まだ覚めていない

今朝、あなたは目を覚ました。

そう信じている。けれど、その「信じている」という状態そのものが、夢の中で毎晩起きていることとどう違うのか。夢の中でも、あなたは自分が起きていると思っている。夢の中でも、目の前のものは確かに存在すると感じている。そして覚めた瞬間に、それがすべて嘘だったと知る。

では、今この瞬間が「覚めた側」であるという保証は、どこにあるのか。

この問いは、哲学史の中で何度も繰り返されてきた。しかし奇妙なことに、夢は懐疑の道具として使われるばかりで、夢そのものについて問われることは少なかった。夢とは何か。夢の中の「私」は誰か。覚醒と夢の境界は、本当に引けるのか。この記事は、その問いの中に沈んでいく。

蝶の見た夢

荘子がある日、蝶になった夢を見た。目を覚ますと、自分が蝶の夢を見た人間なのか、人間の夢を見ている蝶なのか、わからなくなった。

この逸話は二千年以上前のものだが、いまだに哲学的に解決されていない。荘子が突きつけたのは、単なる認識論的な懐疑ではない。夢と覚醒の区別そのものが、どちらの側からも正当化できないという構造的な問題だ。覚醒の側から「あれは夢だった」と言うことはできる。しかし、夢の側から「これは夢ではない」と言うこともまた、夢の中では完全に自然なことだ。

デカルトは『省察』で夢の懐疑を展開したが、彼の目的は夢を理解することではなかった。夢は、感覚の信頼性を揺さぶるための道具にすぎなかった。何も確かではないという懐疑の入口として夢を使い、そこからコギトへ、神の存在証明へと進んだ。夢そのものは、踏み台として使われただけだ。

しかし、踏み台にされた夢の側から問い返してみたい。デカルトが夢から覚めたと確信した根拠は何だったのか。彼は最終的に、夢は記憶の連続性を欠いている、と述べた。覚醒の経験はひとつの連続した物語としてつながるが、夢はそうではない、と。しかしこの基準は、夢の中にいる時点では使えない。夢の中では、記憶の連続性が欠けていることに気づかないからだ。

夢の中の「私」

夢の中で、あなたは誰なのか。

一見、愚問に思える。夢の中でも「私」は「私」だろう、と。しかし、夢の中の「私」をよく観察してみると、覚醒時の自己とは微妙に、ときに根本的に異なっている。

夢の中の「私」は、ありえない状況を疑問に思わない。空を飛んでいても、死んだはずの人と話していても、それを奇妙だとは感じない。批判的思考がほぼ停止している。覚醒時の「私」を特徴づけるもの、つまり反省的な意識、論理的な判断、自己モニタリングの能力、そのほとんどが夢の中では失われている。

では、それらが失われた状態の「私」は、本当に「私」なのか。どこが私かという問いは、覚醒時にも十分に困難だが、夢はこの問いをさらに鋭くする。もし自己同一性の核が反省的意識にあるなら、夢の中の「私」は「私」の不完全なコピーかもしれない。もし身体感覚にあるなら、夢の中の身体はどこにあるのか。もし記憶の連続性にあるなら、夢が覚醒時の記憶をしばしば歪め、捏造するという事実は何を意味するのか。

夢の中の「私」は、覚醒時の「私」のいくつかの機能を保持しながら、別のいくつかを完全に欠いている。それは「私」の一部なのか、それとも「私」に似た別の何かなのか。

フロイトの鍵、メルロ=ポンティの手

夢をどう理解するかについて、二つの大きな流れがある。

フロイトは夢を暗号として読んだ。1900年の『夢判断』で、彼は夢を「無意識への王道」と呼んだ。夢には顕在内容(manifest content)と潜在内容(latent content)があり、顕在内容は検閲によって歪められた潜在的な願望の表現である、と。夢は解読されるべきテキストであり、その背後には隠された意味がある。

このアプローチの功績は大きい。夢を単なる生理的ノイズではなく、意味のある心的現象として真剣に扱った。しかし同時に、フロイトのアプローチには構造的な限界がある。夢を「何かの表象」として扱う時点で、夢の経験そのものは二次的なものになる。夢で見たものは「本当の意味」への入口にすぎず、夢そのものの現れ方、感じ方、在り方は問われない。

これに対して、現象学は夢を解読するのではなく、夢の現れ方そのものを記述しようとした。メルロ=ポンティの身体論から見れば、夢における知覚の変容は、身体と世界の関係の変容として理解される。夢の中で私たちは身体を持っているが、その身体は覚醒時とは異なる仕方で世界と関わっている。重力が効かない。壁をすり抜ける。しかしそれでも、夢の中の経験には独自の整合性がある。

メダルト・ボスはハイデガーの現存在分析をもとに、夢を「世界内存在の一つの様態」として捉えた。夢は何かを隠しているのではない。夢はそれ自体として一つの開示であり、覚醒とは異なる仕方で世界が開かれている状態だ。ボスにとって、フロイトの「潜在内容」という概念は不要であり、むしろ夢の顕在的な現れそのものが重要だった。

フロイトは夢の背後に意味を探した。現象学は夢の表面に意味を見た。どちらの問い方が正しいのかは、たぶん決着がつかない。しかし、どちらのアプローチも共通して前提にしていることがある。夢は何らかの仕方で「経験」である、ということだ。

マルコムの沈黙

この前提そのものを否定した人がいる。

ノーマン・マルコムは1956年の論文と1959年の著書『夢見ること(Dreaming)』で、夢は経験ではないと主張した。後期ウィトゲンシュタインの言語哲学に依拠しながら、マルコムはこう論じた。ある出来事が「経験」であると言えるためには、その出来事が起きている最中にそれを確認する手段がなければならない。しかし、夢が起きている最中に「これは夢だ」と判断することは(通常は)できない。夢の経験を報告する唯一の手段は、覚醒後の記憶だが、覚醒後の報告が睡眠中の意識状態を正確に反映しているかどうかを検証する方法はない。

したがって、とマルコムは結論づけた。「私は夢を見ていた」という報告は、睡眠中に何らかの意識的経験が生じていたことの証拠にはならない。夢の報告は、覚醒時に生じる一種の言語行為であって、睡眠中の出来事の記述ではない。

マルコムの見解は現在ではほぼ否定されている。REM睡眠の発見や、睡眠中の脳活動の研究、とりわけ明晰夢の実験的検証は、睡眠中に何らかの意識的経験が生じていることを強く示唆している。しかし、マルコムの問いそのものは消えていない。覚醒後の報告が、夢の経験をどこまで正確に捉えているのか。私たちが「夢を見た」と語る時、その語りはどこまで信頼できるのか。

覚醒の中の夢

明晰夢(lucid dreaming)は、この問題に奇妙な裂け目を入れる。

明晰夢とは、夢の中で「これは夢だ」と自覚している状態だ。1970年代にキース・ハーンが、1980年代にスティーヴン・ラバージが、明晰夢中の被験者が事前に決められた眼球運動のパターンで合図を送れることを実験的に示した。つまり、夢の中にいながら、覚醒世界と通信できることが確認された。

脳科学的には、明晰夢は覚醒と非明晰夢の中間的な状態であることが示唆されている。通常の夢では低下している前頭前皮質の活動が、明晰夢では部分的に回復する。自己反省や批判的思考に関わる脳領域が、夢の中で再び「点灯」する。

しかし、哲学的に興味深いのは、明晰夢が覚醒と夢の二分法を揺るがすことだ。明晰夢は夢でありながら、覚醒時の特徴である自己反省を含んでいる。それは「目覚めた夢」なのか、それとも「夢見る覚醒」なのか。意識には明確なオン・オフのスイッチがあるのではなく、さまざまな認知機能が独立に活性化したり低下したりするグラデーションがあるのかもしれない。

明晰夢者は夢の中で「これは夢だ」と知っている。しかし、覚醒時に「これは夢ではない」と知っているのと、構造的にどう違うのか。明晰夢者の確信が正しいのは、覚醒後に確認できるからだ。では、覚醒者の確信が正しいことは、何によって確認されるのか。

夢の中で泣いたことがある

哲学的に議論を積み重ねても、ひとつの事実が残る。夢の中の感情は、本物だ。

夢の中で恐怖を感じれば、心拍数は実際に上がる。夢の中で悲しみを感じれば、涙を流すこともある。夢の中の知覚的内容がどれほど荒唐無稽であっても、それに伴う感情は覚醒時の感情と生理学的にほぼ同一だ。

嘘に泣くことがあるように、夢にも泣く。フィクションも夢も、「実在しない」ものに対して本物の感情を引き起こす。しかし、夢はフィクションとも異なる。フィクションに触れている時、私たちはそれがフィクションであることを知っている(少なくとも通常は)。夢の中では、その距離がない。夢の中の恐怖は、現実の恐怖と区別する手段を持たない恐怖だ。

この事実は、夢の存在論的地位について何かを語っている。夢の中の出来事が「実在しない」としても、夢の中の経験は実在する。少なくとも、その経験に伴う感情と身体反応は、覚醒時のものと同じ生理的基盤の上にある。あなたには何も見えていないのだとしても、あなたが感じていることは、少なくともあなたにとっては、嘘ではない。

時間の折り目

夢の中で時間はどう流れているのか。

ときに、夢の中では数分の出来事が何時間にも感じられる。逆に、長大な物語が一瞬で展開されたように感じられることもある。夢の中の時間は、覚醒時の時計的な時間とは明らかに異なる仕方で流れている。

メルロ=ポンティは、夢の時間が覚醒時の時間区分、つまり過去・現在・未来の区分を欠いていると指摘した。夢の中では、過去の出来事が現在として現れ、未来の不安が今ここの恐怖として経験される。時間が折り畳まれている。ベルクソンの純粋持続が、覚醒時よりもむしろ夢の中で実現しているのかもしれない。時計の時間に区切られない、質的に流れる意識の持続。

しかし、夢の時間にはもうひとつ奇妙な性質がある。夢の中では、時間が流れているという感覚と、時間が存在しないという感覚が共存する。何かが起きている。しかし「いつ」起きているのかは問えない。夢には日付がない。

そこは外ではない

ここまでの議論をまとめることは、たぶんできない。まとめようとすること自体が、覚醒の側のやり方だからだ。

荘子は蝶と人間の区別を問うた。デカルトは夢を懐疑の道具にした。フロイトは夢の背後に隠された意味を探した。現象学は夢の現れそのものを記述しようとした。マルコムは夢が経験であること自体を疑った。明晰夢の研究は、覚醒と夢の境界が思ったよりもずっと曖昧であることを示した。

どの立場にも、一定の説得力がある。そしてどの立場も、最終的な答えを出していない。

たぶん、問題はこうだ。私たちは夢について語る時、つねに覚醒の側から語っている。夢の中から夢について語ることは、原理的にできない(明晰夢はこの限界を部分的に押し広げるが、完全には克服しない)。覚醒の側からしか見えない現象について、覚醒の側の言語で、覚醒の側の論理で語ること。その語りは、夢そのものにどこまで届いているのか。

あなたには何も見えていないのだとすれば、あなたが「見ていた」と語る夢もまた、見えていなかったのかもしれない。夢について語ることは、覚めた後に残った残像を、覚醒の言語で塗り直す作業にすぎないのかもしれない。

そして、その「覚めた後」が本当に「覚めた後」であるという保証は、相変わらず、どこにもない。あなたは今、この文章を読んでいる。目は開いている。意識は明晰だ。周囲の世界は確かに存在しているように感じる。

そう感じていた。昨夜の夢の中でも。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

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