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光と写真

レンズは一本でいい

カメラを買うと、たいていキットレンズがついてくる。標準ズーム、だいたい焦点距離18mmから55mm、開放F値は3.5から5.6あたり。便利だ。広角から中望遠までカバーして、とりあえず何でも撮れる。「初心者はまずキットレンズで十分」。よく聞く言葉だ。 十分なわけがない。 写りはレンズで決まる カメラの画質を左右する要素は多い。センサーサイズ、画像処理エンジン、撮影設定。しかし、光がセンサーに届く前に通過するのはレンズだ。どれだけ優秀なセンサーを積んでいても、レンズが光を正確に導けなければ意味がない。 ズームレンズは、複数の焦点距離で一定以上の画質を出すことを要求される。広角端の歪曲収差を抑えれば望遠端の色収差が目立ち始めるといった具合に、設計上のトレードオフが避けられない。キットレンズは、その妥協の集大成だ。低コストで幅広い焦点距離をカバーするために、光学性能のあらゆる面で少しずつ譲歩している。 単焦点レンズは違う。ひとつの焦点距離だけに最適化されている。収差の補正、コントラスト、解像感、そのすべてを一点に集中させて設計できる。同価格帯で比較しても、単焦点レンズがズームレンズ

By Sakashita Yasunobu

大学生活

大学生はタイピングを練習しよう

大学の授業でノートパソコンを開いたとき、周囲のキーボードを打つ音が気になったことはないだろうか。隣の席から聞こえる軽快なリズムと、自分の指が一本ずつキーを探す沈黙。その差は才能ではない。練習量の差だ。 フリック入力の達人、キーボードの初心者 スマートフォンでの文字入力には困らない。フリック入力なら一分間に何十文字と打てる。LINEの返信も、検索も、SNSへの投稿も、指先ひとつで済む。しかしキーボードの前に座った途端、その器用さは消える。 これは珍しい話ではない。むしろ、大学に入学してから初めてキーボードをまともに使うという学生は少なくない。名古屋学院大学の児島完二教授による調査では、新入生のタイピングスコア(e-typingによる測定)の平均は104.91ptで、過半数が100を下回っていた。e-typingの基準ではスコア100未満は「練習あるのみ」の水準だ。 つまり、大学生の半数以上は、レポートを書くにも不自由するレベルからスタートしている。 「打てる」と「速い」のあいだ キーボードを見ながら、人差し指でひとつずつキーを押していく。これでも文字は入力できる。打てない

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

満ちることのない器よ問いかけは続く

「足るを知れ」と言われたとき、どこか引っかかるものがある。 正論だ。欲望には際限がない。手に入れても次が欲しくなる。だから今あるもので満足しろ。論理としては明快で、反論の余地がないように聞こえる。それなのに素直にうなずけないのは、なぜだろう。 たぶん、この言葉が「満足しろ」という命令として届いてしまうからだ。しかも、すでに満たされている人の口から出ることが多い。持っている人が「持っているもので十分だ」と言うのと、持っていない人が「持っていなくても十分だ」と言わされるのでは、同じ言葉でも意味がまったく異なる。 「足るを知る」の出典を確認する 「足るを知る」の原典とされるのは、老子の第46章だ。原文には「知足者富」という語がある。足るを知る者は富む、と読める。 ただし、この章の文脈は「現状に満足しなさい」という穏やかな教えではない。第46章の主題は、天下に道が行われていない時代の描写だ。戦争のために軍馬が使われ、欲望が際限なく拡大していく状態への批判がある。「知足」はその過剰な欲望に対する処方箋であって、「今ある暮らしに文句を言うな」という意味では、少なくとも原典においては、な

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

イヤホンを外さない世代の公共空間の歩き方

街を歩く人の耳を見てほしい。電車の中、大学のキャンパス、カフェ。かなりの確率で、小さな白い塊がそこにある。イヤホンは音楽を聴くための道具から、公共空間における「見えない壁」へと変わった。 境界線としてのイヤホン イヤホンをしている人に話しかけるのは、どこか気が引ける。物理的には何の障壁もないのに、「今は話しかけないでほしい」というメッセージが、あの小さなデバイスから発されている。 これは音楽の問題ではない。実際、何も再生していなくてもイヤホンを装着している人は少なくない。音を聴くためではなく、外界との接触を制御するために使っている。パーソナルスペースを物理的に確保できない公共空間で、聴覚という回路だけを自分の管理下に置く。それが現代のイヤホンの役割になった。 ウォークマンが開いた扉 公共空間で個人的な音を聴くという行為は、1979年にソニーが初代ウォークマン(TPS-L2)を発売したときに始まった。当時も「電車の中でヘッドホンをするのは失礼だ」、「周囲の音が聞こえなくて危険だ」という批判はあった。しかし約半世紀を経て、その行為はもはや議論の対象ですらなくなった。イヤホンは

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大学生活

なぜ学内向けサービスはUIが古いのか

大学の履修登録、図書館の蔵書検索、成績確認。これらのシステムを使うたびに、どこか十年前のインターネットに迷い込んだような気分になる。ボタンの配置は直感に反し、画面遷移は不必要に多く、スマートフォン対応はおまけ程度。なぜ、大学のシステムだけが時代に取り残されているのか。 予算だけでは説明できない 真っ先に浮かぶのは予算の問題だ。大学は企業のようにUIに投資する余裕がない、と。 しかし、この説明だけでは不十分だ。世の中にはオープンソースの優れたソフトウェアが数多く存在する。無料で使える学習管理システム(LMS)でさえ、多くの学内システムよりも洗練されたインターフェースを持っている。予算がないから古いのではなく、予算以外の構造的な力が働いている。 実際、大学のIT関連支出は決して少なくない。ネットワークインフラ、セキュリティ対策、サーバ運用。予算は存在するが、その配分先がUI改善に向かわない。IRと大学経営で触れたように、データ活用の重要性が増すなかでも、投資の優先順位は利用者の体験よりも基盤の安定に傾きやすい。 動いているものには触るな IT運用の世界には、暗黙の鉄則がある

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

「主観でしょ」という沈黙の刃

「それって主観でしょ」。議論の中でこの言葉が出た瞬間、会話は終わる。反論として完成しているように見えるこのフレーズは、実際には何も言っていない。正確に言えば、「言っていないこと」があまりにも多い。 このフレーズは何を主張しているのか 「それって主観でしょ」という発言を分解すると、以下のような前提が隠れている。 「あなたの意見は主観的である。主観的なものは客観的ではない。客観的でないものは正しいとは言えない。したがって、あなたの意見は正しいとは言えない。」 一見筋が通っているように見えるが、この推論にはいくつもの飛躍がある。 「主観」と「客観」の雑な二分法 日常語の「主観」は「個人の感想」とほぼ同義で使われる。「客観」は「誰が見ても同じ事実」を意味する。この二分法はシンプルだが、シンプルすぎる。 たとえば「このコーヒーは苦い」という判断は主観か客観か。味覚は個人差があるから主観だと言えるが、カフェインの含有量や焙煎度は客観的に測定できる。「苦い」という判断は、客観的な特性に基づいた主観的な報告である。完全に主観でも完全に客観でもない。 あるいは「この政策は不公平だ」と

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大学生活

「やる気が出ない」は本当に感情なのか

「やる気が出ない」と口にするとき、私たちは自分の内側に何かが欠けていると感じている。やる気という燃料が切れた、と。だからその燃料が補充されるのを待つ。しかし、そもそも「やる気」とは何だ。燃料なのか。感情なのか。それとも、もっと別の何かなのか。 「やる気」という言葉を分解する 「やる気がない」という一語は、驚くほど多くの状態を包み隠している。少なくとも、以下の三つは区別する必要がある。 動機づけ(motivation)。特定の行動を起こす理由や目的がある状態だ。報酬、興味、義務感など、行動の方向を決める力をいう。 意志力(willpower)。やりたくないことを、それでもやる力だ。動機づけとは独立に存在しうる。報酬がなくても、必要だからやる、という場面で使われる。 気分(mood)。その時点での感情的な状態だ。倦怠感、退屈、不安、抑うつ。「やる気が出ない」の多くは、この層に属している。 「やる気が出ない」と言うとき、動機づけが欠けているのか、意志力が消耗しているのか、

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光と写真

好きで始めた写真が息苦しさに変わるとき

写真が好きで始めたはずなのに、いつの間にか疲れている。撮ること自体は楽しい。だがSNSに投稿した後の反応を気にし始めると、楽しさの質が変わる。撮影会に行って他の人の機材を見ると、自分のカメラが急に貧相に見える。ベテランの人に「その設定だと」と言われると、楽しかった時間が一気に萎む。 カメラ界隈がしんどいのは、撮影技術の問題ではない。人間関係とインセンティブの構造の問題だ。 経験年数が正しさになる権威勾配 カメラ界隈には、「長くやっている人の意見が正しい」という暗黙の序列がある。これはあらゆる趣味コミュニティに共通する構造だが、カメラ界隈では特に強い。写真には明確な正解がないため、正しさの根拠が「経験年数」に依存しやすいのだ。 技術的な正解はある程度存在するが、「いい写真とは何か」に正解はない。正解がない領域では、経験年数が権威の代替指標として機能する。 結果として起きるのは、「長くやっている人が新しい人に教える」という一方的な関係の固定化だ。教えてもらう側は意見を言いにくくなり、教える側は自分の基準が正しいと確信を深める。フィードバックのループが閉じて、多様な視点が排除され

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大学生活

講義室に降る小さな棘が論文になるまで

講義中、教授の話を聞いていて、ふと「あ、これ論文になりそうだ」と感じる瞬間がある。その感覚の正体は何か。 それは知識の蓄積から来るのではない。違和感から来る。 研究の種は違和感にある 研究は「たくさん知っているから始められる」のではない。「何かおかしい」「これは本当か」という違和感が、研究の出発点になる。 教授が「一般にXである」と言ったとき、「でも自分の経験ではYだったけど」と感じる。その瞬間、一般論と個別の経験の間にズレが生じている。このズレに気づけることが、研究の種を見つける力だ。 種が見つかる4つのパターン 違和感にはいくつかの典型的なパターンがある。 ズレ。 通説と自分の実感が合わない。教科書には「Aである」と書いてあるが、実際に観察するとAでないケースがある。このズレは「本当にAなのか。どういう条件ではAが成り立たないのか」という問いになる。 例外。 一般論に当てはまらないケースが見つかる。理論が「すべてのBはCである」と主張しているとき、CでないBを一つ見つければ、理論の修正が必要になる。例外は理論の弱点を示す。 矛盾。 AもBも正しいように見えるが

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日常の構造

自分だけが知らない

1999年、二人の心理学者がひとつの実験で暴いた構造は単純だった。能力のない人間は、自分に能力がないことを知る能力すら持っていない。つまり、あなたが「自分は大丈夫だ」と思えば思うほど、あなたはおそらく大丈夫ではない。そしてそのことに、あなたは永遠に気づけない。 二重の呪い コーネル大学の心理学者ジャスティン・クルーガーとデイヴィッド・ダニングは、1999年に Journal of Personality and Social Psychology 誌にひとつの論文を発表した。タイトルは「Unskilled and Unaware of It(能力がなく、そのことに気づかない)」。 彼らが実施した実験では、論理的推論、英文法、ユーモアの理解力という3つの領域でテストが行われた。結果は明快だった。成績が下位25%に入った参加者は、自分の成績を平均以上と評価した。一方で、上位25%の参加者は、自分の成績を控えめに見積もった。 ダニングとクルーガーはこの非対称をメタ認知の問題として説明した。メタ認知とは、自分自身の認知プロセスを認知する能力のこと。能力が低い領域では、自分の回答の質を

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光と写真

見えない光が写す もうひとつの風景

見えない光で写真を撮る、という行為がある。 カメラのシャッターを切る。構図を決め、ピントを合わせ、露出を調整する。やることは通常の撮影とまったく同じだ。ただひとつ違うのは、写し取る光が人間の目には見えないということ。赤外線写真は、可視光の向こう側にある世界を画像として定着させる技術だ。 出来上がった写真を見ると、緑の木々は真っ白に輝き、空は暗く沈み、雲だけが不気味なほどのコントラストで浮かび上がる。現実の風景を撮っているのに、現実には見えない。この矛盾が、赤外線写真の核にある面白さだ。 赤外線写真とは何か 人間の目が感知できる光(可視光)の波長は、およそ380nmから780nmの範囲だ。赤外線はその上、約780nm以降の波長を持つ電磁波で、近赤外線(780nm-2500nm程度)は写真撮影に利用できる領域にある。 フィルム時代には、赤外線に感光する専用フィルムが存在した。代表的なのはKodak High Speed Infrared(通称Kodak HIE)で、粒子の粗さと独特のハレーションが赤外線写真の「あの雰囲気」を作っていた。残念ながら2007年に製造終了している。

By Sakashita Yasunobu

生きること

永遠の素振り

あなたはいつから素振りばかりしている。 バットを構え、腰を回し、フォームを確認する。鏡の前で。壁に向かって。千回。一万回。フォームは洗練される。筋肉は覚える。あなたは確実に上手くなっている。ただ、ボールは一球も飛んでこない。打席に立つ予定もない。 上手くなることは、いつから目的になったのだろう。そしてもっと厄介なことに、その問いを誰も発しない。 手段が目的を食い殺す アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、人間の行為にはそれ自体が目的であるもの(それ自体のために選ばれるもの)と、何か別のもののための手段であるものがあると論じた。笛を吹く技術は笛を吹くためにあり、医術は健康のためにある。すべての技術(テクネー)は、その外部にある何かを実現するために存在する。 ところが、手段と目的の関係はしばしば反転する。 ギターを弾くのは、誰かに聴かせたいからだったはずだ。しかしいつの間にか、スケールの速弾きが何小節続くかのほうが重要になる。語学を学ぶのは、誰かと話すためだったはずだ。しかしいつの間にか、検定試験のスコアを1点でも上げることのほうが重要になる。写真を撮るのは、何かを記録した

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