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大学生活

大学で成績を分析しろ、それも徹底的に

成績通知が届く。あるいは学務システムにログインする。自分の点数が並んでいる。平均点も書いてある。受講者数も、分散も。 そしてほとんどの学生は、単位が取れたことを確認して画面を閉じる。 もったいない。その画面に並んでいる数字には、まだ語られていない情報が眠っている。得意科目の傾向、相性のいい授業の特徴、GPA改善のための具体的な戦略。すべて、すでに手元にあるデータから読み取れる。必要なのは、ほんの少しの計算だけだ。 手元にあるデータを知る 多くの大学では、成績と一緒に以下の情報が科目ごとに提供される。 * 自分の得点 * 受講者数 * 平均点 * 分散(あるいは標準偏差) これだけあれば、かなりのことがわかる。 分散が提供されている場合、標準偏差はその平方根を取るだけで求まる。標準偏差が直接示されていれば、そのまま使える。受講者数は、その科目の母集団の大きさを把握するために必要だ。受講者が10人しかいない科目と300人いる科目では、平均点や分散の信頼性がまるで違う。 ここまでは、ただの下準備だ。本番はここからだ。 偏差値を自分で計算する 偏差値は受験の世界

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

最後の人間が最後の木の前に立つ

地球最後の人間が、最後の一本の木の前に立っている。核戦争はとうに終わり、他の生き残りはいない。動物もいない。未来世代も来ない。この人間が斧を振り上げて、その木を切り倒したとする。誰も困らない。誰も泣かない。苦しむ存在はどこにもいない。それでもその行為は「悪い」のか。 もし直感が「悪い」と囁くなら、あなたはすでに厄介な場所に立っている。なぜなら、その直感を正当化できる倫理学を、西洋哲学はほとんど持っていなかったからだ。 ラウトリーの午後 1973年、オーストラリアの哲学者リチャード・ラウトリー(のちにリチャード・シルヴァンと改名)が、ブルガリアの世界哲学会議でこの思考実験を提示した。論文のタイトルは "Is There a Need for a New, an Environmental, Ethic?" だった。そのタイトル自体がすでに答えを含んでいるようにも見えるが、ラウトリーの論証は予想よりずっと慎重だった。 彼の狙いは、既存の倫理学の骨格を取り出すことにあった。功利主義は快苦の総量で行為を評価するが、苦しむ存在がゼロなら計算の入力がない。カント倫理学は理性的行為者の尊厳

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

清い手では誰も救えなかった

ジャン=ポール・サルトルが1948年に書いた戯曲『汚れた手』で、ウドレールという革命家がこう叫ぶ。「おれの手は肘まで汚れている。糞と血のなかに肘まで突っ込んだのだ。それがどうした。お前は、手袋をはめたまま何かを変えられると本気で思っているのか」 25年後、政治哲学者マイケル・ウォルツァーがこの問いを学術の俎上に載せた。1973年の論文 "Political Action: The Problem of Dirty Hands"。ウォルツァーが描いた風景は単純で、だからこそ逃げ場がない。テロリストが爆弾を仕掛けた。指導者は捕虜を拷問すれば場所を聞き出せる。拷問は道徳的に悪い。しかし拷問しなければ市民が死ぬ。どちらを選んでも手は汚れる。 「正しい選択肢」が消えた場所で、人はどう振る舞うのか。あるいは、振る舞えるのか。 この問いには答えがない。ないまま、ここに書く。 ウドレールの肘まで ウォルツァーの思考実験を、もう少しだけ丁寧に追ってみる。 ある都市で時限爆弾が仕掛けられた。爆発すれば多くの市民が死ぬ。当局は容疑者を拘束している。この容疑者を拷問すれば、爆弾の位置を突き止めら

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

成功した予防は記憶から消える

何も起きなかった。橋は落ちなかった。飛行機は墜ちなかった。サーバーは止まらなかった。あなたは今日も病気にならなかった。 おめでとう。そのことに、誰も気づかない。 予防が成功すると、予防は不要だったように見える。これは公衆衛生の文脈では「予防のパラドックス」として知られている。疫学者ジェフリー・ローズがこの語を最初に用いたとき、彼が指していたのは「集団全体への予防策は個々人にとっての恩恵が小さい」という構造だった(Rose, 1981)。しかし予防が抱える問題はそれだけではない。もっと厄介な構造が、その奥に潜んでいる。成功した予防は、自分が必要だった証拠ごと消してしまうのだ。 崩落しなかった橋 橋が落ちなかったのは、定期点検のおかげかもしれない。しかし橋が落ちなかったという事実は、「点検がなくても落ちなかった」という解釈を同時に許してしまう。 これは因果推論の根本問題だ。私たちは「予防しなかった世界」を観察できない。予防した世界しか存在しない以上、比較対象はどこにもない。哲学ではこの問題を反事実条件文の検証不可能性と呼ぶ。「もしXしなかったらYが起きていた」という命題は、原理

By Sakashita Yasunobu

大学生活

サークルに入らない学生はどこに居場所を作るのか

4月。キャンパスのあちこちで新歓ビラが配られる。「一緒にやりませんか」、「見学だけでもどうぞ」。大学生活の最初の数週間は、どこかに所属することへの圧力で満ちている。 しかし、サークルに入らない学生は決して少数派ではない。入らない理由も様々だ。興味のあるサークルがなかった。時間がなかった。人間関係が面倒だった。たまたまタイミングを逃した。いずれにせよ、新歓期を過ぎた後、サークルに入らなかった学生は一つの問いに直面する。 自分の居場所を、どこに作るのか。 居場所は所属先ではない 「居場所がない」と言うとき、多くの場合、それは「所属するグループがない」という意味で使われている。しかし、居場所と所属先は同じものではない。 所属先は、名前のある組織だ。サークル、部活、学生団体。入会届を出し、定例の活動に参加し、メンバーとして認知される。一方、居場所はもっと曖昧なものだ。図書館のいつもの席。学食の隅の静かなテーブル。毎週同じ時間に顔を合わせるゼミの仲間。名前がなくても、そこに「いていい」と感じられる場所は居場所になりうる。 所属先がなくても居場所はある。逆に、所属先があっても居場所が

By Sakashita Yasunobu

光と写真

レンズは一本でいい

カメラを買うと、たいていキットレンズがついてくる。標準ズーム、だいたい焦点距離18mmから55mm、開放F値は3.5から5.6あたり。便利だ。広角から中望遠までカバーして、とりあえず何でも撮れる。「初心者はまずキットレンズで十分」。よく聞く言葉だ。 十分なわけがない。 写りはレンズで決まる カメラの画質を左右する要素は多い。センサーサイズ、画像処理エンジン、撮影設定。しかし、光がセンサーに届く前に通過するのはレンズだ。どれだけ優秀なセンサーを積んでいても、レンズが光を正確に導けなければ意味がない。 ズームレンズは、複数の焦点距離で一定以上の画質を出すことを要求される。広角端の歪曲収差を抑えれば望遠端の色収差が目立ち始めるといった具合に、設計上のトレードオフが避けられない。キットレンズは、その妥協の集大成だ。低コストで幅広い焦点距離をカバーするために、光学性能のあらゆる面で少しずつ譲歩している。 単焦点レンズは違う。ひとつの焦点距離だけに最適化されている。収差の補正、コントラスト、解像感、そのすべてを一点に集中させて設計できる。同価格帯で比較しても、単焦点レンズがズームレンズ

By Sakashita Yasunobu

大学生活

大学生はタイピングを練習しよう

大学の授業でノートパソコンを開いたとき、周囲のキーボードを打つ音が気になったことはないだろうか。隣の席から聞こえる軽快なリズムと、自分の指が一本ずつキーを探す沈黙。その差は才能ではない。練習量の差だ。 フリック入力の達人、キーボードの初心者 スマートフォンでの文字入力には困らない。フリック入力なら一分間に何十文字と打てる。LINEの返信も、検索も、SNSへの投稿も、指先ひとつで済む。しかしキーボードの前に座った途端、その器用さは消える。 これは珍しい話ではない。むしろ、大学に入学してから初めてキーボードをまともに使うという学生は少なくない。名古屋学院大学の児島完二教授による調査では、新入生のタイピングスコア(e-typingによる測定)の平均は104.91ptで、過半数が100を下回っていた。e-typingの基準ではスコア100未満は「練習あるのみ」の水準だ。 つまり、大学生の半数以上は、レポートを書くにも不自由するレベルからスタートしている。 「打てる」と「速い」のあいだ キーボードを見ながら、人差し指でひとつずつキーを押していく。これでも文字は入力できる。打てない

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

満ちることのない器よ問いかけは続く

「足るを知れ」と言われたとき、どこか引っかかるものがある。 正論だ。欲望には際限がない。手に入れても次が欲しくなる。だから今あるもので満足しろ。論理としては明快で、反論の余地がないように聞こえる。それなのに素直にうなずけないのは、なぜだろう。 たぶん、この言葉が「満足しろ」という命令として届いてしまうからだ。しかも、すでに満たされている人の口から出ることが多い。持っている人が「持っているもので十分だ」と言うのと、持っていない人が「持っていなくても十分だ」と言わされるのでは、同じ言葉でも意味がまったく異なる。 「足るを知る」の出典を確認する 「足るを知る」の原典とされるのは、老子の第46章だ。原文には「知足者富」という語がある。足るを知る者は富む、と読める。 ただし、この章の文脈は「現状に満足しなさい」という穏やかな教えではない。第46章の主題は、天下に道が行われていない時代の描写だ。戦争のために軍馬が使われ、欲望が際限なく拡大していく状態への批判がある。「知足」はその過剰な欲望に対する処方箋であって、「今ある暮らしに文句を言うな」という意味では、少なくとも原典においては、な

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

イヤホンを外さない世代の公共空間の歩き方

街を歩く人の耳を見てほしい。電車の中、大学のキャンパス、カフェ。かなりの確率で、小さな白い塊がそこにある。イヤホンは音楽を聴くための道具から、公共空間における「見えない壁」へと変わった。 境界線としてのイヤホン イヤホンをしている人に話しかけるのは、どこか気が引ける。物理的には何の障壁もないのに、「今は話しかけないでほしい」というメッセージが、あの小さなデバイスから発されている。 これは音楽の問題ではない。実際、何も再生していなくてもイヤホンを装着している人は少なくない。音を聴くためではなく、外界との接触を制御するために使っている。パーソナルスペースを物理的に確保できない公共空間で、聴覚という回路だけを自分の管理下に置く。それが現代のイヤホンの役割になった。 ウォークマンが開いた扉 公共空間で個人的な音を聴くという行為は、1979年にソニーが初代ウォークマン(TPS-L2)を発売したときに始まった。当時も「電車の中でヘッドホンをするのは失礼だ」、「周囲の音が聞こえなくて危険だ」という批判はあった。しかし約半世紀を経て、その行為はもはや議論の対象ですらなくなった。イヤホンは

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大学生活

なぜ学内向けサービスはUIが古いのか

大学の履修登録、図書館の蔵書検索、成績確認。これらのシステムを使うたびに、どこか十年前のインターネットに迷い込んだような気分になる。ボタンの配置は直感に反し、画面遷移は不必要に多く、スマートフォン対応はおまけ程度。なぜ、大学のシステムだけが時代に取り残されているのか。 予算だけでは説明できない 真っ先に浮かぶのは予算の問題だ。大学は企業のようにUIに投資する余裕がない、と。 しかし、この説明だけでは不十分だ。世の中にはオープンソースの優れたソフトウェアが数多く存在する。無料で使える学習管理システム(LMS)でさえ、多くの学内システムよりも洗練されたインターフェースを持っている。予算がないから古いのではなく、予算以外の構造的な力が働いている。 実際、大学のIT関連支出は決して少なくない。ネットワークインフラ、セキュリティ対策、サーバ運用。予算は存在するが、その配分先がUI改善に向かわない。IRと大学経営で触れたように、データ活用の重要性が増すなかでも、投資の優先順位は利用者の体験よりも基盤の安定に傾きやすい。 動いているものには触るな IT運用の世界には、暗黙の鉄則がある

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

「主観でしょ」という沈黙の刃

「それって主観でしょ」。議論の中でこの言葉が出た瞬間、会話は終わる。反論として完成しているように見えるこのフレーズは、実際には何も言っていない。正確に言えば、「言っていないこと」があまりにも多い。 このフレーズは何を主張しているのか 「それって主観でしょ」という発言を分解すると、以下のような前提が隠れている。 「あなたの意見は主観的である。主観的なものは客観的ではない。客観的でないものは正しいとは言えない。したがって、あなたの意見は正しいとは言えない。」 一見筋が通っているように見えるが、この推論にはいくつもの飛躍がある。 「主観」と「客観」の雑な二分法 日常語の「主観」は「個人の感想」とほぼ同義で使われる。「客観」は「誰が見ても同じ事実」を意味する。この二分法はシンプルだが、シンプルすぎる。 たとえば「このコーヒーは苦い」という判断は主観か客観か。味覚は個人差があるから主観だと言えるが、カフェインの含有量や焙煎度は客観的に測定できる。「苦い」という判断は、客観的な特性に基づいた主観的な報告である。完全に主観でも完全に客観でもない。 あるいは「この政策は不公平だ」と

By Sakashita Yasunobu

大学生活

「やる気が出ない」は本当に感情なのか

「やる気が出ない」と口にするとき、私たちは自分の内側に何かが欠けていると感じている。やる気という燃料が切れた、と。だからその燃料が補充されるのを待つ。しかし、そもそも「やる気」とは何だ。燃料なのか。感情なのか。それとも、もっと別の何かなのか。 「やる気」という言葉を分解する 「やる気がない」という一語は、驚くほど多くの状態を包み隠している。少なくとも、以下の三つは区別する必要がある。 動機づけ(motivation)。特定の行動を起こす理由や目的がある状態だ。報酬、興味、義務感など、行動の方向を決める力をいう。 意志力(willpower)。やりたくないことを、それでもやる力だ。動機づけとは独立に存在しうる。報酬がなくても、必要だからやる、という場面で使われる。 気分(mood)。その時点での感情的な状態だ。倦怠感、退屈、不安、抑うつ。「やる気が出ない」の多くは、この層に属している。 「やる気が出ない」と言うとき、動機づけが欠けているのか、意志力が消耗しているのか、

By Sakashita Yasunobu