キャンパスのあちこちで新歓ビラが配られる。「一緒にやりませんか」、「見学だけでもどうぞ」。大学生活の最初の数週間は、どこかに所属することへの圧力で満ちている。 しかし、サークルに入らない学生は決して少数派ではない。入らない理由も様々だ。興味のあるサークルがなかった。時間がなかった。人間関係が面倒だった。たまたまタイミングを逃した。いずれにせよ、新歓期を過ぎた後、サークルに入らなかった学生は一つの問いに直面する。 自分の居場所を、どこに作るのか。 居場所は所属先ではない 「居場所がない」と言うとき、多くの場合、それは「所属するグループがない」という意味で使われている。しかし、居場所と所属先は同じものではない。 所属先は、名前のある組織だ。サークル、部活、学生団体。入会届を出し、定例の活動に参加し、メンバーとして認知される。一方、居場所はもっと曖昧なものだ。図書館のいつもの席。学食の隅の静かなテーブル。毎週同じ時間に顔を合わせるゼミの仲間。名前がなくても、そこに「いていい」と感じられる場所は居場所になりうる。 所属先がなくても居場所はある。逆に、所属先があっても居場所が

By Sakashita Yasunobu