鏡の向こうにもう一人の私が立つ
あなたの脳を真ん中で割って、左半球をAの体に、右半球をBの体に移植する。どちらも目を覚ます。どちらもあなたの記憶を持っている。どちらもあなたの性格で、あなたの価値観で、あなたの好きな音楽を口ずさむ。
さて、どちらがあなたか。
両方だと言えば、一人の人間が二人になったことになる。どちらでもないと言えば、記憶も性格もそのままなのに、あなたは死んだことになる。片方だけだと言えば、もう片方が「自分はあなただ」と訴えたとき、何と答えるつもりなのか。
デレク・パーフィットが1984年の『理由と人格(Reasons and Persons)』で突きつけたのは、この三択のどれを選んでも行き止まりだという事実だった。そしてパーフィットの答えは、三択そのものを踏み潰すものだった。同一性なんて、そもそも重要ではない(identity is not what matters)。
どこが私という問いは、テセウスの船から転送装置まで手を替え品を替え問われてきた。だがパーフィットの分裂は、その問いの急所を別の角度からえぐる。転送装置が「コピーは本人か」という一対一の問題だとすれば、分裂は「一人が二人になったら本人はどこにいるのか」という一対多の問題だ。そしてこの一対多の構造が、同一性という概念そのものを内側から食い破る。
三つの選択肢、三つの行き止まり
パーフィットの分裂のシナリオを整理しよう。
脳の左半球と右半球は、それぞれある程度独立した機能を持つ。実際に、重度のてんかん治療として脳梁(左右の半球をつなぐ神経線維の束)を切断する手術が行われてきた。ロジャー・スペリーが1960年代に行った離断脳の研究では、脳梁を切断された患者の左右の半球がそれぞれ独立した認知を示すことが確認されている。左半球は言語を処理できるが、右半球は言語を扱えない。右半球に提示された情報について左半球は何も知らず、その逆もまた然り。スペリーはこの研究で1981年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
一つの脳に二つの認知領域が共存しうるという事実。これは思考実験の前提を現実が先取りしている。
パーフィットはここからさらに踏み込む。もし片方の半球だけでも人格を維持できるなら(実際に半球切除術を受けて生存する患者は存在する)、両方の半球をそれぞれ別の体に移植したらどうなるか。
選択肢1. 私はどちらか一方として生き残る。 だが、どちらか。左半球か、右半球か。両方がまったく同じ資格であなたの記憶と性格を引き継いでいるとき、一方だけを「本人」とする根拠がない。コインを投げて決めるのか。
選択肢2. 私は生き残らない。 だが、もし片方の半球だけが移植されていたら、あなたはその人物として生き残ったはずだ。もう片方の半球が別の体で目を覚ましたという事実が、なぜあなたを殺すのか。パーフィットはこの不合理を鮮やかに突く。寿命を倍にする薬があったとして、それを飲むことを「死」と呼ぶ人がいるだろうか。分裂との違いは、余分な年月が並行して走るということだけだ。
選択肢3. 私は両方として生き残る。 だが、AとBは分裂の瞬間から別々の経験を積み、別々の人生を歩み始める。一時間後には、AはコーヒーをBは紅茶を飲んでいるかもしれない。一年後には、まったく別の人間になっているかもしれない。「一人の人間が同時に二人である」という主張は、同一性という概念の基本的な性質、つまり同一性が一対一の関係であるという前提を壊す。
三つの扉を開けた先に、三つの壁がある。
同一性は重要ではない
パーフィットの結論は、三択の中から正解を選ぶことではなかった。問いそのものを退けることだった。
パーフィットの立場は「還元主義(reductionism)」と呼ばれる。人格の同一性とは、何か深い形而上学的事実(a further fact)ではない。それは脳と体の存在、記憶や性格の連続、経験の流れといった、より基本的な事実の組み合わせに還元される。社交クラブの存在がメンバーとその関係に還元されるように、「私」という存在もまた、心理的・物理的な出来事の束に還元される。
そして、もし人格の同一性がそうした事実の束にすぎないのだとすれば、分裂のケースで「本当はどちらが私なのか」と問うことには、答えがない。答えがないのは私たちの知識が足りないからではなく、答えるべき「さらなる事実」が存在しないからだ。
パーフィットはここからさらに進む。重要なのは同一性ではなく、心理的連続性(psychological continuity)だ、と。記憶の連鎖、性格の持続、意図の引き継ぎ。こうした心理的なつながりが保たれていれば、それは「ほぼ生存と同じくらいよいもの(nearly as good as survival)」だとパーフィットは言う。
分裂のケースでは、AもBもあなたと心理的に連続している。だから、あなたにとって重要なもの(what matters)は保たれている。同一性は失われたかもしれない。だが重要なものは失われていない。
この論理を受け入れるなら、奇妙な帰結が待っている。明日あなたが死んでも、あなたの心理的連続性を引き継ぐ誰かがどこかにいるなら、それはあなたの死をほとんど無害なものにする。パーフィット自身がそう書いている。「私の死は、以前ほどには悪くないと思えるようになった」。
あなたは死ねないという問題系がここで裏返る。死が悪くないのではない。「私」が死ぬということの意味が、思っていたより薄いのかもしれない。
反論の地形
パーフィットの議論は、当然のことながら、激しい反発を受けた。
バーナード・ウィリアムズは、パーフィットが三人称的な視点から同一性を論じていると批判した。分裂の思考実験を外から眺めて「どちらでもいい」と言うのは簡単だ。だが、もし明日あなた自身が分裂するとしたら。分裂後のAが拷問を受けると告げられたとき、あなたは「心理的連続性が二つに分岐するだけだから問題ない」と言えるだろうか。一人称の恐怖は、三人称の形而上学では回収できないかもしれない。
マーク・ジョンストンは、パーフィットの議論が自己敗北的だと論じた。もし同一性が重要でないなら、心理的連続性もまた重要ではないのではないか。パーフィットが「重要なもの」として心理的連続性を救い出そうとする動き自体が、同一性の重要性を前提としているように見える。
エリック・オルソンは、パーフィットの還元主義が暗黙のうちに「寛大な存在論(capacious ontology)」を前提にしていると指摘した。分裂前のあなたと分裂後のAが「異なる人物」でありうるためには、時空間的に重なり合う複数の人物が同時に存在しうるという存在論的な前提が必要になる。だがその前提を認めてしまうと、分裂前からすでにあなたとAは異なる人物だったことになり、パーフィット自身の議論の前提が揺らぐ。
どの反論も、パーフィットの議論を完全には潰していない。だが、どの反論も、パーフィットの議論が何かを踏み抜いていることを示している。
境界が溶ける場所
パーフィットの分裂問題が本当に不穏なのは、それが「私」の境界を曖昧にするからだ。
砂を数えるように、心理的連続性は程度の問題だ。あなたは10年前のあなたとどの程度心理的に連続しているか。記憶の半分は失われ、性格は変わり、価値観は更新されている。それでもあなたは「同じ人間だ」と言う。では30パーセントの心理的連続性では。10パーセントでは。どこかに線を引けるだろうか。
パーフィットの還元主義を受け入れると、「私」と「私でないもの」の境界は、砂山と砂山でないものの境界と同じくらい曖昧になる。一粒の砂を取り除いても砂山は砂山だ。だがそれを繰り返せば、どこかで砂山は消える。同じように、心理的連続性を少しずつ薄めていけば、どこかで「私」は消える。だがその「どこか」を指し示すことは誰にもできない。
名前だけが残るのだとすれば、名前が指し示す対象そのものが、実はぼんやりとした輪郭しか持っていなかったということになる。
そしてこの曖昧さは、倫理を根底から揺さぶる。もし「私」が程度の問題なら、誰のせいでもないという直感がさらに深くなる。10年前に罪を犯した人間と今の人間が心理的に大きく断絶しているとき、今の人間を罰することの正当性はどこにあるのか。取り消せないものを背負いなおも歩くことの重さは、「私」の連続性がどの程度保たれているかに依存するのかもしれない。
一つの脳に二つの意識
思考実験の話をしているうちに忘れそうになるが、「一つの脳に複数の意識」は、ある程度までは医学的事実だ。
スペリーの離断脳研究では、脳梁を切断された患者の左右の半球が互いに独立して認知を行うことが示された。右手が拾い上げたものを左手が知らない。左半球が言語で説明を試みる一方で、右半球は言語を持たないまま独自の判断を下す。ある実験では、右半球に「歩け」という指示を出すと患者は立ち上がって歩き始めたが、言語を司る左半球は「水を取りに行こうと思った」とまったく別の理由を後付けで語った。
あなたには何も見えていないという問いがここで生々しくなる。あなたの脳の右半球は、あなたの左半球に何も見えていない世界を生きている。逆もまた然り。脳梁というケーブルが二つの世界をかろうじて一つに縫い合わせているだけだとすれば、「一つの意識」という感覚そのものが、物理的な接続に依存した偶然の産物なのかもしれない。
2025年のカリフォルニア大学サンタバーバラ校の研究では、脳梁のごくわずかな部分が残っているだけでも、左右の半球の統合が維持されうることが報告された。つまり意識の統一は、全か無かではなく、接続の程度に依存している可能性がある。これはパーフィットの「程度の問題」というテーゼを、神経科学の側から補強するような結果だと言えるかもしれない。
どこにも帰着しない問い
パーフィットの分裂問題を真剣に受け止めると、妙な安堵が訪れるかもしれない。「私」がそれほど確固たるものではないなら、死の恐怖は軽くなる。失敗の痛みも薄れる。変化への恐れも和らぐ。パーフィット自身が「砂漠に閉じ込められていたのが、突然ガラスの壁が消えて外が見えたような」解放感を語っている。
だが、その安堵を信じるべきかどうかは、別の問題だ。
パーフィットの議論は、仏教の無我(アナートマン)思想との親和性がしばしば指摘される。固定的な自己は存在せず、あるのは経験の流れだけだという点で、両者は確かに似ている。だが仏教の無我は、苦の滅却という実践的な目的を持つ。パーフィットの還元主義には、そうした救済の約束がない。「私」が幻想だとわかっても、幻想の中で痛みを感じている何かは残る。
暗闇の中でも、あなたは明日も誰かを愛そうとする。分裂後のAもBも、それぞれの暗闇の中で、それぞれの誰かを愛そうとするだろう。パーフィットの形而上学がどんな結論を出そうとも。
同一性が重要ではないと頭で理解することと、明日の自分が今日の自分であることをやめる恐怖を手放すことの間には、概念では埋められない溝がある。パーフィットはその溝の存在を知っていた。知っていて、溝の向こう側に立とうとした。だが溝は、おそらく、まだそこにある。
あなたが二人になったとき、どちらの目から涙が出るのかは、哲学には答えられない。