取り消せないものを背負いなおも歩く

誰にでも、思い出すと胸のあたりが重くなる過去がある。

深夜に突然蘇る、何年も前の失言。もう関係のない相手に向けた、取り消せない行動。記憶の底に沈めたはずの場面が、何の前触れもなく浮上して、布団の中で目を閉じたまま呻く。あの経験を、多くの人が共有しているだろう。

「やらかし」という言葉は軽い。だがその軽さの裏には、自分自身の過去をどう扱えばいいか分からないという、重い問いが隠れている。罪は永遠に背負い続けなければいけないのか。変わった自分は、過去の自分と同じ人間なのか。赦しとは何であり、誰に権利があるのか。

時効は三つある

法的には、時効という制度がある。刑法にも民法にも、一定の期間が経過すれば刑事責任や損害賠償請求権が消滅する仕組みが組み込まれている。社会制度としての法は、「永遠に罰する」設計にはなっていない。

しかし「社会的な時効」と「法的な時効」と「心理的な時効」は、それぞれ別の時計で動いている。

法的な時効が成立しても、社会がそれを忘れるとは限らない。インターネット以降、記録は消えない。デジタルタトゥーという比喩が定着したのは、一度オンラインに刻まれた情報が、本人の意志とは無関係に永続するからだ。10年前の炎上ログが検索一つで蘇る。法的にはとうに時効だが、社会的にはまだ現役だ。

心理的な時効は、さらに個人的な時間軸で進む。被害者が赦すまでにかかる時間は人によって違うし、赦す義務もない。加害者の側の罪悪感も、時間が解決するとは限らない。20年前の失言を、今でも夜中に思い出す。法も社会も忘れたのに、自分だけが忘れられない。

赦しと忘却は違う

「赦し」と「忘却」と「贖罪」は、しばしば混同されるが、まったく別の行為だ。

赦しは被害者の行為だ。加害者が自分で自分を赦すことはできない。「赦してほしい」という欲求と、「忘れてほしい」という欲求と、「償いたい」という欲求は、三つの異なる方向を向いている。

赦せないまま死ぬという事態は、現実に起こりうる。赦しは常に可能なわけではない。被害が深刻すぎる場合、被害者がすでに亡くなっている場合、あるいは被害者自身が赦す準備ができていない場合。赦しを強要することは、二次的な加害になりうる。「もう赦してあげなよ」という善意の圧力は、被害者の権利を軽視している。

キャンセルカルチャーと呼ばれる現象は、この構造の歪みを映している。過去の言動が掘り起こされ、文脈を切り離された状態で拡散され、弁明の機会を経ずに社会的制裁が完了する。赦しのプロセスが丸ごと省略されている。被害者が赦すかどうかを判断する前に、無関係の第三者が断罪を終えてしまう。

過去の自分は自分なのか

10年前の自分を思い出す。あの頃の判断基準、価値観、知識、感性。今の自分とは、ほとんど別人のように感じることがある。

身体を構成する細胞の多くは、およそ7年から10年で入れ替わるとされる(骨格や神経細胞など、入れ替わりの遅い組織も存在するため、すべてが入れ替わるわけではない)。物質的にはかなりの部分が「別の身体」になっている。記憶も変容する。記憶は記録ではなく再構成だ。思い出すたびに微妙に書き換えられることが、認知心理学の研究で示されている。

それでも、社会は過去の自分と現在の自分を「同一人物」として扱う。どこが私なのかという問いは哲学の古典的なテーマだが、法と社会の実務においては、人格の連続性は疑いなく前提されている。過去に犯した行為の責任は、現在の自分が引き受ける。当然のこととして。

だが「本当に変わった」ことを外部から証明する方法は、実質的に存在しない。変わったかどうかを判定する客観的な基準がない以上、社会は過去の行動で人を評価するしかない。過去でしか判断できないのは、現在を測る手段がないからだ。

スケールと注目の非対称性

やらかしには大小がある。万引きと殺人では当然、重みが違う。

しかし、SNS上での炎上の規模と行為の重大さは、ほとんど比例しない。些細な失言が何万回もリツイートされて大炎上する一方で、深刻な不正が報じられても数日で忘れられることがある。注目経済の構造がそこにある。拡散されやすいのは「怒りやすい」コンテンツであって、「重大な」コンテンツではない。

さらに厄介なのは、「やらかし」の定義そのものが時代とともに変わることだ。30年前には問題にならなかった発言が、今日の基準では許容されない。これは社会の感度が上がったとも言えるし、過去の行為を現在の基準で裁くという遡及的な問題を孕んでいるとも言える。線はどこにもなかったという境界の問題が、ここにも顔を出す。セーフとアウトの境界は、固定されていない。

変われるのか、という問い

「人は変われるのか」という問いに、安易にイエスと答えることはしたくない。

変われる部分はある。知識は増える。視野は広がる。かつての自分がなぜあの行動をとったのかを理解できるようになることもある。しかし、変わらない部分もある。性格の基底にある傾向、ストレス下での反応パターン、無意識の偏見。これらは努力で修正できる範囲に限界がある。

誰のせいでもないという問いを思い起こせば、そもそも過去の自分が「なぜそうしたか」を遡ると、環境、教育、遺伝、偶然、その時点での情報量といった、自分ではコントロールできなかった要因に行き当たる。だからといって責任がないとは言えない。しかし、「あのとき別の選択ができたはずだ」と言い切ることも、実は難しい。

変われるかどうかは、個人の意志だけの問題ではない。環境が変わらなければ、行動も変わりにくい。「反省しました」という宣言に意味があるのは、反省が行動の変化として外部に現れたときだけだ。言葉だけの反省は、自己弁護と区別がつかない。

背負い方

罪を永遠に背負い続ける必要があるかどうかは、分からない。

ただ、一つだけ言えることがある。過去を消すことはできない。消そうとする試みは、たいていうまくいかない。記録を削除しても記憶は残る。謝罪しても、された側の傷が消えるとは限らない。

できるのは、過去と現在の間に距離を作ることだ。距離は否認ではない。「あれは自分がやったことだ」と認めた上で、「今の自分はあのときとは違う判断をする」と示し続けること。証明はできない。だから、示し続けるしかない。

人生に筋書きはない。やらかしを含めて、すべてが偶然と選択の積み重ねだ。過去の失敗が現在の自分を規定するわけではない。しかし、過去の失敗を無視して現在の自分が成り立つわけでもない。

バタフライエフェクトを本気で受け取るなら、気づいていないだけで、自分がとんでもない連鎖の起点になっている可能性はある。善いほうにも、悪いほうにも。すべてを把握することは不可能だ。だから、把握できる範囲で誠実に振る舞うことしか、実際にはできない。それが十分なのかどうかは、誰にも分からない。分からないまま、歩くしかない。

Read more

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu