幸せを追う手がすべてを遠ざける
幸せになりたいと思った瞬間、幸せは一歩遠ざかる。もう一歩近づこうとすると、もう一歩逃げる。これは比喩ではない。哲学が二百年かけてたどり着いた、ほとんど冗談のような構造的事実かもしれない。
快楽を目的にすると快楽が手に入らない。ヘンリー・シジウィックは『倫理学の方法』でこの構造を「快楽主義のパラドックス」と名づけた。そしてこのパラドックスは、いまだに解かれていない。解かれていないどころか、あなたの生活の中で、毎日、静かに作動している。
ミルが崩れた朝
ジョン・スチュアート・ミルは20歳で壊れた。
ベンサム流の功利主義を幼少期から叩き込まれ、「最大多数の最大幸福」を人生の座標にしていた青年が、ある朝ふと自問する。「すべての改革が実現したとして、それは自分にとって大きな喜びだろうか?」。答えは、Noだった。
ミルはこの経験を『自伝』第5章「わが精神の危機」に記している。目標がすべて達成されても幸福にならないのなら、その目標の追求とはいったい何だったのか。目的地にたどり着いたはずなのに、そこには何もなかった。彼が直面したのは、快楽主義のパラドックスの個人版だったのかもしれない。
ミルの危機が示唆しているのは、幸福を直接の目的にすると幸福そのものが蒸発するという、ほとんど悪意のある構造だ。ミルは後にこう書いた。幸福はそれ自体を目的として追求するのではなく、別の目的を追求する過程で副産物として得られるものだ、と。
ミルの快楽論にはもう少し込み入った話がある。知への渇望で触れた「満足した豚と不満足なソクラテス」の議論を思い出すかもしれない。快楽に質的な区別を持ち込んだミルは、快楽そのものの定義をすでに壊していたとも言える。量で測れないものを追求するとは、そもそもどういうことなのか。
没頭という裏口
チクセントミハイのフロー理論が描く「最適体験」は、快楽主義のパラドックスの裏側を照らしている。
フロー状態にある人は快楽を求めていない。挑戦とスキルのバランスが取れた状態で、行為そのものに没入している。そして皮肉なことに、快楽を意識していないそのときにこそ、最も深い満足が訪れる。フローを経験した人は、その状態を「ゾーンに入る」「すべてがかみ合う」と表現する。けれど「ゾーンに入ろう」と意識した瞬間にゾーンは消える。
快楽は目標ではなく、何かの副産物としてしか現れないものなのかもしれない。だとすれば、快楽を人生の目的に据えること自体が、構造的に矛盾している。虚空をつかむで描いたヘドニック・トレッドミルの構造とも通じる。手を伸ばすと消えるのは、快楽だけではない。幸福そのものがそうなのかもしれない。
快楽がゼロでも意味はありうるか
ヴィクトール・フランクルは強制収容所で生き延びた。
フランクルのロゴセラピーは、フロイトの「快楽への意志」やアドラーの「力への意志」に対して、「意味への意志」を人間の根源的な駆動力として提示した。極限状態で快楽がゼロになっても、意味を見出すことで人は生き延びることができた。フランクルの観察は、快楽と意味が同じものではないことを、これ以上ないほど鮮明に示している。
逆もまた成り立つのかもしれない。快楽が最大であっても意味がないことがある。ロバート・ノージックの経験機械がまさにそのケースだ。あらゆる快楽を完璧にシミュレートする機械に接続されれば、主観的には最高の人生を送れる。しかし多くの人がその機械への接続を拒否する。幸福という自殺で考えたように、快楽の総量が最大でも、それが「本物」でないなら、何かが決定的に欠けている。
苦しみは何も教えないで触れたフランクルの洞察をここで反転させてみよう。苦しみに意味があるかどうかと、快楽に意味があるかどうかは、実は同じ問いの裏表なのかもしれない。どちらも、「意味」という概念が快楽や苦痛とは独立に存在しうることを前提にしている。
「いいね」は副産物でしかない
この構造は、日常のはるかに卑近な場所でも作動している。
たとえばSNS。「いいね」による承認を直接追求すると、承認への依存が加速し、投稿の目的が承認の獲得へと転倒する。しかし何かに本気で没頭しているとき、その結果として得られる反応は、たしかに快楽として機能する。目的と副産物が入れ替わった瞬間に、すべてが壊れる。
マラソンでも似たようなことが起こる。ランナーズハイを目的に走っても、ランナーズハイは来ない。走ること自体に集中しているとき、副産物として訪れる。「面白い話をしよう」と意気込むと話はつまらなくなるが、本気で伝えたいことを語ると、結果として面白くなる。旅先で「映える写真」を撮ろうとカメラに集中すると、旅そのものの体験が手からすり抜けていく。
どの例にも同じ構造が見える。快楽を意識した瞬間、快楽は対象から手段に変わり、手段に変わった瞬間に蒸発する。
欲望の振り子は止まらない
ショーペンハウアーは人間の存在を「欲望の振り子」として描いた。欲望が満たされれば退屈が来る。退屈に耐えかねて新たな欲望が生まれる。そしてまた渇望の苦しみが始まる。この振り子は止まらない。
快楽主義のパラドックスとショーペンハウアーの振り子は、異なる角度から同じ構造を指しているのかもしれない。快楽を追うと快楽が逃げる。快楽を手に入れると快楽が消える。どちらに転んでも快楽は持続しない。ヘドニック・トレッドミルの心理学的知見も、ここに重なる。人は良い出来事にも悪い出来事にも適応し、幸福度は基準点に回帰する。快楽の追求は、走り続けても同じ場所にいるトレッドミルそのものだ。
良い人生なんてないで考えた問いが、ここでも反響する。良い人生が快楽の総量で測れないのだとしたら、いったい何で測ればいいのか。あるいは、測ること自体が間違っているのか。
問いの底が抜ける
ここまで来ると、ひとつの素朴な疑問が浮かぶ。快楽を追わなければいいのか。代わりに「意味」を追えばいいのか。
しかしここにも罠が待っている。「意味」を直接追求すると、意味もまた逃げる可能性がある。意味という病で描いたように、意味への渇望もまた際限なく肥大しうる。意味を追いかけることが新たなトレッドミルになるなら、快楽主義のパラドックスは快楽に限定された話ではない。目的を持つことそのものが、目的の達成を不可能にするという、より根源的な構造が潜んでいるのかもしれない。
カミュはシシュポスに向き合った。岩はまた転がり落ちる。永遠に頂上に届かない岩を押し上げ続けるシシュポスを、カミュは「幸福だと想像しなければならない」と書いた。しかし、それもまた快楽主義のパラドックスの変奏ではないのか。シシュポスが「自分は幸福だ」と意識した瞬間に、その幸福は蒸発するのではないか。
快楽を追うと快楽が逃げる。意味を追っても意味が逃げるかもしれない。没頭すればいいと言われても、「没頭しよう」とする意志が没頭を妨げる。
結局のところ、幸せになる方法を考えている限り、幸せにはなれないのかもしれない。そしてこの文章を読んでいるあなたも、おそらく「では、どうすればいいのか」と考えている。
その問い自体が、パラドックスの一部だ。
手を伸ばすと消える。手を引っ込めても、戻ってくるとは限らない。