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光と写真

好きで始めた写真が息苦しさに変わるとき

写真が好きで始めたはずなのに、いつの間にか疲れている。撮ること自体は楽しい。だがSNSに投稿した後の反応を気にし始めると、楽しさの質が変わる。撮影会に行って他の人の機材を見ると、自分のカメラが急に貧相に見える。ベテランの人に「その設定だと」と言われると、楽しかった時間が一気に萎む。 カメラ界隈がしんどいのは、撮影技術の問題ではない。人間関係とインセンティブの構造の問題だ。 経験年数が正しさになる権威勾配 カメラ界隈には、「長くやっている人の意見が正しい」という暗黙の序列がある。これはあらゆる趣味コミュニティに共通する構造だが、カメラ界隈では特に強い。写真には明確な正解がないため、正しさの根拠が「経験年数」に依存しやすいのだ。 技術的な正解はある程度存在するが、「いい写真とは何か」に正解はない。正解がない領域では、経験年数が権威の代替指標として機能する。 結果として起きるのは、「長くやっている人が新しい人に教える」という一方的な関係の固定化だ。教えてもらう側は意見を言いにくくなり、教える側は自分の基準が正しいと確信を深める。フィードバックのループが閉じて、多様な視点が排除され

By Sakashita Yasunobu

大学生活

講義室に降る小さな棘が論文になるまで

講義中、教授の話を聞いていて、ふと「あ、これ論文になりそうだ」と感じる瞬間がある。その感覚の正体は何か。 それは知識の蓄積から来るのではない。違和感から来る。 研究の種は違和感にある 研究は「たくさん知っているから始められる」のではない。「何かおかしい」「これは本当か」という違和感が、研究の出発点になる。 教授が「一般にXである」と言ったとき、「でも自分の経験ではYだったけど」と感じる。その瞬間、一般論と個別の経験の間にズレが生じている。このズレに気づけることが、研究の種を見つける力だ。 種が見つかる4つのパターン 違和感にはいくつかの典型的なパターンがある。 ズレ。 通説と自分の実感が合わない。教科書には「Aである」と書いてあるが、実際に観察するとAでないケースがある。このズレは「本当にAなのか。どういう条件ではAが成り立たないのか」という問いになる。 例外。 一般論に当てはまらないケースが見つかる。理論が「すべてのBはCである」と主張しているとき、CでないBを一つ見つければ、理論の修正が必要になる。例外は理論の弱点を示す。 矛盾。 AもBも正しいように見えるが

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

自分だけが知らない

1999年、二人の心理学者がひとつの実験で暴いた構造は単純だった。能力のない人間は、自分に能力がないことを知る能力すら持っていない。つまり、あなたが「自分は大丈夫だ」と思えば思うほど、あなたはおそらく大丈夫ではない。そしてそのことに、あなたは永遠に気づけない。 二重の呪い コーネル大学の心理学者ジャスティン・クルーガーとデイヴィッド・ダニングは、1999年に Journal of Personality and Social Psychology 誌にひとつの論文を発表した。タイトルは「Unskilled and Unaware of It(能力がなく、そのことに気づかない)」。 彼らが実施した実験では、論理的推論、英文法、ユーモアの理解力という3つの領域でテストが行われた。結果は明快だった。成績が下位25%に入った参加者は、自分の成績を平均以上と評価した。一方で、上位25%の参加者は、自分の成績を控えめに見積もった。 ダニングとクルーガーはこの非対称をメタ認知の問題として説明した。メタ認知とは、自分自身の認知プロセスを認知する能力のこと。能力が低い領域では、自分の回答の質を

By Sakashita Yasunobu

光と写真

見えない光が写す もうひとつの風景

見えない光で写真を撮る、という行為がある。 カメラのシャッターを切る。構図を決め、ピントを合わせ、露出を調整する。やることは通常の撮影とまったく同じだ。ただひとつ違うのは、写し取る光が人間の目には見えないということ。赤外線写真は、可視光の向こう側にある世界を画像として定着させる技術だ。 出来上がった写真を見ると、緑の木々は真っ白に輝き、空は暗く沈み、雲だけが不気味なほどのコントラストで浮かび上がる。現実の風景を撮っているのに、現実には見えない。この矛盾が、赤外線写真の核にある面白さだ。 赤外線写真とは何か 人間の目が感知できる光(可視光)の波長は、およそ380nmから780nmの範囲だ。赤外線はその上、約780nm以降の波長を持つ電磁波で、近赤外線(780nm-2500nm程度)は写真撮影に利用できる領域にある。 フィルム時代には、赤外線に感光する専用フィルムが存在した。代表的なのはKodak High Speed Infrared(通称Kodak HIE)で、粒子の粗さと独特のハレーションが赤外線写真の「あの雰囲気」を作っていた。残念ながら2007年に製造終了している。

By Sakashita Yasunobu

生きること

永遠の素振り

あなたはいつから素振りばかりしている。 バットを構え、腰を回し、フォームを確認する。鏡の前で。壁に向かって。千回。一万回。フォームは洗練される。筋肉は覚える。あなたは確実に上手くなっている。ただ、ボールは一球も飛んでこない。打席に立つ予定もない。 上手くなることは、いつから目的になったのだろう。そしてもっと厄介なことに、その問いを誰も発しない。 手段が目的を食い殺す アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、人間の行為にはそれ自体が目的であるもの(それ自体のために選ばれるもの)と、何か別のもののための手段であるものがあると論じた。笛を吹く技術は笛を吹くためにあり、医術は健康のためにある。すべての技術(テクネー)は、その外部にある何かを実現するために存在する。 ところが、手段と目的の関係はしばしば反転する。 ギターを弾くのは、誰かに聴かせたいからだったはずだ。しかしいつの間にか、スケールの速弾きが何小節続くかのほうが重要になる。語学を学ぶのは、誰かと話すためだったはずだ。しかしいつの間にか、検定試験のスコアを1点でも上げることのほうが重要になる。写真を撮るのは、何かを記録した

By Sakashita Yasunobu

生きること

「なんとなく嫌」の分解

嫌いなものなら説明できる。辛い食べ物が嫌い。寒い朝が嫌い。理由は明快で、誰に聞かれても答えられる。しかし「なんとなく嫌」は違う。理由がない。理由がないのに避けたい。避けたい理由を聞かれると困る。困るから「なんとなく」と言う。 「なんとなく」は説明の放棄ではなく、正確な記述だ。本当に「なんとなく」なのだから。 「嫌い」と「なんとなく嫌」は別の現象である 「嫌い」には構造がある。対象があり、理由があり、経験がある。犬に噛まれたから犬が嫌い。怒鳴られた記憶があるからあの部屋が嫌い。原因と結果が追跡可能だ。 「なんとなく嫌」には構造がない。あるいは、構造が見えない。特定のUIを触ったときの居心地の悪さ。特定の言い回しに対する微かな反発。特定の場所に入ったときの、帰りたいという衝動。どれも、問い詰められれば答えに窮する。 この二つは質的に異なる。「嫌い」は意識の出来事だ。「なんとなく嫌」は意識の手前の出来事だ。身体が先に反応し、意識が後から「なんとなく嫌だ」

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

目が信じたものを名前が裏切った

完璧な贋作がある。 筆致、色彩、構図、ひび割れの一本一本まで、オリジナルと区別がつかない。世界最高の鑑定家が「傑作だ」と唸り、美術館の壁にかけられ、数十億の値がつく。そしてある日、それが贋作だと判明する。絵は一ミリも変わっていない。あなたの網膜に映る像は、昨日と一ピクセルも違わない。しかし価値はゼロになる。 何が変わったのか。 絵は同じだ。色も線も、光の反射も。変わったのは「誰が描いたか」という、目には見えない情報だけだ。もし美しさが見えるものの中にあるなら、この崩壊は説明がつかない。もし美しさが見えないものの中にあるなら、私たちはいったい何を「見て」いたのだろう。 見分けがつかない二枚の絵 ネルソン・グッドマンは1968年の著書『芸術の言語(Languages of Art)』で、美学に不穏な問いを投げ込んだ。 二つの絵画がある。一方はレンブラントの真作、もう一方はそれと視覚的に完全に同一の贋作。現在のあなたには、どちらがどちらか区別できない。この二つの絵に美的な違いはあるか。 素朴に考えれば、答えはノーだろう。見た目が同じなら、美的経験も同じはずだ。

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

存在するものは何もなかった

あなたの目の前に机がある。 そう思っている。木の板と四本の脚。引き出しの中には文房具。表面にはコーヒーの染み。それを「机」と呼ぶことに、誰も疑問を持たない。 だが、メレオロジカル・ニヒリズムはこう言う。机は存在しない。 板も脚も引き出しも存在しない。あるのは素粒子の配列だけだ。「机」とは、ある特定のパターンで並んだシンプルズ(それ以上分割できない最小単位)に、人間が貼りつけたラベルにすぎない。複合的な物体は存在しない。部分が集まって「一つのもの」を構成することは、決してない。 これはメタファーではない。文学的な誇張でもない。分析哲学の中で真剣に擁護されている存在論的立場だ。そしてこの立場を受け入れると、哲学の古典的パラドックスのいくつかが、問いとして成立しなくなる。 問いは最初から壊れていた メレオロジカル・ニヒリズムが応答しようとしている問いがある。特殊構成問題(Special Composition Question)と呼ばれるものだ。 ピーター・ヴァン・インワーゲンが1990年の Material Beings で定式化したこの問いは、こう尋ねる。「二つ以上のもの

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哲学を読む

永遠にあと半分の距離を走る

あなたはゴールに近づいている。あと半分。あとその半分。あとそのまた半分。残り距離は限りなくゼロに近づく。けれどゼロにはならない。永遠に、あと少し。2500年前のギリシャ人がこの構造に気づいたとき、彼はたぶん笑っていたと思う。あなたの人生が、亀を追いかけるアキレスとまったく同じ構造をしているのだと。 紀元前5世紀、エレアのゼノンは運動が不可能であることを論証しようとした。論証は失敗した。しかしその失敗が2500年間、哲学者と数学者の喉に刺さった小骨のように残り続けている。成功よりも長持ちする失敗というものがある。 亀はまだ先にいる もっとも有名なのは「アキレスと亀」だ。俊足のアキレスが、先にスタートした鈍足の亀を追いかける。アキレスが亀のいた地点に到達すると、亀はわずかに前進している。その新しい地点にアキレスが到達すると、亀はまたわずかに前進している。追いかけっこは無限に続く。論理的には、アキレスは永遠に亀に追いつけない。 現実のアキレスは10秒もあれば亀を追い越す。しかしゼノンの問いは「追いつけるか」ではない。「無限に分割された距離を、有限の時間でどうやって通過するのか」だ。

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

正しさの総和が全員を沈める

あなたが節約するのは正しい。隣の人が節約するのも正しい。全員が正しいことをした結果、全員が貧しくなる。これは寓話ではない。経済学が「倹約のパラドックス」と呼ぶ現象であり、哲学が「合成の誤謬」と呼ぶ構造そのものだ。 個人の合理性が集団の不合理を生むという事実は、私たちが「正しさ」と呼んでいるものの足元を静かに崩す。正しいことをしているのに世界が壊れる。それは誰のせいでもなく、だからこそ誰にも止められない。 一人が立てばよく見える 倹約のパラドックスは、ジョン・メイナード・ケインズが1936年の『雇用・利子および貨幣の一般理論』で体系化した概念だとされる。話の骨格は単純で、一人の人間が支出を減らして貯蓄を増やせば、その人の財務状態は改善する。しかし全員が同時にそれをやると、消費が減り、企業の売上が下がり、雇用が失われ、所得が減り、結果として全員の貯蓄すら減少する。 節約という美徳が、集団で実行されると災厄に変わる。 古典派経済学の立場では、貯蓄は投資に回るのだから問題は生じないはずだった。セイの法則、すなわち「供給はそれ自身の需要を生み出す」という原理がそう保証していた。しかし

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

三十七兆の欠片では足りない

あなたの体は約37兆個の細胞でできている。そのひとつひとつに、ほんのわずかな「感じ」があるとしよう。痛みとも呼べない微かな何か。光とも呼べない微かな何か。では、その37兆の「微かな何か」を全部足したら、今あなたが見ているこの文字の白さ、画面の光、指先の温度、そして「これを読んでいる私がいる」という確信になるだろうか。 ならない。 少なくとも、なぜなるのか誰にも説明できない。これが結合問題(Combination Problem)と呼ばれる哲学的難問であり、意識を語るすべての試みが最終的にぶつかる壁のひとつだ。 壁の前の壁 意識にはすでに有名な難問がある。デイヴィッド・チャーマーズが1995年に定式化した「意識のハードプロブレム」。物質的な過程、つまりニューロンの発火や電気信号のやりとりが、なぜ「体験」を伴うのか。脳の中で起きていることを物理的にすべて記述できたとしても、そこに「赤の赤さ」や「痛みの痛さ」が生じる理由は説明されない。機能は説明できる。しかし「感じ」は説明できない。 これに対して、いくつかの立場がある。物理主義は、意識は物質の働きから生じると主張する。だが「

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

緑がずっと緑である保証はない

エメラルドは緑だ。これまでずっと緑だった。だから明日も緑だろう。 その「だから」の根拠を、あなたは説明できない。もしできると思ったなら、ネルソン・グッドマンの名前を覚えておいたほうがいい。1955年に彼が書いた数十ページが、帰納法という人類最大の知的習慣の足元に、修復不能な亀裂を入れた。 エメラルドの裏切り 話はシンプルだ。 あなたは1000個のエメラルドを観察した。すべて緑だった。そこから「すべてのエメラルドは緑である」と帰納する。合理的に見える。 グッドマンは「grue(グルー)」という述語を発明した。定義はこうだ。ある時点tより前に観察されたものは緑で、tより後に観察されたものは青。この述語のもとでは、あなたがこれまで見た1000個のエメラルドは、すべてグルーでもある。tより前に観察され、すべて緑だったのだから。 問題が生じる。同じ証拠が、「すべてのエメラルドは緑である」と「すべてのエメラルドはグルーである」を等しく支持している。前者が正しければ明日のエメラルドも緑だが、後者が正しければ明日のエメラルドは青い。帰納法は両方を同じ力で推している。しかし両方が正しいこと

By Sakashita Yasunobu