清い手では誰も救えなかった

ジャン=ポール・サルトルが1948年に書いた戯曲『汚れた手』で、ウドレールという革命家がこう叫ぶ。「おれの手は肘まで汚れている。糞と血のなかに肘まで突っ込んだのだ。それがどうした。お前は、手袋をはめたまま何かを変えられると本気で思っているのか」

25年後、政治哲学者マイケル・ウォルツァーがこの問いを学術の俎上に載せた。1973年の論文 "Political Action: The Problem of Dirty Hands"。ウォルツァーが描いた風景は単純で、だからこそ逃げ場がない。テロリストが爆弾を仕掛けた。指導者は捕虜を拷問すれば場所を聞き出せる。拷問は道徳的に悪い。しかし拷問しなければ市民が死ぬ。どちらを選んでも手は汚れる。

「正しい選択肢」が消えた場所で、人はどう振る舞うのか。あるいは、振る舞えるのか。

この問いには答えがない。ないまま、ここに書く。

ウドレールの肘まで

ウォルツァーの思考実験を、もう少しだけ丁寧に追ってみる。

ある都市で時限爆弾が仕掛けられた。爆発すれば多くの市民が死ぬ。当局は容疑者を拘束している。この容疑者を拷問すれば、爆弾の位置を突き止められる可能性が高い。拷問しなければ、爆弾は爆発する。

ここで問われているのは「拷問は許されるか」ではない。ウォルツァーの論点はもっと厄介な場所にある。仮に拷問して爆弾を見つけ、市民を救ったとしても、指導者は「道徳的に悪いことをした」という事実から逃れられない。救えた命の数は、拷問という行為の道徳的な汚れを洗い流さない。

かといって、拷問を拒否して市民を見殺しにした指導者の手は清いのかと言えば、それも違う。見殺しにしたという別の汚れがつく。

どちらの手も汚れる。選ばなかった手も汚れる。ウォルツァーが定式化したのは、そういう構造だった。

トロッコの線路では済まない

一見するとトロッコ問題に似ている。5人を救うために1人を犠牲にするか。しかし汚い手のパラドックスは、何人殺せば正しくなるのかというトロッコ問題の問いとは、出発点からして違う。

トロッコ問題は「どちらが正しいか」を問う。功利主義者は5人を救う側を選び、義務論者はレバーに触れない側を選ぶ。少なくとも「正しい答えが存在するはずだ」という前提が、問いの背骨になっている。善も正義もない場所でさえ、「正義とは何か」を問うこと自体は可能だった。

汚い手のパラドックスでは、その背骨が最初から折れている。

「正しい選択肢」は存在しない。それが前提だ。拷問しても悪、しなくても悪。問いは「どちらが正しいか」ではなく、「どちらの悪を引き受けるか」に変わる。そして、引き受けたあとに何が残るのか。

トロッコのレバーを引いた手は、少なくとも「より多くの命を救った」という物語を手に入れる。汚い手の持ち主には、その物語すら与えられない。

狐は泣かない

汚い手の問題は、ウォルツァーが初めて考えたわけではない。起源を辿れば、ニッコロ・マキャヴェリの『君主論』第18章に行き着く。

マキャヴェリはそこで、君主は「獅子と狐」の両方でなければならないと書いた。獅子は力で敵を退ける。狐は知恵で罠を見抜く。そして狐は、約束を守らないほうが有利なときには守るべきではないと知っている。

ここには罪悪感がない。マキャヴェリの世界では、政治と道徳は別の領域に属する。君主が嘘をつき、約束を破り、残虐を行使するのは、それが政治的に必要だからであって、道徳的に悪いかどうかは計算に入らない。手が汚れる? そもそも政治の手は最初から汚れている。汚れが見えないふりをする者だけが、それを問題にする。

これは透明人間の倫理にも通じる問いかもしれない。誰にも見られていないとき、人は道徳的であり続けるか。マキャヴェリの答えは明快で、しかも身も蓋もない。道徳的であり続ける必要がない。少なくとも、統治者には。

ウォルツァーはここでマキャヴェリと袂を分かつ。政治と道徳を分離するのではなく、両方を同時に引き受けることこそが汚い手の核心だとウォルツァーは主張した。手が汚れることを知りながら、汚す。そして、汚したことに苦しむ。その苦しみを消さない。

マキャヴェリの狐は泣かない。ウォルツァーの指導者は泣く。そしてどちらの手も同じように汚れている。

罪悪感という資格

ウォルツァーの議論で最も不穏なのは、罪悪感の扱いだろう。

拷問をして市民を救った指導者がいるとする。その指導者が罪悪感を「感じない」場合、ウォルツァーはその人物を「危険だ」と見なす。道徳的に悪いことをしておきながら何も感じない人間は、次も同じことをする。もっと簡単に、もっと大規模に。

では、罪悪感を感じる指導者は「正しい」のか。

ここがパラドックスの核心になる。罪悪感は行為を正当化しない。「苦しんだから許される」という交換は成立しない。拷問は拷問のままだ。罪悪感は、行為の重さを証明するだけであって、その重さを軽くはしない。

カントならこう言うかもしれない。拷問は定言命法に反する。したがって、いかなる結果が伴おうとも、拷問は許されない。罪悪感を感じるかどうかは問題ではなく、行為そのものが問題だ、と。

マキャヴェリなら肩をすくめるだろう。罪悪感は政治的に何の役にも立たない。必要なことをし、結果を出し、歴史に裁かれればいい、と。

ウォルツァーはその中間に立つ。いや、中間というより、両方の上に同時に立とうとしているのかもしれない。道徳的に悪いことを「しなければならない」場面がある。そしてそれを「した」人間は、罪悪感を引き受けなければならない。罪悪感は免罪符ではなく、資格だ。汚い手を持つにふさわしい人間かどうかを測る、唯一の尺度。

しかしその尺度で測ったところで、手は汚れたままである。

二つの倫理のあいだ

この「汚い手」の構造を、別の角度から照らした人物がいる。マックス・ウェーバーだ。

1919年、第一次世界大戦直後のミュンヘンで行われた講演「職業としての政治」(Politik als Beruf)の中で、ウェーバーは二つの倫理を区別した。心情倫理(Gesinnungsethik)と責任倫理(Verantwortungsethik)。

心情倫理は、行為の動機と原則に忠実であることを求める。正しいと信じることを行い、結果がどうなろうと自分の良心に従う。「正しいことをした。結果は神の手に委ねる」。

責任倫理は、行為の結果に対して責任を負うことを求める。たとえ原則に反する行為であっても、その結果がより多くの人を救うならば、その行為を選び、その結果を引き受ける。

ウェーバーは政治家に責任倫理を求めた。しかし同時に、心情倫理を捨てることもできないと認めた。責任倫理だけでは、すべてが手段化される。心情倫理だけでは、現実の中で何も守れない。

二つの倫理は統合されなければならない。しかしウェーバー自身が、その統合が不可能に近いことを認めている。

ここに汚い手のパラドックスが、ほとんどそのままの形で現れる。原則に従えば結果が犠牲になる。結果を守れば原則が犠牲になる。どちらを選んでも、何かが損なわれる。そしてその損なわれたものの重さは、選んだ側の正しさによって相殺されない。

ウェーバーは講演の最後に、それでも政治を「職業」として引き受ける人間への敬意を語った。すべてを知った上で「それでもなお」と言える人間。しかしその「それでもなお」の先に何があるのか、ウェーバーは語らなかった。語れなかったのかもしれない。

教室にも血は滲む

汚い手のパラドックスを政治指導者の問題だけに押し込めるのは、たぶん楽な逃げ道だ。

教師が生徒に嘘をつく場面を考えてみる。いじめの調査で、匿名の通報者を守るために事実を伏せる。「誰が言ったかは教えられない」。これは嘘ではないかもしれないが、真実のすべてでもない。生徒を守るために、透明性という原則を犠牲にしている。

医師が末期患者に「まだ可能性はあります」と言う。統計的にはほぼ絶望的だと知りながら。希望を与えるために、正直さを差し出している。

カントは有名な思考実験で、殺人者が玄関に来て「お前の友人はここにいるか」と聞いたとき、嘘をついてはならないと主張した。道徳法則は例外を許さない。しかし友人を匿って嘘をつかなかった結果、友人が殺されたとしたら。その手は清いのだろうか。

あなたはもうボタンを押しているという問いは、ここでも効いてくる。日常の中で、私たちはすでに無数の小さな「汚い手」を行使している。ただ、それを「汚い」と名づける機会がないだけだ。

寛容という名の自壊装置が示すように、原則を守ることそれ自体が原則を破壊する場面がある。寛容のために不寛容を排除する。平和のために暴力を行使する。教育のために嘘をつく。構造は同じだ。

手は、日常の中でも汚れている。ただ、血の色が薄いだけで。

洗えない手で握手をする

四人の思想家を並べてきた。サルトル、ウォルツァー、マキャヴェリ、ウェーバー。

四人とも、手が汚れること自体は認めている。意見が分かれるのは、そのあとの振る舞いについてだけだ。マキャヴェリは気にするなと言い、カントは最初から汚すなと言い、ウォルツァーは苦しめと言い、ウェーバーはそれでもやれと言った。

どの立場を取っても、手は洗えない。

赦せないまま死ぬことがあるように、汚れたまま生きることしかできない場面がある。そしてその汚れは、誰のせいでもないと言い切ることもできない。選んだのは自分だからだ。選ばざるを得なかったとしても。

パラドックスはここで閉じる。いや、閉じない。閉じられない。

清い手とは、何もしなかった手のことだ。何もしなかった手は、誰も救わなかった手でもある。

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